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《その他》
創価学会の大御本尊放棄に対する破折の文証集
○戒壇の大御本尊は根本の御本尊
大海の水と小さな器の水とでは、同じ海水であっても違うように、本門戒壇の大御本尊は無量無辺の大海の水であり、末法万年の外未来までも流れる一切大衆の信仰の根源であり、功徳の本源であります。私たちが家庭へ頂いて一家で信心している御本尊とはその意義が異るのです(大白蓮華・昭和三二年四月号三一頁)
○三大秘法とは戒壇の大御本尊
本門の題目とは、本門の本尊、すなわち日蓮大聖人が弘安二年十月十二日に顕わされた一閻浮提総与の大御本尊を信仰の対象として唱えるべきものです(創価学会入門三八三頁)
○三大秘法とは大御本尊
大聖人の仏法は三大秘法ですが、その根本は弘安二年十月十二日に御図顕された本門戒壇の大御本尊です。それは、本門の大御本尊に向かって唱える題目が本門の題目、本門の本尊を安置する所が本門の戒壇だからです(改訂版創価学会入門一〇〇頁)
○創価学会は戒壇の大御本尊を信ずる団体
戒壇の大御本尊を離れて、われわれの信仰はありません(特別学習会テキスト五六頁)
○他門流に三大秘法はない
現在、日蓮宗と名のる宗派は多数あります。しかし彼らには、大聖人の仏法の中心である本門の本尊もなければ、実践論の目標である本門の戒壇もありません。根本の思想なく、また実践の方途のない宗教に、民衆を力強く再生させるなんの術もないことはいうまでもありません(創価学会入門二四ニ頁)
《折伏教典》
創価学会の大御本尊放棄に対する破折の文証集
○戒壇の大御本尊は大聖人の出世の御本懐
日蓮大聖人のご本懐は一閻浮提総与の弘安二年十月十二日の御本尊にあることに間違いなく、日蓮正宗はこれを本尊として日蓮大聖人のご遺志を継ぎ、一切民衆を救わんとするものである。されば、これは世界唯一の本尊であり、日蓮正宗は最高にして唯一の宗教である(改訂二三版二一八頁)
○戒壇の大御本尊は一切衆生が帰依すべき御本尊
根本の本尊たる一閻浮提総与の大御本尊に向かって、南無妙法蓮華経と唱題することによって、末法の一切衆生は救われるのである。この一閻浮提総与の大御本尊は弘安二年十月十二日にあらわされ、この大御本尊を拝む以外に末法の衆生は根本的に幸福にはなれないのである(改訂二三版七〇頁)
○三大秘法とは戒壇の大御本尊
三大秘法とは、本門の本尊と、本門の題目と、本門の戒壇との三つであり、この本門の本尊すなわち弘安二年十月十二日にあらわされた一閻浮提総与の大御本尊に対して題目を唱えるのが大聖人のお教えである(改訂二三版三二九頁)
○戒壇の大御本尊を信じよ
弘安二年の本門戒壇の大御本尊に帰依したてまつる以外に、成仏得道の道は絶対にないのである(改訂二三版一二四頁)
戸田先生は学会再建いらい十四年間、先代会長牧口先生の御意志を受けつがれ、ひたすら大御本尊様への御幸公に身を捧げ、御本山をお守りする真心一筋に貫かれた。その粉骨砕身のお働きは、かねがね日昇上人様にも、日淳上人様にも、「戸田は決して一宗一派を開く者ではございません。ただ生命の続く限り御本山へ忠誠一途につくすのみであります」と言上しておられた通りの御振舞であられた(中略)すなわち日蓮正宗の良き檀那、大信者として、偉大な御一生を貫ぬかれたのであり、「お前たちもこのようにせよ」と示されたのである(校訂再版三六七頁)
○戒壇の大御本尊を信じない者は謗法
いま末法にはいって日蓮大聖人のご本懐は弘安二年であるということは、一閻浮提総与の大御本尊の建立をさしているのである。この御本尊に対したてまつって唱えるお題目以外の題目は、すべて、仏説に反することは明らかである(改訂二三版三一一頁)
この大御本尊に直結したお曼荼羅を拝む信仰でなければ、絶対に功徳もなく、ましてや、生命の本質をつかんで仏の境涯に立ち、永遠の生命を感得することなどは、とうてい望めないことである(改訂二三版三一三頁)
電灯にたとえて考えてみると(御本尊を電球にたとえることはもったいないことではあるが)ヒューズがとんで電流が流れてこない電灯は、電球が切れていないからといって、いくらつけても明るい光りを発しないようなもので、電球は本物であっても、電流が流れてこなければ光りが出ないのである。御本尊が大聖人のご真筆であっても、大御本尊に直結しなければなんの功徳もないのである。したがって富士大石寺の大御本尊を拝まないものはすべて謗法である(改訂二三版三一三頁)
