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四十四、余念のない唱題

日顕上人猊下御指南

題目を唱える御指南のなかに、
「但余念なく」(松野殿御返事・御書1051ページ)

という語を拝するが、「余念なく」とは、謗法の念慮はもとより、色々な雑念・妄念なくということである。すなわら、仏法の教えにおいて、修行の中心を三つに括られている。いわゆる戒・定・慧である。これを下種本仏日蓮大聖人の三大秘法においては、その根本の意義より、本尊は虚空不動定、題目は虚空不動慧、戒壇は虚空不動戒と説かれる。題目は御本尊に向かって唱えることが正意であり、いずれも「不動」と示されているので、基本は心を御本尊に集中し、一切の余念なき状態で唱えることが理想である。これは、戒・定・慧のうち、特に定を中心とする心地である。
しかし、末法の凡夫は常に様々な雑念・妄念に執われているから、唱題の時において、知らず知らず貪・嗔・癡・慢・疑の心や、生活中の様々な過去の記憶や現在の諸々の間題などが心に浮かぶ゜これは、「余念なく」の御指南に反するようであるが、これに対し、どのように考えるべきであろうか。
この「余念なく」には、身・口・意の三つがある。信心により御本尊に向かい、口で妙法を唱える時、心はあれこれと種々の雑念が起こっても口に題目を唱えるつづける以上、口の在り方は「余念なく」に通ずる。身体もきちんと合掌していれば口と同じことになる。
遠い過去からの癖で、すぐ雑念が出る人も、身・口・意三業のうち、身と口が余念ない形であるならばそれを絶えず続ければ、残る意も次第に「余念ない」状態になっていく。ある時は雑念が起
こっても、また、ある時はいつの間にか素直な心で御本尊に集中して題目を唱えている自己を感ずる。
かくて、自然に余念なく題目を唱える行が進むところに、大きな根本の定の功徳が現当二世に広がるのである。また、正しい願いであれば、その成就を真剣に祈って唱題するのは、雑念でなく正行である。

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