我々が南無妙法蓮華経と唱え奉ることは、日蓮大聖人の仏法が久遠元初に存することを淵源とする。有名な『総勘文抄』の文に、
「釈迦如来五百塵点劫の当初凡夫にて御坐せし時、我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき」
(御書 1419ページ)
とあり、釈迦如来も明確に説かれなかった五百塵点劫の当初、凡夫即極の成道を説き、仏法の本源を示されたのは古往今来、日蓮大聖人のほか何人もないのである。これは、一代仏教の各分野において、あらゆる悟りの浅深が示されるが、その一切の根本は凡夫即極にあるこ
とを教示されたのである。
久遠元初は三十ニ相を具えない凡夫の仏であり、末法出現の大聖人も三十二相のない凡夫のお姿である。また「地水火風空」とは、法界万法一切がこれによって存在する。故に、即妙法蓮華経である。そのに五大即妙法の悟りと成道が、凡夫の位であることも全く同一である。
末法の大聖人に、久遠元初の仏法においての仏身について証悟がましましたことが明らかである。この凡夫即極の仏を『総勘文抄』の文は「釈迦如来」と示されているが、これは一代仏教上の相対の名称である。そのわけは、仏教の釈迦の名称は小乗、大乗、権教、実教、法華
経迹門、本門と次第して、方便より真実の仏身へ、さらに文上より文底の久遠元初に到達する。
故に、これは小乗より次第に従浅至深するのであり、幾多の教法を経て昇進する相対の名称である。しかるに、日蓮の御名には全く、方便の経々による幾多の名称が存在しない。御一期の弘通の法体は、ただ南無妙法蓮華経のみである。そして、大聖人の妙法修行の境地が久
遠元初の根本証悟におわします故に、釈迦如来の根本の証悟が、やはり凡夫の位にあることを照らされたのである。大聖人と釈迦如来は、久遠元初凡夫即極の位において一体の仏であるが、久遠元初釈迦如来は、方便の仏より遡上した相対の名称であり、日蓮大聖人は全く方
便のない、凡人即極の絶対名称である。故に、進んでその一体の仏のなかに本述を立てるとき、日蓮の名称が本、釈迦の名称は迹となる。久遠即末法、末法即久遠の意義において、久遠元初と末法を通じ、真の凡夫即極の本仏は曰蓮大聖人であらせられる。『百六箇抄』に、
「久遠元始の天上天下唯我独尊は日蓮是なり(中略)三世常住の日蓮は名字の利生なり」
(同1696ページ)
とあそばされている。