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法華経について㉞ 終
法華経について(全34)
34大白法 平成29年3月1日刊(第952号)より転載
『仏説観普賢菩薩行法経』
これまで三十三回にわたって法華経について学んできて、各品の概略の説明は前回の『普賢菩薩勧発品第二十八』まで至り、終了しました。
今回は法華経に関するお話の最後として、『仏説観普賢菩薩行法経』について学びましょう。
『観普賢経』・『普賢経』等とも称される当経は、中国南北朝時代の初期に、南朝の宋国で曇無密多(曇摩蜜多)によって漢訳され、現在まで伝えられています。
普賢菩薩の「普賢」という名は、真理(普)と智慧(賢)が一体となるところに真実の大法が存することを意味しています。当経では、法華経の最後に説かれた『普賢菩薩勧発品』を受けて、普賢菩薩の修行を観る方法と功徳を説き、法華経の受持・読誦・流布を勧めています。
また、当経一巻は品に分かれておらず、序分・正宗分・流通分の三段からなると共に、その全体が法華経の流通分としての意義を有しています。このことから当経は、天台大師によって法華経の結経に位置づけられました。
『普賢経』の内容
序 分
釈尊は、『無量義経』から『普賢菩薩勧発品』に至るまでの長きにわたり、摩竭蛇国の霊鷲山において説法をなされましたが、当経は、摩蜴陀国の北方に位置する毘舎離国にある大林精舎の重閣講堂で説かれました。
その冒頭で釈尊は、
「却って後、三月あって、我当に般涅槃すべし」(法華経 六〇九㌻)
と、三カ月後に自身が入滅することを明かされたのです。
そこで阿難・摩訶迦葉・弥勒菩薩の三人は、
「釈尊の滅後、衆生はどのようにしたら菩薩の心を起こし、法華経を修行し、仏の境界を得ることができるでしょうか。また、どうすれば煩悩を断ぜず五欲を離れずに諸々の罪を滅除することができますでしょうか(趣意)」(同 六一〇㌻)
と、釈尊に対して異口同音に申し上げました。
法華経において即身成仏の法門が説かれたとはいえ、衆生は五欲に塗れています。煩悩充満の凡夫が、その身のまま仏の境界に至るにはどうすべきであるかを質問したのです。
正 宗 分
この問いに対して釈尊は、普賢菩薩の行法を観ることとその功徳、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根にわたる懺悔の修法等を明かし、法華経に基づく戒を説かれます。これが『観普賢菩薩行法経』という経名の由来でもあります。
釈尊は、大乗経典、すなわち法華経を誦し、法華経を修し、法華経の意を発する者は、釈尊の説くところを修すべきであるとし、六根を清浄にして法華経を誦せば、六牙の白象に乗る普賢菩薩を観ずると説かれます。六牙とは六根清浄、白象とは正しき道理を見つめて静なるを顕わします。また、普賢菩薩は理を顕わしており、これらの相は静寂なる正しき道理、すなわち、法華経に説く「諸法実相」を意味しています。
普賢菩薩を観ずることによって懺悔を深め、釈尊・多宝仏塔・十方分身諸仏を見ること、自ら仏身を成ずることが明かされたのです。
その後。釈尊は、阿難に懺悔のための受戒と末法の自誓自戒を示され、最後に第一より第五に至る五段の懺悔の法を説かれました。
流 通 分
最後に釈尊は、
「未来世に、今説いてきたような懺悔の法を修習したならば、自身の罪を反省する心を身に付け、諸仏に護り助けられて、長い時間を経ずに成仏できるであろう(趣意)」(同 六五八㌻)
と阿難に告げ、共に説法を聴聞していた大菩薩衆は歓喜し、その実践修行を決心することで当経は結ばれます。
◇ ◇ ◇ ◇
nnnn 当経が、釈尊一代の教えにおける法華経の位置を明確にすることから、宗祖日蓮大聖人は『観心本尊抄』『本尊問答抄』等、諸抄に要文を引用されています。その一つは、
「此の大乗経典は、諸仏の宝蔵なり。十方三世の諸仏の眼目なり。三世の諸の如来を出生する種なり。
此の経を持つ者は、即ち仏身を持ち、即ち仏事を行ずるなり。(中略)汝大乗を行じて、法種を断たざれ」(同 六二四㌻)
との経文です。
法華経は諸仏の宝蔵であり、眼であり、根元の種であるから、この妙法を信受する者は、仏の身を持ち、仏の如く行ずる人である。妙法を信行して、成仏の種を断ずることがあってはならないと説かれているのです。
懺悔の正意
懺悔と聞くと、キリスト教の悔悛の儀式に関する言葉であったり、ただ自らの悪事を反省することだと考えがちです。
しかし、仏法における懺悔とは、自らの罪過を披瀝し同じ過ちを犯さぬことを誓い、さらに罪障消滅のため仏道修行に精進することを意味します。
天台大師の『摩訶止観』には、三昧行の助行としての懺悔、事と理の懺悔等、種々の行法が説かれます。三世に亘る因果の理を説くのが仏法ですから、過去世の罪業の原因を知り、それを自ら戒め、その上で修行に励むことが大切です。
当経では、懺悔の相を、
「若し懺悔せんと欲せば 端座して実相を思え」(同 六四八㌻)
と説かれ、その具体的な行として六念が示されます。六念とは、仏・法・僧・戒・施・天の六種を念ずることで、仏道修行者が持つべきものとして諸経に明かされ、六念処・六随念とも称します。
この六念について、大聖人は
『御義口伝』に、
「念仏とは唯我一人の導師なり、念法とは滅後は題目の五字なり、念僧とは末法にては凡夫僧なり、念戒とは是名持戒なり、念施とは一切衆生に題目を授与するなり、念天とは諸天昼夜常為法故而衛護之の意なり。末法当今の行者の上なり。之を思ふべきなり」(御書 一七九八㌻)
と、末法ではいかに拝すべきかを御教示あそばされています。末法における懺悔とは、大聖人を御本仏と仰いで本門戒壇の大御本尊を信受し奉り、自行化他の唱題、折伏を実践することに他なりません。
この実践によってこそ、誹謗正法をはじめとする無始以来の罪障消滅も叶い、大きな功徳が顕われてくるのです。
『三大秘法稟承事』の、
「三国並びに一閻浮提の人懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して踏み給ふべき戒壇なり」(同 一五九五㌻)