大御本尊は、「日蓮がたましひをすみにそめながして・かきて候ぞ信じさせ給へ、仏の御意は法華経なり日蓮が・たましひは南無妙法蓮華経に・すぎたるはなし」(経王殿御返事)とおおせられているごとく、大聖人ご自体として拝すべきであるから、富士大石寺にそむく謗法のやからがもつご真筆の御本尊には、大聖人の御魂は住まわれるわけがないのである(改訂二三版三一四頁)
○日蓮正宗の御本尊以外は天魔外道
日蓮正宗の本尊を除いては、ことごとく天魔外道の本尊である。姿は仏に似せようと、神を表わそうと、みな内証においては天魔外道である(改訂二三版三一頁)
○御本尊書写の権能は御法主上人にある
信仰の対象としていっさいをささげて南無したてまつる御本尊であるから、総本山においてはご相伝により、代々の御法主猊下おひとりが、おしたためあそばされるものであり、われら信者がうんぬんすべきことではないのである。三大秘法抄、観心本尊抄等の御文に照らして拝察するならば、勝手な御本尊を拝むことが大きな誤りであることが、はっきりわかるのである。これは不相伝なるがゆえに仏法の深義に迷うのであって、不相伝家はみな本尊に迷うということができる(改訂二三版三一五頁)
《池田大作指導》
創価学会の大御本尊放棄に対する破折の文証集
○戒壇の大御本尊は大聖人の出世の御本懐
創価学会の本質、すなわち目的は、あくまで日蓮大聖人様の不滅の生命哲学をもって、東洋民衆を救うということであります。大聖人様の出世の御本懐は一閻浮提総与の大御本尊様、すなわち三大秘法の大御本尊様の御建立にあります(会長講演集三-一〇三頁)
○戒壇の大御本尊は大聖人の御当体
日蓮大聖人の御魂は、多宝富士大日蓮華山大石寺にまします本門戒壇の大御本尊に御留めおかれているのである(広布と人生を語る三―二四六頁)
○戒壇の大御本尊は一切衆生が帰依すべき御本尊
十月ときくと、多宝富士大日蓮華山にまします、大仏法のありがたさを、一人、感ずるものである。この弘安二年十月十二日の一閻浮提総与の大御本尊様のみが、全世界の人々が、信伏随順せねばならぬ宇宙の大法則なのである(大白蓮華・昭和三五年一〇月号七頁)
末法のわれら衆生の信奉すべき御本尊は、日蓮大聖人であり、また大聖人の御生命を、一幅の大曼荼羅として認められた、弘安二年十月十二日の一閻浮提総与の大御本尊以外に絶対にないのである(御義口伝講義下二三八頁)
○戒壇の大御本尊は広宣流布の根源
大御本尊は一閻浮提総与の御本尊であり、全世界の民衆の幸福と平和のカギはこの御本尊に秘められている。大御本尊なくば、この世界は暗黒である。そして地獄であるといっても過言ではない(大白蓮華・昭和四五年一一月号一〇頁)
日蓮大聖人が出世の本懐として建立された一閻浮提総与の大御本尊が三大秘法総在の御本尊であり、この御本尊に帰命すること、その信仰を全世界に広宣流布することが立正安国の実践となるのである(立正安国論講義七七一頁)
○戒壇の大御本尊は根本の御本尊
日蓮正宗総本山大石寺におわします本門戒壇の大御本尊が、いっさいの根本である。われわれの拝受したてまつる御本尊は、血脈付法の代々の御法主上人のみが、分身散体の法理からおしたためくだざるのである(広布と人生を語る一―一一二頁)
○三大秘法とは戒壇の大御本尊
どんなニセ本尊に向かっても南無妙法蓮華経と唱えればそれでいいというようなものではない。三大秘法中の本門の題目とは、大御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うることである(日蓮大聖人御書十大部講義五―三六二頁)
O大聖人の教えの究極は戒壇の大御本尊
大聖人様はどのようにおおせになったか。末法において成仏する道は、絶対の幸福生活を会得する直道は、弘安二年十月十二日の大御本尊様を拝む以外にない。これが日蓮大聖人の出生の本懐であると、おんみずから御本尊様をお遺しくださったのであります(会長講演集ニ―五六頁)
大御本尊様のことについては、それはとうぜん、極中のなかの極中、究極のなかの究極、極説のなかの極説、したがって、仏法の神髄が大御本尊様であります(会長講演集九―二一八頁)
○創価学会は戒壇の大御本尊を信ずる団体
わが創価学会は、日蓮正宗の信者の団体であります。したがって、私どもは、大御本尊様にお仕え申しあげ、御法主上人猊下に御奉公申しあげることが、学会の根本精神であると信じます(大白蓮華・昭和三五年六月号七頁)
