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Q23.「大石寺に行かなくても、心で大御本尊を信じているからよい」
Q&A 創価学会員の言い分に答える
A.学会員のなかには、破門以降も、大石寺に安置される大御本尊を思い描いて、勤行・唱題をしていた方もいたでしょう。
そのような人達は、日蓮大聖人の教えを守って信心しているからよいと思っているかも知れません。しかし、名実ともに大御本尊から離れ、大謗法集団になった創価学会に籍を置く以上、その家庭の御本尊も、またその人の信心も、大御本尊の血脈から離れたものであり、そこに功徳は絶対にないのです。
Q22.「大御本尊から離れても功徳を受けてきた」
Q&A 創価学会員の言い分に答える
A.あなたが邪宗教となった創価学会に所属している限り、功徳と思い込んでいることは、邪宗特有の魔の通力にすぎません。
『諌暁八幡抄』には、
「一分のしるしある様なりとも、天地の知る程の祈りとは成るべからず。魔王・魔民等守護を加へて法に験の有る様なりとも、終には其の身も檀那も安穏なるべからず」(御書一五三一頁)
と仰せられています。
すなわち、邪法を信ずることによって一分の利益があったように見えても、それは仏天の利益ではなく、第六天の魔王の力によるものであり、結局は身の破滅に至るのです。
したがって今後は、いかに会員が家庭の御本尊を拝んでも、功徳を積むどころか、かえって堕地獄の業因を重ねるだけです。
Q21.「大誓堂安置の創価学会常住本尊とは、どういう御本尊か」
Q&A 創価学会員の言い分に答える
A.この御本尊は、総本山第六十四世日昇上人が昭和二十六年、第二代戸田会長の願いにより書写された御本尊です。
この御本尊の授与書きには「創価学会常住」とあり、脇書きには「大法弘通慈折広宣流布大願成就」と認められていることから、「慈折広布の御本尊」とも呼ばれています。
昭和四十九年ごろ、学会はこの「創価学会常住本尊」を模刻して板本尊としました。この板本尊が、創価学会総本部の大誓堂に安置されています。
学会は、根本である本門戒壇の大御本尊を信仰の対象から外し、書写された「慈折広布の御本尊」を重視しているようですが、これは本末転倒の行為というべきです。
(創価学会員に問いただそう)
○あなたは第六十四世日昇上人の御指南に随順しますか。
は い ⇒ 日昇上人は、本門戒壇の大御本尊を根本とすると指南されています(本書45頁参照)。創価学会は、この御指南に背いていますね。
いいえ ⇒ 随順しないということは、信用しないということです。信用できないお方が認めた御本尊を拝むあなたは、頭破作七分の悩乱者です。
Q20.「学会は『広宣流布を推進する仏意仏勅の教団』なので、御本尊を認定できる」
Q&A 創価学会員の言い分に答える
A.「広布の根源」たる大御本尊を放棄した創価学会は、「広宣流布を推進する」団体ではなく、「仏意仏勅の教団」でもありません。
今回、創価学会は従来の仏法破壊の謗法の上に、大御本尊放棄という大謗法を重ねたのです。
したがって、そのような仏意仏勅に違背する在家集団が御本尊を勝手に認定することなどは、できるはずがないのです(本書29頁参照)。
Q19.「世界広布新時代なので、過去の指導は関係ない」
Q&A 創価学会員の言い分に答える
A.日蓮大聖人の仏法において、本門戒壇の大御本尊を根本とすることは、いかなる時代であっても不変の鉄則です。
創価学会も、過去八十数年にわたって、会員に対し、本門戒壇の大御本尊への信仰を深めるよう指導してきました。
ところが今回、創価学会は「新時代」などの手前勝手な口実で、全部反故にするというのです。
これはまさしく、仏法の上から見れば虚誕罪(いつわりの罪)に当たり、世間的には「ウソツキ」と言われるのです。
たとえば、ある人が長年約束してきたことを、「新時代に入ったから」という理由で、突然「今までの約束は全部なかったことにする」と言うならば、その一事で周囲の信頼を失うでしょう。それは場合によっては、犯罪にもなります。
あなたの言い分は、それと同じです。
Q18.「学会活動の基本は、これまでと何ら変わらない」
Q&A 創価学会員の言い分に答える
A.宗教団体が信仰の対象となる本尊を変更するということは、所属する会員にとって、この上ない大事件です。
本尊を変更すれば、教義も信仰も変わらざるをえません。
にもかかわらず原田会長は、会員に対して「学会活動の基本は、これまでと何ら変わりません」(本書一三九頁参照)と言いましたが、これは会員を誑惑するための脆弁です。
Q17.「御本尊の書写とは何か」
Q&A 創価学会員の言い分に答える
A.「書写」とは「書き写す」ことであり、日蓮正宗においては、本門戒壇の大御本尊を御法主上人が「書き写す」ことを言いますが、それは単に大御本尊のお文字を書き写すことではありません。
御本尊の御書写とは、本門戒壇の大御本尊の御内証を、時の御法主上人が唯授一人血脈相伝をもってお写しされることであり、大御本尊にそなわる御本仏の「魂」と、一切衆生を救済される御本仏の功徳を、そのまま写されることなのです。