との御金言を拝し奉り、一人でも多くの人を本門戒壇の大御本尊のもとへ導くという、法華講衆の使命を自覚することが大切です。
法華経を拝する
朝夕の勤行において読誦する法華経について学んできましたが、その基本・概略を知るだけでも三年半、三十四回にわたる掲載を要しました。
御法主日如上人猊下は、法華経を拝する心構えとして、
「法華経には久遠の南無妙法蓮華経が存しているのであり、法華経を拝して読むということは、その奥に根本中の根本、妙中の妙、要中の要たる妙法蓮華経が存するからであるということをよく知っていただきたい」(大白法 七二一号)
と、また前御法主日顕上人猊下は、
「正法をもって広宣流布に向かうことが、この法華経の功徳の要点骨子である」(同 五八六号)
と、その肝要を御指南くださっています。
「要法たる南無妙法蓮華経が存する」「本門寿量品の文底に三大秘法が秘沈されている」と心得て法華経を拝するとき、ただ漠然と法華経の説相を眺めたときとは異なる、深い意義を知ることができるのです。
このように法華経を学んでいきますと、大聖人の御法門に対する理解が増し、日々の修行に具わる意義・功徳を実感できるようになり、そして何より信心の確信を深めることに繋がります。
大聖人は『諸法実相抄』に、
「行学の二道をはげみ候べし。行学たへなば仏法はあるべからず。我もいたし人をも教化候へ。行学は信心よりをこるべく候。力あらば一文一句なりともかたらせ給ふべし」(御書 六六八㌻)
と仰せられています。
自らの信心を確立するのはもちろんのこと、折伏・育成のための信・行・学にわたる錬磨を心がけてまいりましょう。
法華経について㉝
法華経について(全34)
33大白法 平成29年2月1日刊(第950号)より転載
『普賢菩薩勧発品第二十八』
今回は、法華経二十八品の最後、『普賢菩薩勧発品第二十八』について学びます。
当品は、本門流通分の付嘱流通中、自行流通の神通乗乗に位置しています。
自行流通とは、普賢菩薩の勧発(恋慕)による自行の功徳により、法華経を後代に流布していくことを言います。また、神通乗乗とは、普賢菩薩が神通力をもって、修行する人を擁護して法華経を受持させ、その功徳を成就させることを言います。つまり神通乗乗とは、神通力をもって一仏乗の妙法に乗り、衆生を導く意です。
当品の大意
冒頭、遥か東方の世界より大勢の菩薩と共に娑婆世界に来至した普賢菩薩は、仏滅後に清浄な信心を持つ者は、どのようにすれば法華経を得ることができるかを釈尊に尋ねました。
これに対し、釈尊は、
「純粋に信行する者は、次の四つの法を成就するならば、仏の滅後に、この法華経を得ることができるであろう。
その四法とは、一には諸仏から護り念じられること、二には種々の功徳の本を植えること、三には必ず悟りに至ることが決定している者(集団)の中に入ること、四には一切衆生を救う心を起こすことである」
と告げられました。
これを聞いた普賢菩薩は、如来滅後の悪世末法において、妙法を受持する者をあらゆる障魔より守護し、法華経を供養するために六牙の白象の王に乗って修行者の前に姿を現わし、修行者の手助けをすることを誓いました。
そして、修行者のために陀羅尼(力のある言葉)を説くことを請い願い、「アダンダイ……」と陀羅尼を説きました。
続いて普賢菩薩は、法華経を受持・読誦などの修行をする人は、その善行によって仏より愛でられ、ただ書写するだけの人も、来世は忉利天(欲界第二天)に生まれ、ましてや、教えの通りに受持信行する人は、兜率天(同第四天)に生まれることを申し上げました。
そして普賢菩薩は、神通力をもって妙法を守護し、如来の滅後、この世界のうちに妙法蓮華経を広く流布して断絶しないよう誓ったのです。
そこで釈尊は、
「善いかな、善いかな、普賢菩薩よ。汝は法華経を守護して多くの人々を安らかにし、功徳を得させることであろう。
そなたは既に大きい功徳と慈悲を成就している。遠い昔より菩提心を起こし、よく神通の願いを立ててこの妙法を守護している」
と普賢菩薩を讃められ、さらに、
「法華経を受持・読諦し、正しく記憶して念じて如説修行する者は、直ちに仏を拝見し、法華経を聞き、この仏を供養し、仏より讃められて頭を摩でられ、仏の衣に覆われる。こうした人は世の快楽に溺れることなく、三毒や慢心等に悩まされることがなく、少欲知足で、よく普賢の行を修めるであろう。この故に、仏の滅後、後の五百歳に法華経を受持・読誦する者を見たならば、その人は、まさに仏の智慧の道場へ詣で、あらゆる魔を破り、尊い悟りを得て即身成仏を遂げて人々に妙法を説き、仏の座に着くであろう。
普賢菩薩よ、末法においてこの妙法を修行する者は、衣食住に執着せずとも種々の願いを遂げて、現世において福報を受けるであろう」
と告げられました。
続いて釈尊は、法華経の行者を軽んじ謗る者は、たとえそれが事実であれ、不実であれ、その罪の報いとして、現世はもちろん、何度生まれ変わっても様々な障害や病に侵され、体が不自由になるなどの謗法の罪を示されました。
そして最後に、普賢菩薩に、この妙法を受持信行する人に対しては、遥か遠くからでも立ち上がってお迎えし、仏を敬うようにすべきことを告げられました。
以上をもって釈尊は法華経を説き終え、菩薩や声聞、その他の聴衆は、大いに喜び、釈尊の言葉を受持して、釈尊に礼拝して霊鷲山から去ったのです。
以上で『普賢菩薩勧発品』が終了し、法華経の会座が結ばれます。
四法成就について
当品では、四法成就が示されていますが、この四法について、御法主日如上人猊下は、
「四法とは、解りやすく言えば、
一、常に仏の大慈大悲によって護られていることを認識すること。
二、いつも功徳の元となる善い行いを心掛けること。
三、正定聚に入る、すなわち必ず仏に成るべく決定されている者になること。
四、常に一切衆生を救う心を起こすこと。
この四法を成就すれば、如来の滅後においても必ずこの経、すなわち妙法蓮華経を得る、つまり成仏することができると説かれているのであります」(大白法 九一三号)
と御指南されています。