もとより、日蓮正宗総本山を離れて、創価学会は、永久にありえないのであります。信仰の根本は、本門戒壇の大御本尊であり、創価学会は、それを民衆に知らしめる折伏の団体であるからであります。私白身、この信仰の根本を一度たりともはずしたことは断じてないことを、大御本尊に誓って申し上げるものであります(聖教新聞・昭和五五年四月二日付)
大聖人の出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊が信心の根本であることは、これからも少しも変わらない(聖教新聞・平成五年九月一九日付)
日蓮正宗創価学会の根本中の根本は、一閻浮提総与の本門戒壇の大御本尊であることはいうまでもない。しかもその大御本尊は、日蓮正宗に厳然とおわします。そして宗祖日蓮大聖人より第二祖日興上人、第三祖日目上人と代々の御法主上人猊下が法水瀉瓶・血脈相承され、現在は、第六十七世日顕上人猊下に、いっさい受け継がれているのである(広布と人生を語る一―一三一頁)
社会はますます複雑になっていくであろう。その動向に対処するため、学会も多様性を要請される場合がある。しかし、ただ、次の点だけは不動の路線であることを忘れてはならない。それは、
一、三大秘法の大御本尊がいっさいの根本であると拝していくことだ。
二、御法主上人の御もとに日蓮正宗の伝統法義を確実に体していくことだ(中略)この大原則を離れて、大聖人の仏法はありえない(広布と人生を語る三―二七一頁)
○戒壇の大御本尊を信じよ
唯々、弘安二年十月十二日の大御本尊に題目を唱えきって行く事のみが、永遠に幸福になりきれる法則なのである(大白蓮華・昭和二九年六月号二二頁)
私たちは、いま幸福生活への根本理念を知り、かつ具体的方法を体得しているのである。その原理・方法とは何か。申すまでもなく、日蓮大聖人の出世の本懐たる弘安二年十月十二日の三大秘法の大御本尊様に唱題することにつきるのである(中略)指導とは、唯一の目的である大御本尊様を、しっかり拝ませることを、いかに実行せしめるかにある(大白蓮華・昭和三六年一二月号八頁)
信心とは、本門戒壇の大御本尊を絶対と信じたてまつり、いかかる脅し、いかなる迫害、いかなる誘惑があったとしても、絶対、不退にして屈せず、ひたぶるに御本尊を受持したてまつり、広宣流布に邁進していくことである(広布と人生を語る一―一三二頁)
信心とは、本門戒壇の大御本尊を信ずることである(広布と人生を語る三―九八頁)
○戒壇の大御本尊への信仰を捨てるな
一生涯、大御本尊様と離れないで、大御本尊様を放さずに、まっすぐに進んでいけば、あとの指導はなにもないのです。ぜんぶふくまれます。「善に付け悪に付け法華経をすつるは地獄の業なるべし」(開目抄)です(会長講演集九―三二三頁)
末法今時においては、「日蓮が魂を墨に染め流して書きて候ぞ」とおおせられた、正しき日蓮正宗の大御本尊を信ずる以外には、真の信心はありえないことを知るべきである(日蓮大聖人御書十大部講義五―二七四頁)
「諸難ありとも疑う心なくば」とは、いかなる中傷非難にあい、逆境に置かれても「根本尊敬」「功徳聚」「輪円具足」の御当体であられる三大秘法総在の戒壇の大御本尊を絶対に疑ってはならない、捨ててはならない、との仰せである。「無疑曰信」の大信心に厳然とたつべきである(講座教学研究ニ―一二頁)
大御本尊を拝まなければ、もう学会員ではないのです(会長講演集一〇―一九二頁)
○戒壇の大御本尊を信じない者は謗法
大御本尊様を受持し、信心していくならば、かならず仏になる、大御本尊様をもたないで、大御本尊様をもったものを誹謗すれば、かならず地獄におちる(会長講演集八―一六七頁)
日蓮大聖人の御心とは何か(中略)出世の本懐として顕わされた本門戒壇の大御本尊こそ、究竟中の究竟の御心なのである。この大御本尊を否定して、いかに大聖人の御書を拝読しても、法華経を賛嘆しても、全部、大聖人の御心に背いている仏敵と断ずることができるのである(御義口伝講義上九四頁)
○御本尊書写の権能は御法主上人にある
日蓮正宗の根幹をなすものは血脈である。大御本尊を根本とし、代々の御法主上人が、唯授一人でこれを受け継ぎ、令法久住をされてこられた。御本尊を御認めあそばすのは、御法主上人御一人であられる(中略)いくら広宣流布といっても、御本尊の御認めがなければできない。われわれは、あくまでも総本山根本、御法主上人厳護の信心で進んでまいりたい(広布と人生を語る三―二五六頁)