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破門から30年ー創価学会
あれから三十年
平成三年十一月、大謗法団体と化した創価学会は破門され、翌年には、狂乱の張本人である池田大作が富士の清流から追放された。
あれから三十年……。
本宗僧俗は、日蓮大聖人以来の血脈仏法の大功徳のもと、法華講員八十万人体勢構築の御命題を見事に成し遂げ、一天広布に向けて前進している。
片や学会は、表向き権勢を装っているものの内実たるや、三宝破壊の悪業による悲惨な罰の現証が続発し、組織は衰亡の一途。
特に、大作はどうだ。十年以上の長きにわたり公の場から姿を消す、異常な状態で、この事実一つ取っても、峻厳なる仏法の正邪を雄弁に語っているではないか。
元なきものはかくの如し
中国のことわざに「元あるものはかくの如し」「元なきものはかくの如し」という譬えがある。
「たとえわずかでも泉から水が涌き続けるならば水が絶えることがない。」しかし、しっかりとした元がないものは、大雨のあとの水たまりのように、いずれは消えてなくなってしまう」という意味だ。
総本山第六十七世日顕上人はこの言葉を用いて、
「宗門は七百年の伝統を持ち、その根本において、大聖人様からの法脈を正しく伝授してきました。日蓮正宗は、下種仏法の元から存在した教団なのです。また、これからも、その意義を受けて法を正しく広めようとする宗団であります。
これにたいして創価学会は、本来は日蓮正宗の法燈を護るべき団体であるのに、今日では誹謗・中傷を繰り返して、日蓮正宗を口汚くののしるような存在になり下がってしまった。 本来の正宗信徒の立場から離れて、非常にゆがめられた存在になってしまいました。元のないところでは、やはり、本当の仏法の功徳はありません」(文藝春秋平成四年二月号)
と御教示である。
信仰の命脈を捨てた学会には、崩壊必至の結末以外にない。
大作こそ諸悪の根源
学会破門の根本原因、それは大作の命の根底にある大慢心にある。 もともと大作は、本門戒壇の大御本尊も大聖人も血脈法水の御歴代上人も信じていなかった。 来し方を見れば、昭和五十二年路線の反省が嘘であり、長年にわたり会員に説いた下種三宝への信仰も二枚舌であったことを証明して余りある。
学会は宗門への悪口雑言の限りを尽くし、哀れな学会員は、大作礼讃と三宝誹謗の言辞を聞かされ続け、
「山本伸一の心をわが心に」「学会こそ仏意仏勅の団体」などと洗脳され、今や命の奥底にまで謗法の毒気が染みついてしまっている。
無理もない。 三十年もの悪業の積み重ねは大きい。
大作の正体を見破れ
大聖人は、次のように厳誡されている。
「謗法は一業引多生なれば、一度三宝を破すれば度々悪道に堕するなり」(御書 四九四)
学会員の皆さん、人生は今世だけではない。このまま三宝破壊の池田教に身を置けば、今以上の苦しみを未来永劫に受け続けてしまうのだ。
今一度、振り返って考えて欲しい。己の名聞名利のために大聖人の仏法を利用する大作の本性、そして、大聖人の出世の本懐たる大御本尊と血脈の尊厳に対する信仰を捨てさせた「池田大作」とは、いったい何者かを。
「法華経の行者をば第六天の魔の必ず障ふべきにて候」(同一二八五ページ)
との御金言を拝信し、正体を見破らなければならない。
現今の世界の不幸と混乱は、池田教の大謗法に起因することは間違いない。
「一大悪を治するには如かず」(同 八〇八ページ)
と御教示のように、立正安国を実現する喫緊の解決策は、一大悪に正義の鉄槌を下すことである。
私たち法華講員は、大作に騙され続ける学会員に、慈念をもって破邪顕正の折伏を行し、もって意義深き御聖誕八百年の掉尾を飾ろうではないか。
Q29.「我が家の御本尊は、学会から受けた日寛上人の御本尊だ」
Q&A 創価学会員の言い分に答える
A.この本尊の相貌は総本山第二十六世日寛上人のお筆によるものですが、これは宗門から破門された創価学会が会員の組織離れを防ぐために、正当な手続きを経ることなく、日寛上人御書写の御本尊を勝手に複製し、頒布した『ニセ本尊』です。
したがって、大聖人以来の血脈に背いたこの『ニセ本尊』を拝むならば、魔の用きによって、はてしない苦しみの世界におちていくのは間違いないことなのです。
Q28.「我が家の御本尊は、第六十六世日達上人の御本尊だ」
Q&A 創価学会員の言い分に答える