すなわち、この四法成就を私たちの信心に当てて拝すると、一には絶対なる信心をもって御本尊の御加護を確信すること、二には弛まぬ勤行・唱題、そして御供養による功徳善根を積んでいくこと、三には成仏が定まっている人(集団)つまり支部講中において異体同心の団結を図ること、四には折伏弘通の誓願をもって広宣流布に大前進していくこと、の大事を示されています。
また、同御指南で、
「この四法のなかで『一切衆生を救う心を起こす』と説かれていますが、滅後末法において一切衆生を救うということは、たとえ好悪、愛憎、好き嫌い、選り好みすることが一切なく、悪人であっても、間違った教えを信じている者であっても、正しい信仰を誹謗する者であっても、文字通り、いかなる者であっても、すべての衆生を救っていくという大乗の精神をもって、折伏を行じていくことが肝要であります」(同)
と、四法の中でも最後の「一切衆生を救う心を起こす」ことの大事を仰せられています。
すなわち、この御指南は、御本尊に対する絶対の信心をもととした、自行たる勤行・唱題と化他行たる折伏・育成の実践の重要性を示されています。
しかし、この自行化他の実践には、障魔が競い起こることも必定です。大聖人様は、当品の題号である『普賢菩薩勧発品』の「勧発」について『御義口伝』に、
「勧発とは、勧は化他、発は自行なり。(中略)所詮今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は普賢菩薩の守護なり云云」(御書 一七九三㌻)
と仰せのように、いかなる障魔が競い起ころうとも、御本尊様への絶対なる確信を持ち自行化他の信心を貫くところ、普賢菩薩の誓願のように、必ず諸天善神の守護があることを知らなければなりません。
当如敬仏
また大聖人様は、当品に示される「当如敬仏=当に仏を敬うが如くすべし」について、『松野殿御返事』に、
「法華経の一偈一句をも説かん者をば『当起遠迎当如敬仏』の道理なれば仏の如く互ひに敬ふべし」(同 一〇四七㌻)
と仰せられています。
すなわち、私たちは、御本尊様のもと異体同心し、互いに尊敬し合うことが大事であり、そこに信心の団結が構築されます。
ややもすると、同じ広宣流布を思いつつも、やり方や見解の相違から講員同士が対立したり、嫉みを生じるときがあるかも知れません。しかし、そのような時は、この御金言を拝し、指導教師である御住職・御主管の御指導を受けて問題を解消していくことが大切です。
私たちは、指導教師の御指導のもとで、常日頃から自己の信心を見つめ直すことを心がけ、信心をもとに互いを尊敬し合い、異体同心の団結のもと、講中一丸となって自行化他の信心に励むことが肝要なのです。
また、御法主上人猊下は、
「我々はいかなる難事も、障魔も、大御本尊様への絶対の確信をもって題目を唱え、自行化他の信心に徹して乗り越えていくことが大事であり、これが我々の一生成仏につながるのであります」(大白法 七六五号)
と御指南されております。
私たちは、この御指南のままに、いかなる障魔が競い起ころうとも、自行化他の信心に徹することで、成仏の大道を歩むことができるのです。
法華経について ㉜
法華経について(全34)
32大白法 平成28年11月1日刊(第944号)より転載
『妙荘厳王本事品第二十七』
初 め に
今回は、『妙みょう荘そう厳ごん王のう本ほん事じ品ほん第二十七』です。
前回の『陀だ羅ら尼に品』では、悪世末法において、法華経を弘める行者を守護するための、薬王菩薩をはじめとする諸菩薩や諸天善神、そして十羅刹女・鬼子母神等の陀羅尼(力のある言葉)が説かれたことを学びました。
末法における陀羅尼は、文底下種の南無妙法蓮華経のことであり、法華経の文上で説かれる陀羅尼の呪文を唱えたり鬼子母神等を祀まつったりすることは、かえって謗法を犯すことになり、守護を受けるどころか罪ざい業ごうを積むことになるということも学びました。
正直に南無妙法蓮華経の御本尊様を受持信行し、この妙法を弘めることによってのみ、『陀羅尼品』に説かれる菩薩や諸天善神からの真の守護かあるということです。
今回の『妙荘厳王本事品』は、妙荘厳王という王が、浄じょう徳とくという后きさきと浄じょう蔵ぞう・浄じょう眼げんという二人の子供によって仏道に導かれる話です。誓せい願がん乗じょう々じょうと言って、大願を発おこすことにより、一仏乗の妙法という乗り物に乗り、有う縁えんの人々を妙法に導いていくことが説かれます。
妙荘厳王を仏のもとへ導く
遥はるか遠い昔、喜き見けんという時代の、光こう明みょう荘厳という国に、雲うん雷らい音おん宿しゅく王おう華け智ち仏ぶつという仏がおり、そこに妙みょう荘そう厳ごん王のうという王がいました。夫人の名を浄徳と言い、また浄蔵・浄眼という二人の子供がいました。この二人の息子は、大乗の教えを学び、六ろく波は羅ら蜜みつなどの菩薩としての行をことごとく修おさめ、様々な種類の三さん昧まい(精神統一の修行)に通つう達だつしていました。
ある時、雲雷音宿王華智仏は、妙荘厳王をはじめ多くの人々を仏道に教導するために法華経を説かれました。そこで浄蔵・浄眼は、母である浄徳夫人に、共に仏のもとへ参さん詣けいして法華経を聴聞することを勧すすめました。
しかし、浄徳夫人は、
「あなた方の父である妙荘厳王は、外げ道どうを信じて、深くバラモン教に執しゅう着じゃくしています。あなた方二人で一緒に父上の所へ行って、仏のもとへお連れできるように説得しなさい」
と応えました。
すると浄蔵・浄眼の二子は、
「私たちは仏教徒なのに、こんな邪じゃ見けんの家に生まれてしまった」
と言って嘆なげくので、浄徳夫人は、
「本当に父上のことが心配であるならば、父上の前で神じん変ぺん(神じん通づう力りきによる不思議な力)を現じてみなさい。それを見たなら、きっと心が清らかになり、私たちが仏のもとへ行くことを許してくださることでしょう」
と述べました。
そこで二人の子は父王のもとへ行って、種々の神変を現じました。まず、空中高く上り、その空中で歩き止まり座り臥ふし、また体の上下から水や火を出し、あるいは虚こ空くうに満ちあふれるほどの体を現じ、虚空から姿を消して地上に現われ、大地を水中のように潜もぐり、水上を大地のように歩きました。このような様々な神変を現じたことによって、父王の心は清らかになり、仏法に対し信じ理解するようになりました。
