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知恩報恩
光明
「むかし、むかしある所に」の口上で始まる「昔話」は、今もなお多く語り継がれてい数多くあるストーリーの中でも「恩返し」に纏わる話は有名だ。やはり、古来より「知恩報恩」の大切さ、反対に、「不知恩」に対する誡めは重要視されてきたのであろう。
仏法においても「四恩」と言われるように、人間は今生に限らず三世に亘って様々な恩に支えられていると説く。自分一人ではけっして生きてはいけない。 常に多くの縁に支えられながら生きている。しかしながら、昨今の世相を見ると恩を仇で返すような「不知恩」の者が多く、まさに末法濁世における人心の荒廃を如実に物語っている。 私たちはこの現状の根本原因を見定め、慈悲心をもって正法弘通に邁進せねばならない。
「慈悲」とは、『大智度論』に、
「大慈は一切衆生に楽を与え、大悲は一切衆生の苦を抜く」
とのように、抜苦与楽であると説かれる。現在蔓延している疫病は、体のみならず精神面にも悪影響を及ぼす。この苦しみを根本から取り除き、「安楽を与える抜苦与楽の大良薬こそ、御本仏の大白法である。そしてこれを伝え弘め、人々を救っていくのが本当の慈悲心の振る舞いとなる。私たちは昨今の暗い世情においても、下種三宝尊の大慈大悲に守られ、進むべき道に確信をもって前進している。この御恩に報いるには、総本山第二十世日寛上人が、
「邪法を対治するは即ち是れ報恩なることを明かし(中略)正法を弘通するは即ち是れ謝徳なることを明か
すなり」(御書文段 三八四ページ)
と仰せの通り、破邪顕正の折伏行しかない。
「昔話」には「恩返し」の他にも、「情けは人のためならず」ということを教える話も多く残されている。本当の幸福とは、他の安穏を願う慈悲心に見出すことができる。「報恩躍進の年」と銘打たれた本年、この自行化他にわたる報恩行の大事を、今一度心肝に染むべきであろう。(守)
誰も救われない社会ー曹洞宗
諸宗教破折2
近年、「SDGs」という言葉をよく耳にする。
「SDGs」とは、二〇三〇年までに、持続可能でよりよい世界をめざす国際目標のことである。地球上
に「誰一人取り残さない」ことを誓い、日本でも積極的に取り組んでいる。
そして今、日本の仏教各派の中には「SDGs」にかこつけて、誤った教えを流布している現状がある。
例えば、曹洞宗では「SDGs」の理念である「誰一人取り残さない社会の実現」を「菩薩の誓願に生き
る信仰実践」と解釈している。つまり、「SDGs」を禅の信仰実践としているのだ。
曹洞宗とは
今日、日本における禅の宗派には大きく分けて「臨済票」「曹洞宗」「黄檗宗」」の三派が存在している。 その中の曹洞宗とは、鎌倉初期の禅僧、道元により伝えられた宗派である。
道元はもともと、比叡山で天台教学を学んでいた。しかし、「天台宗では、人は生まれながらにして悟りを開く性質を持っていると説きながら、なぜ修行の必要性を説くのか」と疑問を抱き、比叡山を下りた。
臨済禅を学ぶため中国にも渡ったが、納得はできなかった。しかし、中国で曹洞宗を学んだ道元は、その印可を得て帰期。その後、日本に曹洞宗を弘め「只管打座」の重要性を説いた。
只管打坐
一般的に禅と聞けば、禅問答を思い浮かべるかも知れない。特に臨済宗では、坐禅を、悟りに達する手段ととらえ、修行の後、自己の仏心を悟るという「公案禅」を主張する。「公案」という「禅の問答」を工夫し、思慮するという修行をするのだ。
一方、曹洞宗の教えの特徴は「只管打坐」である。目的も意味も求めず、ただひたすら黙々と坐禅をし、その坐禅修行そのものが悟りであるとする。つまり、坐禅修行の結果として悟りを得るわけではない。
近年、中学校の歴史教科書を発行する五社に対して、曹洞宗と臨済宗は、両宗を一括りに「禅宗」と表記しないよう要望したという。曹洞宗も臨済宗も、共に坐禅を修行の方法とするが、座禅に対する心構えが、大きく違うらしい。
悟りの在り方
人の心は移ろいやすいものだ。しかし、曹洞宗では、座禅によって見る自己の本性がそのまま仏性であり、本来、仏であるとする。これは、人心と仏心を混同した大きな誤りである。
