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御書を利用する誑惑の邪師ー顕正会
顕正会では、会長・浅井昭衛が、本宗の『平成新編御書』を使用してきたことが確認されている。
そんな浅井は指導の中で、「下種本仏成道御書」とか「出世本懐成就御書」など、新御書に記載のない書名を挙げることがたびたびある。 何のことかと思っていたら、『種々御振舞御書』や『聖人御難事に対して、浅井がわがまま勝手に異称を付けていたのだ。
古来、宗門において御歴代上人も使用してきた御書名を、何故わざわざ変える必要があるのか。
そこには、浅井の傲慢と自己顕示欲鉄が透けて見える。さらには、一般会員に対して、自身の権威を虚飾するために御書を利用する様も見て取れる。
以前、下の御書集を出版すると大々的に喧伝していたが、二十年以上が経過しても、その姿は見えない。
理由として、単にその能力がないこともあろうが、自分が御書を曲解して利用し続けるためには、会員が直接御書を手にすることは都合が悪いと気づいたからではないだろうか。
その最たる例が、顕正会が執着する「国立戒壇」である。
「国立戒壇」は御書にない
日蓮大聖人は御遺命として広宣流布の暁に建立するべき戒壇の御教示として、
『三大秘法抄』に、
「勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か」(御書1595ページ)
『日蓮一期弘法付嘱書』に、
「国主此の法を立てらるば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」(同 1675ページ)
とお認めである。明示しているのは「本門寺の戒壇」で、「国立戒壇」の名称はどこにもない。つまり「国立戒壇」の名称にこだわる理由は全くないのだ。
なのに浅井は、「御文の意図は国立戒壇」と強弁する。 もし直接に御書を拝すことができるようになれば、多くの会員は浅井の指導が詭弁であることに気づくだろう。
顕正会は、背く輩
また近年、浅井は唯授一人人の血脈相承否定の暴挙を繰り返している。
『身延山付属書』には、
「釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり」(同)
また、『百六箇抄』に、
「上首已下並びに末弟等異論無く尽未来際に至るまで、予が存日の如く、日興が嫡々付法の上人を以て総貫首と仰ぐべき者なり」(同1702ページ)
等とある御文を拝すれば血脈否定は、そのまま大聖人を否定する非法のであることが明白である。
それは、自身が以前、血と脈を否定する創価学会に対し、
「仏法破壊の大謗法(趣意)」(顕正新聞平成四年六月五日付)
のと批判していたのだから、十分に判っているはずだ。
御本尊を軽蔑する浅井
さらに、現在指摘されている偽造本尊疑惑について、顕正会では「本尊のことは浅井先生の指導によるもの」としているようだ。
だが、『本因妙抄』には、
「此の血脈並びに本尊の大事は日蓮崎々主伝法の書、塔中相承の果 承唯授一人の血脈なり」(御書 1684ページ)
とあるように、御本尊に関する権能は血脈付法の御法主上人猊下にのみ存する。故に浅井が勝手に判断することなど、断じてあってはならないのだ。
ましてや、近年増殖し続ける形木本尊については、
『富士一跡門徒存知事』に、
「御筆の本尊を以て形木に彫み、不信の輩に授与して軽蔑する由諸方に其の聞こえ有り」(同1872ページ)
と記され、本尊軽蔑の大謗法と断ぜられている。
御書の前に崩れる言い分
このように、御書を拝すれば、顕正会の主張していることがことごとく、どれほど大聖人の御教示から逸
脱しているかが明確に判る。
私たちは御書を通じて、浅井の欺瞞と虚像を白日のもとに晒し、一人でも多くの会員を救うべく折伏に邁
進していこうではないか。