時に父王は、子供たちの神通力に心から大いに喜んで、二子の師である雲雷音宿王華智仏のもとへ行くことを決意しました。
値い難き仏法
そこで、浄蔵・浄眼は母のもとへ行って、父王が仏法を信ずるに至ったことを報告すると共に、仏に値あい難い由縁を述べて、自らの出家を願いました。これを聞いた母は二子の出家を許しました。
そして浄蔵・浄眼は、仏に値い難い因縁を、
「仏には値いたてまつること得え難し。優う曇どん波ば羅ら華けの如く、又、一いち眼げんの亀かめの浮うき木ぎの孔あなに値えるが如し。而しかるに我等、宿しゅく福ふく深じん厚こうにして、仏法に生れ値えり」(法華経 五八八㌻)
と三千年に一度咲くと言われる優曇華の花を見るよりも、一眼の亀が大海の浮木の穴に値うよりも、仏に値い奉り、法華経を聴聞することは難しいと、譬たとえを交まじえながら説かれたのです。
この時、妙荘厳王の宮きゅう殿でんの大奥にいた八万四千の女性は皆法華経を信受し、浄眼菩薩は法華三昧を久しく過去より通達し、浄蔵菩薩は無量百千万億劫という遥か昔から、離り諸しょ悪あく趣しゅ三昧(諸の悪趣を離れさせる三昧)に達し、浄徳夫人は諸しょ仏ぶつ集しゅう三昧(諸仏の功徳を集めた三昧)を得て諸仏の奥深い教えの蔵ぞうを知ることができました。二人の子供は、このように方便の力によって父を教きょう化けし、仏道に導いたのです。
そして、妙荘厳王は多くの臣下と共に、浄徳夫人は多くの女にょ官かんと共に、二人の子供は多くの民衆と共に、同時に仏のもとに参詣し、仏の足下を礼らい拝はいして座ると、仏は妙荘厳王のために法を説いて示し、教え、利り益やくさせ、大いに喜ばせました。その時、王と夫人が、高価な真しん珠じゅの首飾かざりを外して仏に供養したところ、四本柱の宝の台となり、その上に仏が座られました。仏の体から大光明が放たれると、妙荘厳王は、仏の身はたいへんに有り難く、殊しゅ勝しょうな姿であることを心深く思ったのです。そして、仏は聴衆に、
「汝なんじらは、妙荘厳王が我が前に立って合がっ掌しょうしている姿を見たか。妙荘厳王は、私の弟子となり、将来、仏道を成じて娑しゃ羅ら樹じゅ王という名の仏となり、その国土は大だい光こうと称しょうされるであろう」
と説かれました。
すると、王は直ちに位を弟に譲ゆずり、夫人と二人の子供とお供の者共々に出家し、八万四千年の間、常に努力精進して法華経を修行し、その後に一いっ切さい浄じょう功く徳どく荘しょう厳ごん三ざん昧まい(あらゆる清らかな功徳で飾られた三昧)を得ました。
仏になる道は善知識に過ぎず
時に、王は虚空に昇り、仏の前に止まって、次のように申し上げました。
「世せ尊そんよ、この二人の子は、既すでに仏事を尽つくし、神通力による奇き跡せきによって、我が邪心を改めさせ、仏法を信じさせ、このように仏にお目にかかれるようにしてくれました。二人の子供は私の善知識(教えの師)です。前世以来の功徳善根を起こし、私を利益するために子供として生まれてきたのです」
すると、雲雷音宿王華智仏が次のように妙荘厳王に告つげました。
「まことにその通りである。もし清しょう浄じょうな男女は、かつて善根を種うえていた故ゆえに、世世に善知識に値うことができる。その善知識は、よく仏事を尽くし、教え導いて利益を与え、仏の悟さとりへ至らせる。大王よ、善知識は大きな因縁のもとにあるから、よく人々を仏のもとに導いて、菩ぼ提だい心しんを起こさせる。二人の子供は、既にかつて六十五百千万億那由他恒ごう河が沙しゃもの諸仏を供養し、お仕えして法華経を受持信行し、邪見の衆生を愍あわれんで正法へ導いたのである」
妙荘厳王は、空中から地上に下おりて、
「如来は甚はなはだ希まれなる存在であります。功徳と智慧を具そなえるが故に、仏の姿も荘厳にして、如来の法も不可思議な功徳を具え、成就されております。その教えや戒かい律りつはまた安あん穏のんで快こころよいものです。私は、本日より二度と誤った考えや心を起こさないことを誓います」
と決意を披瀝し、仏を礼拝して帰ったとの話です。
釈尊がこのように説かれた後、人々に告げました。
「汝らは、この話をどう思うか。妙荘厳王とは、今の華徳菩薩その人である。その浄徳夫人は今の光こう照しょう荘しょう厳ごん相そう菩薩、そして浄蔵・浄眼の二子は今の薬王・薬上菩薩である。薬王・薬上菩薩は、このように無数の仏のもとで諸の大功徳を成就してきたのであるから、汝らはこの二菩薩を供養礼拝すべきであろう」
以上で、『妙荘厳王本事品』が終わります。
天台大師の『法華文句』において、『妙荘厳王本事品』についての過去世における仏道の因縁が示されます。
略述すると、ある所に四人の比丘がおり、その中の一人が、自分一人が托たく鉢はつをして他の三人を養い、仏道修行に専念させると発ほつ願がんしました。そして月日を重ね、托鉢の行をしていたときに、威い儀ぎ堂どう々どうとした王の行列に出合い、そのような果報を得られるよう願いました。それまでの功徳によって托鉢僧は亡くなった後、大王と生まれ変わりました。しかし、仏道を行じていないため、次第に功徳は減じて、悪道に堕だすることになりました。
他の三人は、この大王となった者が過去に托鉢をして養ってくれたお陰かげで仏道修行に専念し法を得ることができた因縁から、この大王を悪道から救おうと、一人は夫人となり、二人は王子となって仏道に導くことを発願したのです。
この大王こそ、妙荘厳王です。浄徳夫人、浄蔵・浄眼の二人の王子となった三人は、この王を成仏に導くことになるのです。
浄蔵・浄眼の二人の子供が妙法の大願を立てて、外道の邪見に陥おちいった父の妙荘厳王を仏道へ導いたことは、最高の親孝行です。また夫人である浄徳夫人も過去世の因縁により、夫である妙荘厳王を救おうとしました。これを誓願乗々と言って、仏道の願力をもって一仏乗の妙法に乗り、有縁の人々を妙法に導く尊い姿として説かれているわけです。
大聖人様は『三さん三さん蔵ぞう祈き雨うの事こと』に、