日蓮大聖人は『涅槃経』を引かれて、
「願ひて心の師作るとり、心を師とせざれ」(御書27ページ)
と御教示である。
三毒強盛な人の心を師と仰いで、仏性を観することなどできない。それどころか座禅修行を行うことは、自身を仏と等しいとする、智息なき増上慢の類に他ならない。
正を立てて国を安んずる。
いずれの禅の教えでも、末法の衆生は救われない。なぜなら、大聖人が「禅天魔」と仰せのように、禅の修行が正法に背く天魔の所為だからである。「誰一人取り残さない」どころか、「誰も救われない社会」を実現してしまうだろう。
大聖人は、このような邪義邪宗の一切を破折し、正法を立てて国を安んずるベきことを御指南である。すなわち『立正安国論』に、
「汝早く信仰の寸心を。改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち、三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方は 悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば、身は是安全にして心は是禅定ならん。 此の詞此の言信ずべく崇むべし」(同250ページ)
と仰せの通り偏った狭い信仰を改め、直ちに本門戒壇の大御本尊に帰依するべきである。
正法に帰依すれば、迷い苦しみの世界もそのまま仏国土となる。つまり、すべての人が属する国家社会の安穏が実現できる。そして、「一切衆生の誰一人として取り残すことなく」即身成仏へと導くことができる。
我々が今、すべきことは、広宣流布の実現をめざして、自行化他の唱題を行し、慈悲の折伏を実践することである。 今年も、一人でも多くの方を折伏していこう。
71慈悲
教学ノート
慈悲とは一般的に、人々を慈しみ、あわれむ心をいいます。
涅槃経には、「衆生の無利益なるものを除くことを「大慈」、無量の利益を与えることを『大悲』」と説かれています。
この「慈悲」について、竜樹菩薩は「大智度論』に、人々に楽を答えるこ(与楽)を「大慈」、人々の苦しみを取り除く心(抜苦)を「大悲」と解釈しています。
また、伝教大師は慈悲について、
「悪事を己に向え、好事を他に与え、己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり(嫌なことは自分が引き受け、良いことは他の人に与える)」(山家学生式)
と説いています。これは、相手を思いやることは、私たちが、人と接したり仏道修行を実践する上で、忘れてはならない心の在り方だということです。
日蓮大聖人様は、『開目抄』に、
「日蓮が法華経の智解は天台伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども、難を忍び慈悲のすぐれたる事はをそれをもいだきぬべし」(御書540ページ)
と、難を忍ぶことと慈悲の深さにおいて、天台大師や伝教大師もおそれるほど、大聖人様が優れていらっしゃることを仰せです。この御文の前半で、御自身の智慧が天台大師や伝教大師に千万分の一も及ばないけれど、と御謙遜あそばされているのは、当時の仏教界も民衆も、仏法の正邪に迷い、大聖人様が御本仏であられることを知らないため、このような表現をされています。
大聖人様は、正法弘通のために上行菩薩の再誕として末法の世に出現され、経文の通りに数々の法難を受けられて、法華経の行者であることを示されました。
そして、竜の口法難を受けられ、久遠元初の御本仏としての御境界の上から、未法の一切衆生を幸せに導くため、
「観心本尊抄」に、
「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裏み、未代幼稚の頸に懸けさしめたまふ(一念三千の教えを知らない者には、仏が大慈悲を起こして、妙法五字のうちに一念三千の宝珠を包み、未法の衆生の首にかけてくださるのである)」(同662ページ)
と仰せのように、最も尊い大曼荼羅本尊を顕わされました。
今、未法において人々を導き幸せにしてくださる仏様は、日蓮大聖人様だけです。
