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《戸田二代会長指導》
創価学会の大御本尊放棄に対する破折の文証集
○本門戒壇の大御本尊
弘安二年十月十二日の御本尊様が、究極中の究極の御本尊様なのです。大御本尊を拝すると、花押の下に「本門戒壇也」と、チャンとおしたためになっている。その次に、願主弥四郎国重とありますが、本門戒壇の願主ですけれども、この御本尊は、本門戒壇だ、ということが、キチンとおしたためになっている。争う余地がない。絶対にない(大白蓮華・昭和三四年三月号七頁)
○戒壇の大御本尊は大聖人の出世の御本懐
僅か小勢百数十人の僧侶が愚僧悪僧邪僧充満の悪世によく耐えるもので、大聖人の「御出世の御本懐」たる弘安二年十月十二日御出現の一閻浮提総与の大御本尊を守護し奉って、七百年間、塵もつけず敵にも渡さず皆々一同代々不惜身命の心掛けで一瞬も身に心に身心一つに御本尊を離れずに今日に至ったのである(中略)かくも法体を守護し、且つ化儀連綿たる功績こそ称えねばならぬことである(大白蓮華・昭和二六年六月号巻頭言)
余は二十七年なりとは弘安二年十月十二日の総与の御本尊の出現をさしての御仰せであって、この御言葉によって本仏出世の御本懐は此の御本尊の出現にある。世の不幸を救ふ一大秘法は此の本尊にありと信じなくてはならぬ(大白蓮華・昭和二六年六月号二頁)
弘安二年十月十二日の本門戒壇の御本尊は究竟中の究竟本懐の中の本懐で真に尊き事と拝さねばなるまい。この御本尊こそこれ三大秘法の随一であり、一閻浮提総与の御本尊である(大白蓮華・昭和二八年二月号三頁)
○戒壇の大御本尊は大聖人の御当体
御本仏は、生きていらっしゃるときには、日蓮大聖人、亡くなられては本門戒壇の大御本尊と仰せられ、その仏の御名前と年月はちがいますが、同じくわれわれを化導して下ざるのである(日蓮正宗方便品寿量品講義二〇六頁)
日蓮大聖人はいつも、この娑婆世界に住んでおられる。現在は富士大石寺におわします戒壇の大御本尊として出現されているのだが、多くの邪宗のものたちは、近くにいながら、かわいそうにも日蓮大聖人の御当体とは気がつかないでいるのである(日蓮正宗方便品寿量品講義二一三頁)
○戒壇の大御本尊は広宣流布の根源
学会は今大聖人の命うけて弘安二年十月十二日に御顕しになられた一閻浮提総与の御本尊を日本に流布せんことを誓う(聖教新聞・昭和二六年一一月一〇日付)
「明鏡」とは、弘安二年十月十二日に宗祖日蓮大聖人が御建立あそばされた本門戒壇の大御本尊であり、「向かって」とは、われわれがこの大御本尊を唯一最尊の大御本尊なりと信じたてまつることである(戸田城聖全集七―一二五頁)
○戒壇の大御本尊は根本の御本尊
御本尊様は一つしかありませんが、無量義経に分身散体の法というのがあります。この分身散体の法というのは、創価学会を除いて日本広しといえども絶対に説いておりません。分身散体の分け方により種々分けられますが、すべて一閻浮提の御本尊に帰一するのです(戸田城聖先生質問会集二一頁)
われわれの貧乏と苦悩を救わんがために、日蓮大聖人様は大御本尊様を建立し、遺されてある。これは、弘安二年の十月十二日の大御本尊様のただ一幅なのです。そこから、分身散体の方程式によりまして、ずうっと出てくるのです。それから、ほかの本尊、どこのを拝んでも絶対にだめなのです。弘安二年の十月十二日の大御本尊様から出発したものでなければ、法脈が切れてますから、絶対だめなのです(戸田城聖全集四―三四九頁)
「大白法」とは何か。それは本門の三大秘法であり、就中、三大秘法随一の本門戒壇の大御本尊こそ、一切の教典の帰趣するところであり、あらゆる生活、あらゆる学問の根元である(大白蓮華・昭和二四年八月号二頁)
大御本尊に向って、御本山のしきたり通りの化儀によって、題目を口唱する、その時こそ、口に心に身に御本尊を受持したことになるのである(大白蓮華・昭和三二年六月号ー頁)
この本尊論がまことに大事なところなんです。これが狂ってくると、一切が狂ってくる。ただ、富士大石寺の文底深秘の大御本尊、これより他にはない。これが根本なのですよ(大白蓮華・昭和三四年四月号九頁)
○大聖人の教えの究極は戒壇の大御本尊