「仏になるみちは善知識にはす過ぎず。わがち智ゑ慧なににかせん。たゞあつ熱きつめ冷たきばかりの智慧だにも候ならば、善知識たひ大せち切なり」(御書 八七三㌻)
と仰せです。
私たちも浄蔵・浄眼の二子のように折伏の誓願を立てて、邪義邪宗に惑まどわされている多くの人たちを、御本仏日蓮大聖人様の下種仏法のもとへ導く善知識となっていきましょう。
法華経について㉛
法華経について(全34)
31大白法 平成28年10月1日刊(第942号)より転載
『陀羅尼品第二十六』
初めに
前回までの『薬王品』『妙音品』『観音品』で、それぞれ釈尊滅後に法華経を弘める功徳が説かれました。
しかし悪世に法を弘める時、弘通者の前には様々な障害が立ちはだかります。
そこで弘通者を守るために、当『陀羅尼品』で諸菩薩や諸天善神により陀羅尼(力のある言葉)が説かれるのです。
そして、当品では有名な鬼子母神や十羅刹女、さらにその一人である皐諦女が登場し、法華経の行者を守護することを誓います。
注意しなくてはならないのは、御本尊様に御題目を唱えることこそが、諸菩薩や諸天善神に守られる行であるということです。他門のように鬼子母神を祀ることは誤りなのです。
それを踏まえた上で当品の内容を述べることといたしましょう。
陀羅尼品第二十六
前品の説法が終わると、薬王菩薩が立ち上がり、釈尊を礼拝して、
「世尊よ。よく法華経を信じ持つ男女の信徒が、法華経を読誦し、その深い内容を理解し、あるいは経巻を書写するならば、どれほどの功徳が得られるでしょうか」
とお伺いしました。
釈尊はこの質問に対して、
「深く信仰する男性や女性が、八百万億那由他ものガンジス河流域の砂数もの仏を供養したとしよう。薬王菩薩よ。その得られた功徳は多いであろうか少ないであろうか」
ど逆に問いかけられました。薬王昔薩が、
「はい。甚だしく多い功徳であると思います」
と答えると、釈尊は、
「けれども、そのように信仰篤き者が法華経のわずか一偈一句でも受持し信行するならば、その受持信行の功徳のほうがとてつもなく多いのである」
と仰せになりました。
それを聞いた薬王菩薩は、
「世尊。私は、法華経を説き弘める者に陀羅尼の呪文を与え、その行者を守護いたします」
と申し上げ、続いて、「アニ マニ マネイ……」と陀羅尼を唱え、
「世尊。この陀羅尼は極めて多くの仏様が説かれたものです。もし法華経弘通の法師に迫害を加える者がいたならば、その者は諸の仏様を迫害することになるのです」
と申し上げました。釈尊は、薬王菩薩を褒めて、
「善いかな、善いかな、薬王よ。そなたは法華経の行者を慈しんで守護するために陀羅尼を説いた。多くの衆生がその利益を受けることであろう」
とおっしゃいました。
するとその時に、勇施菩薩が釈尊に向かって次のように申し上げます。
「世尊。私もまた法華経を受持する者を守護するために陀羅尼を説きます。
もしその行者がこの陀羅尼を得たならば、夜叉や羅刹などの悪鬼が悪さをしようと試みようとも、その隙を得ることができないでしょう」
そして、「ザレイ マカザレイ……」と陀羅尼を説き、この陀羅尼が諸仏の説いたものであることを申し上げました。
続いて世間を守護する善神の一人である毘沙門天王も、釈尊に法華経を弘める者を守護するために陀羅尼を説くと申し上げ、「アリナリ……」と示して、
「世尊。この陀羅尼をもって、私は法華経の行者を守護いたします。その行者を私自ら守護し、その周辺には哀しみや憂いがないように努めます」
とお誓い申し上げました。
すると次に持国天王が、仏法を守護する八部衆の乾闥婆たちをしたがえて釈尊の御前に進み出ると、合掌して申し上げました。
「私もまた陀羅尼をもって、法華経を信仰する者を守護いたします」
と申し上げ、「アギャネイ ギャネイ……」と陀羅尼を示した後、
「世尊よ。この陀羅尼もまた多くの諸仏が説かれたものであり、行者に迫害を与える者はその多くの仏に迫害を与える者となりましょう」
と申し上げました。
このように薬王菩薩、勇施菩薩、毘沙門天、持国天が陀羅尼を説いた後に、十人の羅刹女と鬼子母神が子供と従者を引き連れて、釈尊の御前に出てきました。そして、一同に声を合わせて、
「世尊。私たちもまた、法華経を受持し、読誦する者を守護し、その行者のその憂いや患いを取り除きたいと思います。
もしその行者の隙につけ込んで害を加えようとする者がいても、その便りを得させることはありません」
と誓願を申し上げ、「イテイビ イテイビン……」と陀羅尼を示し、
「種々の憂いが私の頭上を踏み登ったとしても、けっして法華経の行者を悩ましてはなりません。
たとえ夜叉や羅刹などの悪鬼であろうと悩ましてはなりません。
また熱病であろうと、男の姿、女の姿、童子、童女の姿をする魔性の者であろうと、夢の中であっても、けっして法華経の行者を悩ましてはなりません」
と述べ、さらに偈という詩句に託して、
「もし私たちの陀羅尼にしたがわずに、法華経の行者を悩ますならば、その者の頭は七つに破れて、あたかも阿梨樹の枝のようになるでしょう。
父母を殺す逆罪のように、ゴマ油を得るために多くの命を絶つ罪のように、秤の目方を偽って人を欺く罪や提婆達多が教団を分裂させようとした罪のように、この法華経の行者に危害を加えようとする者は、これらと同様の罪を犯すことになるのです」
と述べました。そして再び釈尊に、
「世尊。私たちもまた、自らこの身命を賭して法華経の行者を守り、安らかならしめ、様々な憂いや患いから離れ、多くの毒薬すらその行者を害することがないようにいたします」
と申し上げました。
羅刹女たちの言葉を聞いた釈尊は、次のように仰せになりました。
「善きかな、善きかな。そなたたちが、ただ法華経の御名である題目を受持する者を守護することであれ、その福徳は計り知れない。
ましてや、法華経を身口意三業共に受持し、様々に供養する者を守護する、その福徳はなおのこと計り知ることができないほどであろう」
そして、釈尊は羅刹女の一人皐諦女に、
「皐諦女よ。あなたたちは一族郎党と共に、法華経の行者を守護しなさい」
と申し渡されました。