私たちは、この信心を持てることに感謝し、しっかりと御本尊様を信じて勤行・唱題を真剣に行ってまいりましょう。そして、大聖人様の御振る舞いを鑑として、慈悲の心をもって破邪顕正の折伏行を実践し、みんなが幸せになれるよう、がんばりましょう。
2月度広布唱題会の砌
日如上人猊下お言葉
本日は、二月度の広布唱題会に当たりまして、皆様には、新型コロナウイルス感染症によって世情騒然としているなか、信心強盛に参詣され、まことに御苦労さまでございます。
既に皆様も御承知の通り、今月は、宗祖日蓮大聖人御聖誕の月であります。
日蓮大聖人様は、貞応元(一二二二)年二月十六日、法華経において予証せられた通り、外用上行菩薩、内証久遠元初自受用身の御本仏として末法に御出現あそばされました。
その御出現の目的は、久遠元初の妙法蓮華経をもって、末法本未有善の衆生をして、ことごとく仏道に入らしめ、即身成仏せしめるためであります。
しかるに、世間の多くの人達は、誘法の害毒によって正しい法を見失い、塗炭の苦しみに喘いでいるのが現状であります。
こうした苦悩に喘ぐ人々に、正しい大聖人様の仏法を説き、折伏をしていくことが、今日、我々に課せられた、まことに大事な使命であります。
大聖人様は『立正安国論』に、
「倩微管を傾け聊経文を披きたるに、世皆正に背き人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てゝ相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる。言はずんばあるべからず。恐れずんばあるべからず」(御書 二三四㌻)
と仰せられ、世の中が乱れ、人々が不幸と混乱と苦悩に喘いでいる根本原因は、邪義邪宗の謗法の害毒にあり、この謗法の対治なくして、人々の幸せも、世の中の平和も、国土の安穏も実現することはできないと仰せられているのであります。
ここに今、私どもが全力を傾注して、折伏を行じていかなければならない大事な理由が存しているのであります。
されば『唱法華題目抄』には、
「末代には善無き者は多く善有る者は少なし。故に悪道に堕せん事疑ひ無し。同じくは法華経を強ひて説き聞かせて毒鼓の縁と成すべきか。然れば法華経を説いて謗縁を結ぶべき時節なる事諍ひ無き者をや」(同 二三一㌻)
と仰せであります。
この「毒鼓の縁」とは、既に皆様も御承知の通り、毒薬を塗った太鼓を打つと、その音を聞くすべての者が死ぬと言われており、たとえ法を聞いて反対しても、やがて煩悩を断じて得道できることを毒鼓、つまり毒を塗った太鼓を打つことに譬えているのであります。
すなわち、一切衆生には皆、仏性が具わっており、正しい法を聞き、発心・修行することによって成仏できると言っているのであります。つまり、たとえ末法本未有善の荒凡夫であったとしても、三大秘法の南無妙法蓮華経を聞かせることによって、正法と縁を結ばせ、必ず救済することができるのであります。
されば『法華初心成仏抄』には、
「仏になる法華経を耳にふれぬれば、是を種として必ず仏になるなり。されば天台・妙楽も此の心を以て、強ひて法華経を説くべしとは釈し給へり。警へば人の地に依りて倒れたる者の、返って地をおさへて起つが如し。地獄には堕つれども、疾く浮かんで仏になるなり。当世の人何となくとも法華経に背く失に依りて、地獄に堕ちん事疑ひなき故に、とてもかくても法華経を強ひて説き聞かすべし」(同 一三一六㌻)
と仰せられ、末法今時の本未有善の衆生に対しては、なんとしてでも法華経、すなわち本因下種の妙法蓮華経を強いて説くべきであると仰せられているのであります。.
すなわち、邪義邪宗の害毒によって混乱を極めている今時末法においては、像法過時の如き摂受ではなく、折伏をもって謗法を対治することが、いかに大事であるかを御教示あそばされているのであります。
今、宗門は僧俗一致・異体同心して、一天広布へ向けて力強く前進をしております。
この時に当たり、すべての講中は、記念局の本年度のポスターにある「報恩躍進の年 今こそ 折伏の時」のスローガンを胸に、講中一結・異体同心して勇猛果敢に折伏を行じ、もって必ず本年度の誓願を達成されますよう心から念じ、本日の挨拶といたします。