A.あなたは、以前に日蓮正宗の寺院から正規に下付された日達上人の御本尊を拝んでいるのだからそれでよい、と思っているのではないでしょうか。
しかし、日達上人は、
「戒壇の根本の御本尊を離れた時には、既にその御本尊は生命もなく、人を救うところの力もないのであります」(達全一―一―三三九頁)
と仰せられ、根本の御本尊である戒壇の大御本尊から離れた御本尊には仏の命はなく、血脈も通わない、と指南されています。
創価学会は、根本の御本尊である大御本尊を放棄し、名実ともに大謗法集団となったのです。したがって、創価学会に所属するあなたが護持する日達上人の御本尊は、すでに血脈の切れた、功徳のないものになっています。
自らの幸せを築くために、一日も早く日蓮正宗の正しい教えに帰依すべきです。
Q27.「我が家の御本尊は、お寺から下付された第二十六世日寛上人の御本尊だ」
Q&A 創価学会員の言い分に答える
A.あなたは、以前に日蓮正宗の寺院から正規に下付された日寛上人の御本尊を拝んでいるのだからそれでよい、と思っているようです。
しかし、日寛上人は、
「本門の戒壇に事有り、理有り。理は謂わく、道理なり。亦義の戒壇と名づけん。謂わく、戒壇の本尊を書写して之を掛け奉る処の山々寺々家々は皆是れ道理の戒壇なり」(報恩抄文段・文段四六九頁)
と仰せられています。
すなわち、日寛上人をはじめ、御歴代上人が書写された御本尊は、すべて本門戒壇の大御本尊を根源としたものであり、その根源を離れるならば、血脈は通わないのです。
創価学会は、根源の御本尊である大御本尊を放棄し、名実ともに大謗法集団となったのです。したがって、創価学会に所属するあなたが護持する日寛上人の御本尊は、残念ながら、すでに血脈の切れた、功徳のないものになっています。
ですから、あなたは自らの幸せを築くために、一日も早く日蓮正宗の正しい教えに帰依すべきです。
Q26.「学会は選挙に勝利し、繁栄しているから正しい」
Q&A 創価学会員の言い分に答える
A.そもそも、選挙活動は信仰そのものではありません。
まして選挙における得票数や議席は、どの政党であっても常に変化するものであり、議席が少しばかり増えたからといって、創価学会が正しいなどという理由にはなりません。
Q25.「学会は御書根本だから、歴代法主や歴代会長の言葉はどうでもよい」
Q&A 創価学会員の言い分に答える
A.創価学会の幹部のなかには、「学会は御書根本だから、大聖人の言葉だけを信じている。それ以外の歴代法主や歴代会長は、途中の人師・論師にすぎないから用いる必要はない」と言う人がいます。
創価学会の言う「御書根本」については、他の項目で破折しています。(本書81・90頁参照)
「歴代法主の言葉はどうでもよい」という主張は、御歴代上人に伝えられる血脈にもとづく御指南を蔑ろにすることであり、それは『百六箇抄』に仰せられる、
「直授結要付嘱は唯一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり」(御書一七〇二頁)
との御教示に背くことであり、大謗法の言というほかはありません。
また、「歴代会長の言葉はどうでもよい」という主張は、現在の創価学会が、牧口・戸田両会長の指導に違背し、本来進むべき道を見失った状態にあることを物語っています。
ひとつの宗教団体の教義・信条がコロコロと変わり、八十数年間根本としてきた大御本尊を放棄し、歴代会長とまったく違った指導をするなどは、世間の物笑いの種というべきでしょう。
Q25.「学会は御書根本だから、歴代法主や歴代会長の言葉はどうでもよい」
Q&A 創価学会員の言い分に答える
A.創価学会の幹部のなかには、「学会は御書根本だから、大聖人の言葉だけを信じている。それ以外の歴代法主や歴代会長は、途中の人師・論師にすぎないから用いる必要はない」と言う人がいます。
創価学会の言う「御書根本」については、他の項目で破折しています。(本書81・90頁参照)
「歴代法主の言葉はどうでもよい」という主張は、御歴代上人に伝えられる血脈にもとづく御指南を蔑ろにすることであり、それは『百六箇抄』に仰せられる、
「直授結要付嘱は唯一人なり。白蓮阿闍梨日興を以て総貫首と為し、日蓮が正義悉く以て毛頭程も之を残さず、悉く付嘱せしめ畢んぬ。上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり」(御書一七〇二頁)