日蓮大聖人の真実のお教えは、独一本門といい、文底秘沈というも、みな一閻浮提総与の三大秘法の大御本尊を根本としたお教えでなくてはならない。この教えは、今日末法においては、富士大石寺にこそあれ、ほかにはないのである(戸田城聖全集三―八三頁)
日蓮大聖人おおせの、もっとも根本は、弘安二年十月十二日御出現の大御本尊であります(日蓮正宗方便品寿量品講義八六頁)
○大石寺は本門戒壇建立の霊地
本門戒壇の建立されるべき地を大日蓮華山という(戸田城聖全集七―六九頁)
○創価学会は戒壇の大御本尊を信ずる団体
日蓮大聖人様から六百余年法灯連綿と正しく続いた宗教が日蓮正宗である。もっとも完全無けつな仏法が正宗なのである。この仏法こそ私達を真に幸福に導いてくれる宗教であることを私達は日夜身をもって体験してゐるのである(中略)私達は無智な人々を導びく車屋である。迷ってゐる人があれば車に乗せて大御本尊様の御もとへ案内して行くのが学会の唯一の使命である。宝の山に入って宝をとるかとらないかはその人の信心の結果であって、たゞ宝の山たる大御本尊様へ案内するのが我々学会の尊い使命なのである(大白蓮華・昭和二四年一二月号一頁)
○日蓮正宗の教義を弘めよ
日蓮大聖人以来の正しい歴史と教義を、世に弘めるべく大いに努力しなければならない(戸田城聖全集六-四〇四頁)
○戒壇の大御本尊を信じよ
なんといっても、御本山に登り、親しく大御本尊様を拝まなくては、本物の信心にはなれない。こんなありがたい御本尊様を、わずかな御開扉供養で拝むことのできるのは、当本山であればこそであり、まことにもったいないことである。今後も、できるだけ多くの会員を登山させるよう、計画を立てたいと思っている(戸田城聖全集三―四九〇頁)
絶対の幸福をうるためには、一閻浮提総与の大御本尊様を拝む以外に道はない(戸田城聖全集四-七八頁)
私の願いとするところは、この弘安二年の十月十二日の大御本尊様を信ずるということです。しかし、理論がわかっても、わからなくてもいい。だんだん、そのうちにわかる。絶対だということがわかる。この日蓮正宗の哲学ぐらい、きちんとなっているものはないのです(戸田城聖全集四―三五〇頁)
世の為人の為に富士大石寺にいます「大御本尊」を一人にでも多く授けたいと努力するのが即ち折伏と言ふのである(大白蓮華・昭和二六年六月号二頁)
当門に於いて観心とは受持即観心と云って弘安二年十月十二日の一閻浮提総与の大漫荼羅を余行をまじえずひたぶるに信心し奉る事である(大白蓮薬方昭和二八年一二月号巻頭言)
現代に於ては時刻相応の教と云うならば、富士大石寺にいます一閻浮提総与の御本尊を信ずる事である。大聖人の御命たる大曼荼羅を信ずる事でありその大曼荼羅中の極説中の最極説たる弘安二年十月十二日御出現の総与の御本尊こそ真の民衆救済の御本体であらせられる(大白蓮華・昭和二九年七月号巻頭言)
大聖人は実践方法として、弘安二年十月十二日の大御本尊を中心として、これに南無することによって、一切の悪い宿業が消えて、よき宿業が生まれるのであると結論されたのである(大白蓮華・昭和三二年一〇月号一頁)
大聖人様は三十二の御年に、南無妙法蓮華経と、清澄山でお唱えあそばして、二十七年で、今のお山の大御本尊様を、御建立なさった。それが十月十二日です。その大御本尊様を、われわれは拝んでいるんです(中略)『余は二十七年なり』とおっしゃって、おしたための御本尊様こそ今の奉安殿の御本尊様であらせられるのですぞ。御立派なものですよ。あの大御本尊様を拝んだら、生命が延びるとまで、いわれているのです。立派な大御本尊です。そりゃ、拝まにゃわからんぜ。拝んでもわからんかも知らん。聞いてもわがらんかも知らん。ただ無二の信心で拝すべきです(大白蓮華・昭和三二年一二月号三頁)
○戒壇の大御本尊を信じない者は謗法
本門戒壇の大御本尊を信じ奉らない者は、すべて謗法として禁じなければならない(戸田城聖全集五―一五六頁)
○御本尊書写の権能は御法主上人にある
大御本尊だけは、われわれは作るわけにはゆかない。日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人、代々の法主猊下以外にはどうしようもない。だから、仏立宗や身延のヤツラが書いた本尊なんていうものはね、ぜんぜん力がない。ニセですから、力がぜんぜんない。むしろ、魔性が入っている。魔性の力が入っている。だからコワイ(大白蓮華・昭和三四年七月号九頁)