最後に、この陀羅尼を聞いた多くの人の功徳が説かれ、当品の説法は終わります。
陀羅尼とは南無妙法蓮華経なり
以上のように当品では諸菩薩や諸天善神が、法華経の行者を守護する陀羅尼を示しました。
しかし、末法の今、この陀羅尼を唱えたり、鬼子母神や皐諦女等の十羅刹女を本尊として崇めてはいけません。
その理由は、大聖人様が『上野殿御返事』に、
「今、末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし。但南無妙法蓮華経なるべし」(御書 一二一九㌻)
と仰せられ、また『御義口伝』に、
「陀羅尼とは南無妙法蓮華経なり」(同 一七九〇㌻)
と仰せられているように、末法今時は南無妙法蓮華経の御本尊様のほかに法華経の法体はなく、また御本尊様を受持する南無妙法蓮華経の題目以外に陀羅尼はないからです。
言葉を換えて言えば、私たちは、この南無妙法蓮華経の御本尊様を一途に、正直に信じて御題目を唱えることにより、当品で説かれる菩薩や善神たちの守護を受けることができるのです。
一方で、当品では有名な、
「頭破れて七分に作ること阿梨樹の枝の如くならん(頭破作七分 如阿梨樹枝)」(法華経 五八〇㌻)
と、正法を誹謗する者の罪がたいへん厳しく説かれています。
この「頭破作七分」の経文のように、正法を謗る行為が罰という形で表われるなど、相手の状況が折伏の後で変わることもあります。
このような意味からも私たちは、一度の折伏で諦めるのではなく、信心の生活の上でこれらの利益と罰をしっかりと見定めて、継続して話をしていくことが大切です。
難について
当品では諸天善神が法華経の行者を守護することをお誓いしていますが、現実にはこの信仰をやめさせようとする難が起きることは実に多いことです。親が、家族が、仲の良い友人が、また職場の知人が信仰に反対したりします。
大聖人様の時代にも、竜の口法難の際に退転していった人々が多くいました。そうした状況の中で、『開目抄』では、
「我並びに我が弟子、諸難ありとも疑ふ心なくば、自然に仏界にいたるべし。天の加護なき事を疑はざれ。現世の安穏ならざる事をなげかざれ。我が弟子に朝夕教へしかども、疑ひををこして皆すてけん。つたなき者のならひは、約束せし事をまことの時はわするゝなるべし」(御書 五七四㌻)
と仰せられています。
この御金言のように、どのような難が起ころうとも、御本尊様をいささかも疑うことなく、しっかり信じて行じていくことが大切なのです。特に「まことの時」とありますように、平生は信じているようでも、いざ本当に信じ切らなければならない時に、御本尊様を信じ抜くことがいかに大切であるかを仰せられています。
いずれにしろ私たちは、大聖人様が、
「比の曼荼羅能く能く信じさせ給ふべし。南無妙法蓮華経は師子吼の如し。いかなる病さはりをなすべきや。鬼子母神・十羅刹女、法華経の題目を持つものを守護すべしと見えたり。さいはいは愛染の如く、福は毘沙門の如くなるべし。いかなる処にて遊びたはぶるともつゝがあるべからず。遊行して畏れ無きこと師子王の如くなるべし。十羅刹女の中にも皐諦女の守護ふかゝるべきなり」(経王殿御返事 六八五㌻)
と仰せられているように、御本尊様を信じて御題目を唱えていくところに、諸天の加護を得て、罪障を消滅し、問題を解決していく功徳を戴くことができるのです。
さあ誓願完遂をめざして、御題目を唱え、いよいよ精進してまいりましょう。
法華経について㉚
法華経について(全34)
30大白法 平成28年9月1日刊(第940号)より転載
『観世音菩薩普門品第二十五』
今回は、『観世音菩薩普門品第二十五』について学んでいきます。
当品は、前回学んだ『妙音菩薩品第二十四』と同じく、付嘱流通中の化他流通に配当され、ここでは観世音菩薩が三昧乗乗をもって衆生を救済することが説かれています。
題号は、観世音菩薩の衆生済度の姿として、「普門示現」が説かれることに由来し、あらゆる衆生に対して救済の門を開くことを「普門」と称します。また、仏法の中道実相の理が普遍であるとの真意も存しており、これを天台大師は『法華文句』に十の普門として明かされています。
観世音菩薩は、『観無量寿経』では阿弥陀仏の脇士として説かれることからも西方、妙音菩薩は、浄光荘厳世界の浄華宿王智如来の弟子ですので東方を住処とします。この東西二方をもって十方法界を摂し、迹化の菩薩方も本来は妙法の化導に値遇し、ことごとく仏様の深遠な教えの内にあるということが示されています。
なお当品は、『観音品』『普門品』とも称されますが、世間一般に『観音経』として尊ばれているのも、この『観世音菩薩普門品』のことです。
普門示現
当品の冒頭で無尽意菩薩は、釈尊に対して観世音菩薩の名号の因縁についてた尋ね、釈尊は次のように答えられます。
「無量百千万億もの衆生が様々な苦しみを受けているとき、この観世音菩薩の名を聞いて一心にその名を称えれば、観世音菩薩は直ちにその声を聞き取り、衆生を苦悩から解放させるであろう(趣意)」(法華経 五五七㌻)
また続けて、観世音菩薩を恭敬することで得られる種々の不思議な利益が示されます。
まず、七難(災難・水難・羅刹難・王難・鬼難・枷鎖難・怨賊難)から、口業である称名の功徳によって救われること。次に、貪・瞋・癡の三毒を、意業の常念の功徳によって除くこと。そして、女人の願のままに身業の礼拝の功徳により好き子供を得られること。
以上の身口意三業の教化の用きを説かれて、聴聞衆の信を増長なされたのです。
そして、六十二億恒河沙もの菩薩の名号を受持・供養した功徳と、観世音菩薩の名号を一時でも受持・礼拝供養した福徳は、全く同じで異なることはないと説かれます。
すると無尽意菩薩は、観世音菩薩が遊化(娑婆世界を巡って衆生を化導すること)する相はいかなるものであるかを重ねて問います。その問いに対して釈尊は、観世音菩薩が衆生の機に応じて種々の身を現わし、法華経を説いて衆生を導くという「普門示現」を明かされました。