との御教示に背くことであり、大謗法の言というほかはありません。
また、「歴代会長の言葉はどうでもよい」という主張は、現在の創価学会が、牧口・戸田両会長の指導に違背し、本来進むべき道を見失った状態にあることを物語っています。
ひとつの宗教団体の教義・信条がコロコロと変わり、八十数年間根本としてきた大御本尊を放棄し、歴代会長とまったく違った指導をするなどは、世間の物笑いの種というべきでしょう。
70地涌の菩薩
教学ノート
地涌の菩薩とは、大地から涌いて出てこられた大勢の菩薩のことです。法華経の『従地涌出品第十五』に説かれています。
釈尊から、法華経の前半十四品(迹門)の教えを聞いてきた菩薩たちは、そのすばらしさに喜びました。そして、釈尊が亡くなった後、この経を護り修行することをお許しいただければ、私たちは多くの人々にこの経を説いてまいります」
と誓いを立てました。この菩薩たちを迹化・他方の菩薩といいます。
ところが、釈尊はその願い出を退け、「私には久遠の昔から六万恒河沙もの多くの弟子がいます。さらに、その一人ひとり六方恒河沙等の眷属がいます。私の滅後は、この菩薩たちが法華経を弘めるのです」と仰せになりました。そして、大地から地涌の菩薩を出現させました。この菩薩たちを本化の菩薩ともいいます。
(恒河とはインドに流れるガンジス川のことで、「六万恒河沙」は、ガンジス川の砂の数のように数え切れないくらい多いという意味です)
その後、釈尊は、法華経の肝要である『如来寿量品第十六』で、御自身が実は久遠からの仏であると明かされます。『如来神力品第二十一』でその内容を四句にまとめ(四句の要法)、上行菩薩をはじめとする地涌の菩薩に、未法で法華経を弘める役目を託されました。(結要付属)
そうして末法の、出現されたのが、日蓮大聖人様です。
「涌出品には、上行菩薩等が末法に出現して南無妙法蓮華経の五字を弘めると説かれている。まずは日蓮一人が先駆けて出現したのである(趣意)(御書1361ページ)
と、御自身が上行菩薩の再誕であると仰せられました。
ただし、この上行菩薩としての姿は、人々を教え導くために方便として示された姿(外用)で、真実の御姿 (內証)は末法出現の御本仏です。(超意)」(御書13615)
また、大聖人様は、『諸法実相抄』に、
「日蓮と同じ心ならば 地涌の菩薩であろうか(中略) 末法において妙法蓮華経の五字を弘める者は、男女の別なく、地涌の菩薩として出現した者であり、また、地涌の菩薩でなければ唱えることのできない御題目である(趣意)」(同666ページ)
と仰せです。もともと、末法に生まれた衆生は、過去に妙法の種を受けていません(本未有善)が、大聖人様の妙法の種を受けることで救われます。そして、本門戒壇の大御本尊と御法主上人猊下を信じて題目を唱え、一切の人々を救うために信行に励むことで、 地涌の菩薩 としての境界を開くことができ、多くの人を救っていけるのです。
Q24.「御本尊は我々の胸中の肉団にあるから、大御本尊を拝まなくてもよい」
Q&A 創価学会員の言い分に答える
A.あなたは『日女御前御返事』の、
「此の御本尊全く余所に求むる事なかれ。只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり」(御書一三八八頁)
との御文を根拠として、そのように言うのでしょう。
この御文は、衆生個々の生命に成仏の因となる仏性がそなかっており、御本尊に向かって唱題することによって、はじめて衆生の仏性が開かれ、そこに真実の仏界が涌現することを教示されたものです。
これについて、総本山第六十六世日達上人は、
「我々は、御本尊の明鏡に向かうとき、凡夫理体の仏性が境智冥合して、はじめて成仏できるのであります。自分が自身を拝んで、なんで成仏できましょうか。
そこに、御本尊の大事なことがあるのであります。もし、かってに自分自身を拝んで成仏するというならば、大聖人はなんのために御本尊をご図顕なさったのか。戒壇の御本尊を、大聖人のご当体として残されたのでありましょうか」(達全ニー五-六〇〇頁)
と仰せられています。
この御指南からも、「御本尊は我々の胸中の肉団にあるから、大御本尊を拝まなくてもよい」という言い分が間違っていることは明らかです。