哀れ大作 慢の頂上へ
創価学会
今年五月、米国カリフォルニア州のオークランド市にあるSGI(創価学会インターナショナル)会館前の通りの一区画が「池田大作通り」と名付けられたそうだ。発議者は、
「池田博士のリーダーシップのもと、目の前の一人に寄り添い、行動を起こすSGIメンバーの姿に感銘を受けています」(聖教新聞 令和3年5月13日付)
等と語り、国際社会への貢献を讃えたという。
しかし、大作が何をもって国際社会に貢献したというのだろう。世界中に大謗法の思想と言辞と罪障をまき散らしただけである。
『立正安国論』に
「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(御書241ページ)
と示される「一凶」とは、大作とそれに追従する創価学会に他ならない。
とりわけ、大作は邪法乱国の首魁、諸悪の根源である。そんな人物が、仮に世間でどれほど讃えられたとしても、絶対に御本仏日蓮大聖人が御嘉納されるところではない。
現代版潜聖増上慢
大聖人の御在世当時、病人や貧困者を助けたり橋や道を造るなど慈善事業を行い、生き仏の如く装いながら、大聖人を怨嫉し御命まで奪わんとした極楽寺良観を大聖人は 潜聖増上慢 と断ぜられた。法華経『勧持品第十三』に
「或は阿練若(あれんにゃ)に納衣(のうえ)にして空閑(くうげん)に在って自ら真の道を行ずと謂(おも)ひて人間を軽賎(きょうせん)するもの有らん。利養に貪著(とんじゃく)するが故に白衣(びゃくえ)の与(ため)に法を説き、世に恭敬(くぎょ)せらるゝこと六通の羅漢の如くならん。是の人悪心を懐(いだ)き、常に世俗の事を念(おも)ひ、名を阿練若に仮りて好んで我等が過(とが)を出ださん云々」(法華経376ページ)
と説かれる 潜聖増上慢の姿は、鎌倉時代の良観そのものであり、現代の大作そのまま。「 自ら真の道を行ず 」という慢心と思い上がり、「利養に 貪著 」するために世界に媚を売って「 世に恭敬され」、「悪心を懐き」宗門に対する悪口罵詈・誹謗中傷を止めない。彼の所業はすべて、経文にピタリと符合しているのである。
名聞名利を貪る大作
大作は、多方面に及ぶ機関等から多くの称号や勲章を受け、その数、実に四百数十に及ぶという。
かつて、これほどの世俗の「名誉」を手にした宗教者がいただろうか。創価学会は、大作の名誉を自慢げに報道し、その目論見に乗せられた末端会員も自分の属する学会の正義の裏付け、拠り所としたい。
尋常ならざる称号の数が示すのは、傑出した人徳などではなく、類ない俗物ぶりである。自らに正義がないことを自らの命は知っているものだ。
「若悩乱者 頭破七分」の如くで、哀れこの上ないが「誰か認めてくれる人が欲しい」と、際限なく不安に苛まれている故の「勲章の数」なのだ。
大作の呪縛から解き放て
言うまでもなく、三類の強敵は恐るべき仏敵である。『開目抄』には、
「妙楽云わく『三塁最も甚だし。後々の者は転識りがたきを以ての故に』等云々」(御書568ページ)
と、中でも三番目の僭聖増上優こそ、正体を見破るのが難しく、最も悪質で手強いとされる。 正法を持つ我々の眼からは、大作の本性と学会の魂胆が丸見えだが、会員たちの目には、そうと映らない。
かくして、名誉博士や名誉市民、勲章その他をせがみ、世に敬われようと漁り続ける姿は、増上慢の極みであり、末端会員を大謗法へ扇動する悪の根源だ。
大聖人は『持妙法華問答抄』に、
「只、須く汝仏にならんと思はぶ、慢のはたほこをたをし、怒りの杖をすて 偏に一乗に帰すべし。 名聞名利は今生のかざり、我慢偏 執は後生のほだしなり。 嗚呼、恥づべし恥づべし、恐るべし恐るべし」(同 二九六ページ)
と仰せである。 我々は、この御金言を拝して自戒すると共に、大作という大慢の瞳を倒し、学会の呪縛から
会員たちを解放するべく、慈悲の折伏に努めよう。