この種々の身を列挙すれば、仏身、辟支仏(縁覚)身、声聞身、梵王身、帝釈身、自在天身、大自在天身、天大将軍身、毘沙門天王身、小王身、長者身、居士身、宰官身、婆羅門身、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷身(四衆身)、長者婦女身、居士婦女身、宰官婦女身、婆羅門婦女身、童男・童女身、天・龍・夜叉・乾闥婆・阿修羅・迦楼羅・緊那羅・摩睺羅伽(八部衆身)、執金剛神身の三十三身となります。
妙音菩薩の三十四身と比べると一身少ないように思えますが、内容に大きな異なりはなく、一人ひとりに適するような各身相を現じて法を説かれるのです。
無尽意菩薩の供養
このように観世音菩薩の普門示現を明かされた釈尊は、無尽意菩薩に観世音菩薩への供養を勧め、さらに、
「この観世音菩薩は、衆生が怖るべき危急の難に遭遇したとき、無畏(恐れのない心)を施す故に、この娑婆世界では施無畏者と称する(趣意)」(同 五六五㌻)
と仰せられました。すると無尽意菩薩は、首にかけていた高価な宝珠の瓔珞(装身具の一種)をはずし、観世音菩薩に捧げました。
しかし、観世音菩薩は無尽意菩薩の重ねての願いにもかかわらず、なかなか受け取ろうとしなかったため、釈尊が受け取るように促されました。そこで、観世音菩薩は即座に瓔珞を受け取ると、身につけることなく二つに分け、一つは釈尊に、もう一つは多宝仏塔に奉りました。
この後、無尽意菩薩の重ねての問いと釈尊の答え、そして観世音菩薩の徳を讃える様が偈頌をもって再び説かれ、最後に、持地菩薩が観世音菩薩の自在の業と、普門示現の功徳を讃歎されました。
そして、会座の八万四千の衆生が、無等等、すなわち妙法に対する菩提心を等しく起こし、当品の説法は終了します。
功徳の元を知る
初めに触れたように、観世音菩薩は、智慧を顕わす勢至菩薩と共に慈悲を顕わす菩薩として、『観無量寿経』では阿弥陀仏の脇士とされています。要するに、本来は他方の菩薩であり、釈尊の行化を助顕するために娑婆世界に遊化したのです。
しかし、本門『如来寿量品第十六』に至り釈尊の久遠実成が顕わされて後は、他方の菩薩方も押し並べて釈尊の弟子となり、その一切の力用も法華経に摂まりますから、観世音菩薩もその例外ではありません。
そもそも当品の中で、「観世音菩薩が無尽意菩薩からの供養を直ちに釈尊と多宝塔に奉る」という姿が顕わされています。このことについて、前御法主日顕上人猊下が、
「自分(観世音菩薩)は今このように供養を受けたけれども、これも自分の得た功徳の元であるところの法華経に供養すべきである、また法華経を説かれた釈尊に供養すべきである(中略)観世音菩薩だけが尊いのではなく、その元に妙法蓮華経の功徳があるということを知らねばなりません」(大白法 五八四号)
と仰せのように、妙法蓮華経の法体にこそ真の功徳が存することは明らかです。三十三身の普門示現という妙用も、妙法受持によって顕われてくるのです。
ましてや、今の世は、在世・正法時代・像法時代を過ぎた悪世末法の時代です。
日蓮大聖人は『高橋入道殿御返事』に、
「末法に入りなば迦葉・阿難等、文殊・弥勒菩薩等、薬王・観音等のゆづられしところの小乗経・大乗経並びに法華経は、文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。所謂病は重し薬はあさし。其の時上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし」(御書 八八七㌻)
と仰せられ、また『御義口伝』には、
「今末法に入って日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る事、観音の利益より天地雲泥せり(中略)観音既に法華経を頂受せり。然れば此の経の持者は観世音の利益より勝れたり」(同 一七八九㌻)
と、明確に御教示あそばされています。
日本でも古くから観音信仰が行われてきましたが、法華経に説かれているからと言って観世音菩薩の名号を称えても、それは末法の正行とはならず、かえって仏様の教えに背くことになります。むしろ、釈尊在世に称える観世音菩薩の名号にすら様々な功徳があるのですから、その根本の久遠元初即末法の御本仏が唱え出された本因下種の妙法蓮華経を、末法当今に唱える功徳がいかに広大無辺であるかは、計り知ることができません。
御法主日如上人猊下は、
「その時々によって弘めるべき論師・人師、そしてまた弘められるべき法というものが、仏法では決まっている(中略)末法はまさに大聖人様の仏法、いわゆる外用上行菩薩、内証久遠元初の御本仏が御出現せられて、妙法蓮華経という薬を一切衆生に授ける。一切衆生はその薬をいただいて成仏をしていくということが、明らかに説かれているのであります」(大白法 七九三号)
と御指南あそばされています。
私たちは、「時」を正しく知り、本門戒壇の大御本尊を信受し妙法唱題に励むとき、真の良薬・功徳が戴けることに確信を持たなければなりま
末法という時を違えて苦しむ多くの人々を救うためにも、怠りなく自行化他の唱題・折伏を実践してまいりましょう。
法華経について㉙
法華経について(全34)
29大白法 平成28年8月1日刊(第938号)より転載
『妙音菩薩品第二十四』
今回は、『妙音菩薩品第二十四』について学んでいきましょう。
当品は、本門流通分の付嘱流通中、化他流通の三昧乗乗に位置しています。
三昧乗乗とは、三昧(精神を集中させて安定した状態)という境界に入って法華経をもって衆生を導くことを言います。
前回の『薬王菩薩本事品』では、薬王菩薩が過去世において、長い年月の間、自分自身を灯して法華経と法華経を説いた日月浄明徳仏を供養して、妙法の悟りを得た故事が説かれました。
今回の『妙音菩薩品』では、遥か東方にある浄光荘厳世界の浄華宿王智如来の弟子である妙音菩薩について説かれます。
妙音菩薩の来至
当品ではまず、釈尊は肉髻(頭の盛り上がっている部分)と眉間の白毫から光を放ち、東方にある無数の仏の国を照らしました。
その光は遥か浄光荘厳世界に及び、その世界を見たところ、そこでは、浄華宿王智如来が、大勢の菩薩たちに囲まれて説法されている姿が見えました。