クリスマスは謗法
〔参照〕『大白法』(H29/11/16 8面)
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【キリスト教の宗教行事】
昨今の日本人の宗教行事に対する軽率ぶりは、大いに憂慮(ゆうりょ)すべきものがある。その典型がクリスマスに表れている。毎年十二月になると、街はクリスマス一色になる。
各地でツリーが並び、きらびやかなイルミネーションが飾られ、様々なイベントが開催される。
また、サンタクロースからのプレゼントを願ったり、ケーキを囲んで「メリークリスマス!」などと声を上げたりすることが、すっかり定着してしまった感がある。
そもそもクリスマスとは「キリストのミサ」という意で、イエス・キリストが誕生されたとする十二月二十五日(ただし正確な誕生日は不明)に、キリスト教徒が教会の儀式に参加し、キリストに感謝の祈りを捧げるという宗教行事。
ちなみに、近年の欧米社会では「メリークリスマス(楽しいクリスマスを)」との言葉は気楽に使用してはいけないらしい。
その理由は、クリスマスが宗教行事である以上、キリスト教徒でない人々に対して、キリストの祝い事を押し付けるのはよくないという考え方が広まったからだという。
それに比べて今の日本人はどうだろう。
クリスマスを”楽しいイベント”ぐらいしか認識していない。
物事の意味や本質を深く考えず、ただ、”楽しいから”という理由で、お祭り騒ぎをして浮かれているだけである。
◆金儲けの道具
日本でクリスマスが庶民に広まり始めたのは明治に入ってからという。
では、どうしてこれほど浸透してしまったのか。
その発端は”商売”のようだ。
我が国においてクリスマスは、本来の宗教儀式の面よりも、楽しいイベントとして広められた。
そこには金儲けを狙う、企業の巧みな宣伝があった。
人々はその思惑に乗せられて、様々な関連商品を購買する。さらに、過熱する年末商戦と相まってエスカレートし、今日の如き有り様となった。
つまり日本のクリスマスは、企業の商業戦略に踊らされ蔓延(まんえん)してしまった、悪しき産物と評することができよう。
どんなに広く行われていても、紛れもなく宗教行事である。仏教の厳正なる眼(まなこ)から見れば、けっして見過ごすことのできない、謗法の所業なのだ。
たとえ人々に宗教的な行事だとの意識がないにせよ、クリスマスを容認する何らかの行動があるとすれば、それは知らず知らずのうちに、謗法に荷担していることになる。
◆与同罪(よどうざい)恐るべし
日蓮正宗信徒がクリスマスの諸行事に積極的に参加する道理はありえないが、問題はここからだ。
日蓮大聖人は『主君耳入此法門免与同罪事』に、
「心は日蓮に同意なれども身は別なれば、与同罪のがれがたきの御事に候」(御書 七四四㌻)
と仰せである。
クリスマスの悪弊(あくへい)に流される周囲の人々に対し、見て見ぬふりをしていないだろうか。
相手が謗法によって苦果を受けると知りながら、それを放置することは与同罪に当たる。
大聖人は、また『曾谷殿御返事』に、
「謗法を責めずして成仏を願はゞ、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし」(同 一〇四〇㌻)
と、折伏を行ずることで初めて与同罪を免(まぬが)れ、功徳を積んでいくことができると御示しである。
すなわち、正法を受持する我々は、クリスマスの本来の意味を知らず、知らぬ間に謗法の害毒を受けている人々に、救いの手を差し伸べるべきなのだ。
今回取り上げたクリスマスの行事に限らず、日本の人々はあまりにも宗教に無知だと痛感することが多々ある。
たとえ無知であっても、法を犯せば罰せられるように、知らなかったでは済まされないのが謗法の怖さ。
また、たとえ正しい信仰をしていたとしても、間違った宗教の行事に関われば、功徳はおろか、かえって悪業を積むことになる。今こそ、宗教の正邪についうて語り、是非に迷う人々を折伏していく好機である。
nnnn(大白法 平成29年11月16日号より)
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