その中に妙音菩薩という一人の菩薩がいました。この妙音菩薩は、長い間、数々の徳を積み、多くの仏様にお仕えして、深い智慧を得て、法華三昧をはじめ、様々な三昧を得ていました。釈尊の放つ光が妙音菩薩を照らすと、妙音菩薩は浄華宿王智如来の前に進み出て、
「私は娑婆世界へ赴いて釈迦如来を供養申し上げ、また文殊菩薩や薬王菩薩たちにお会いしたいと存じます」
と願い出たのです。
すると浄華宿王智如来は、
「妙音菩薩よ、娑婆世界をけっして軽んじて下劣の思いを起こしてはならない。娑婆世界は、様々な汚れで満ちている。釈迦如来や菩薩たちの体も非常に小さい。対してお前も私も、体は非常に大きい。またお前の体は端正で福徳で光り輝いている。だからと言って、娑婆世界へ行って、仏や菩薩、国土をけっして軽蔑してはいけない」
と誡められました。
これに対して、妙音菩薩は、
「よく承知しております。娑婆世界へ行くことは、皆如来の力、如来の功徳や智慧によるものであります」
と答えました。そして、その場で身を動かすことなく三昧に入り、三昧の力をもって、娑婆世界の霊鷲山の周りに、八万四千もの宝で出来た蓮華を出現させました。
霊鷲山では、これらの宝の蓮華を見た文殊菩薩が、
「どのような因縁によって、このような瑞相が現われたのでしょうか」
と釈尊にお伺いしました。釈尊は、
「これは妙音菩薩が浄光荘厳世界から、八万四千のお伴の菩薩たちとこの娑婆世界へまいり、私と法華経を供養しようと願って現われた瑞相である」
と答えられました。さらに文殊菩薩は、
「その妙音菩薩という方は、どのような修行をして、どのような功徳を積んで、この大神力を得られたのでしょうか。どうかその三昧の名前を教えてください。勤めて修行をしたいと思います。また、神通力をお使いいただき、妙音菩薩が来られたとき、その姿、振る舞いを私共が拝見できるようにしていただけますでしょうか」
とお願いしました。
釈尊は、
「その願いは多宝如来が叶えるであろう」
と仰せになり、多宝如来が妙音菩薩に呼びかけられると、妙音菩薩はお伴の菩薩と共にこの娑婆世界にやって来られました。途中で通過した国々は六種に振動し、七宝の蓮華が降り、天の音楽が自然に鳴り響きました。この菩薩の目は大きな青蓮華のようで、百千万もの月を合わせても、その端正な顔には及びません。身は金色に輝き、三十二相が具足し、堂々とした体格です。
妙音菩薩は、釈尊の足元に進み出て、お持ちになった宝物を釈尊に献上し、次のように申し上げました。
「浄華宿王智如来より、釈迦如来にお伺いするよう言われました。釈迦如来はご機嫌麗しくお元気にてお過ごしでしょうか。世間はいかがでしょうか。また多宝如来もお元気にて、長く娑婆世界に留まられるでしょうか。私もぜひ、多宝如来にお会いしたいと思います」
すると釈尊はこの旨を多宝如来に伝えると、多宝如来は妙音菩薩を愛でて、釈尊と法華経を供養するために来たことを褒め称えました。
三十四身普門示現
妙音菩薩たちの荘厳な姿と振る舞いを見た華徳菩薩は、釈尊に、
「妙音菩薩はどのような修行をして、功徳を積み、このような神力を得たのでしょうか」
とお伺いしたので、釈尊は次のように答えられました。
「遠い昔、雲雷音王仏が現一切世間国という国に出現された。その時、妙音菩薩はこの仏に、一万二千年もの長きにわたって種々の音楽を奏でて供養し、さらに八万四千の七宝の鉢を供養申し上げたのである。この因縁によって、浄華宿王智如来の国に生まれ、この神力を得たのである。
華徳菩薩よ、妙音菩薩は仏に仕え、久しく功徳を積んだので、梵天王・帝釈などの善神、また国王や長者、修行者や信徒、子供の姿、竜や阿修羅、さらには地獄に住む者の姿など、三十四の自在の身を現わして法華経を説き、様々な国土で人々を救済するのである。さらに、声聞・縁覚・菩薩・仏等の形を現わし、人々のために法を説くのである」
このように説明を受けた華徳菩薩は、重ねて、
「それでは、妙音菩薩は何という三昧に入ったことにより、このような自由自在の身を現わして人を導くのでしょうか」
とお伺いしました。そこで、釈尊は教えられました。
「それは現一切色身三昧と言う。この三昧に入って、一切の人々を利益するのである」
このように妙音菩薩について説かれたとき、娑婆世界の無量の菩薩は、現一切色身三昧を得て、華徳菩薩は法華三昧をも得ることができました。
妙音菩薩は、釈尊と多宝仏塔の供養を終えて元の国土に帰られ、浄華宿王智如来に、娑婆世界で供養したこと、またお伴の八万四千の菩薩と娑婆世界の菩薩たちに現一切色身三昧を体得させることができたことをご報告しました。
以上で『妙音菩薩品』は終了します。
利根と通力とにはよるべからず
妙音菩薩たちが体得した現一切色身三昧とは、一切衆生の色身を現わす三昧を言います。つまり、相手に応じて三十四身という自由自在の身を現わし、妙法を弘通して導くことを言います。
ここで大切なことは、いかに優れた神通力や三昧を得たとしても、その根本には必ず妙法が存するということです。いかに超能力を謳ったとしても、仏法の根本は寿量文底の妙法にあるのですから、ここから離れた神通力や超能力を基としたなら、それは邪道であり、魔の通力に堕すことになるのです。
したがって、大聖人様は『唱法華題目抄』に、
「但し法門をもて邪正をたゞすべし。利根と通力とにはよるべからず」(御書 二三三㌻)
と明確に法の邪正によって判断すべきであり、通力などに頼ってはならないと誡められております。
また、大聖人様は『御義口伝』に、
「妙音とは今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る事、末法当今の不思議音声なり」(同 一七八七㌻)
と仰せであります。
すなわち、妙音菩薩が一万二千年にわたり、妙音の演奏をもって御供養申し上げて積んで得た功徳と力用も、寿量文底の大法たる南無妙法蓮華経に収まるのです。
故に私たちが、三秘総在の御本尊を堅く受持し、自行化他にわたる妙法の信行に励むところに、妙音菩薩の功徳と力用が現われることを知り、唱題に唱題を重ね、さらなる折伏に邁進し、本年の誓願を必ず達成すべく、精進してまいりましょう。