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一谷入道女房御書(一谷入道御書)

御書3

一谷入道女房御書 (一谷入道御書)
建治元年五月八日 五四歳

 去ぬる弘長元年太歳辛酉五月十二日に御勘気をかをほりて、伊豆国伊東の郷というところに流罪せられたりき。兵衛介頼朝のながされてありしところなり。さりしかどもほどもなく同じき三年太歳癸亥二月に召し返されぬ。又文永八年太歳辛未九月十二日重ねて御勘気を蒙りしが、忽ちに頚を刎ねらるべきにてありけるが、子細ありけるかの故にしばらくのびて、北国佐渡の島を知行する武蔵前司の預かりにて、其の内の者どもの沙汰として彼の島に行き付きてありしが、彼の島の者ども因果の理をも弁へぬあらゑびすなれば、あらくあたりし事は申す計りなし。然れども一分も恨むる心なし。其の故は日本国の主として少しも道理を知りぬべき相模殿だにも、国をたすけんと云ふ者を子細も聞きほどかず、理不尽に死罪にあてがう事なれば、いわうやそのすへの者どものことはよきもたのまれず、あしきもにくからず。

 此の法門を申し始めしより命をば法華経に奉り、名をば十方世界の諸仏の浄土にながすべしと思ひ儲けしなり。弘演といゐし者は、主衛の懿公の肝を取りて我が腹を割きて納めて死にき。予譲といゐし者は主の智伯がはぢをすゝがんがために剣をのみて死せしぞかし。此はたゞわづかの世間の恩をほうぜんがためぞかし。いわうや無量劫より已来六道に沈淪して仏にならざることは、法華経の御ために身ををしみ命をすてざるゆへぞかし。されば喜見菩薩と申せし菩薩は、千二百歳が間身をやきて日月浄明徳仏を供養し、七万二千歳が間ひぢをやきて法華経を供養し奉る。其の人は今の薬王菩薩ぞかし。不軽菩薩は法華経の御ために多劫が間罵詈毀辱・杖木瓦礫にせめられき。今の釈迦仏に有らずや。されば仏になる道は時によりてしなじなにかわりて行ずべきにや。今の世には法華経はさる事にてをはすれども、時によて事ことなるならひなれば、山林にまじわりて読誦すとも、将又里に住して演説すとも、持戒にて行ずとも、臂をやひてくやうすとも仏にはなるべからず。日本国は仏法盛んなるやうなれども仏法について不思議あり。人是を知らず。譬へば虫の火に入り鳥の蛇の口に入るが如し。真言師・華厳宗・法相・三論・禅宗・浄土宗・律宗等の人々は我も法をえたり、我も生死をはなれなんとはをもへども、立てはじめし本師等依経の心をわきまへず、但我が心のをもひつきてありしまゝに、その経をとりたてんとおもうはかなき心ばかりにて、法華経にそむけば仏意に叶はざる事をばしらずしてひろめゆくほどに、国主万民これを信じぬ。又他国へわたりぬ。又年もひさしくなりぬ。末々の学者等は本師のあやまりをばしらずして、師のごとくひろめならう人々を智者とはをもへり。源にごりぬればながれきよからず。身まがればかげなをからず。真言の元祖善無畏等はすでに地獄に堕ちぬべかりしが、或は改悔して地獄を脱れたる者もあり。或は只依経計りをひろめて法華経の讃歎をもせざれば、生死は離れねども悪道に堕ちざる人もあり。而るを末々の者此の事を知らずして諸人一同に信をなしぬ。譬へば破れたる船に乗りて大海に浮かび、酒に酔へる者の火の中に臥せるが如し。

 日蓮是を見し故に忽ちに菩提心を発こして此の事を申し始めしなり。世間の人々いかに申すとも信ずることはあるべからず。かへりて死罪流罪となるべしとはかねて知りてありしかども、今の日本国は法華経をそむき、釈迦仏をすつるゆへに、後生に阿鼻大城に堕つることはさてをきぬ。今生に必ず大難に値ふべし。所謂他国よりせめきたりて、上一人より下万民に至るまで一同の歎きあるべし。譬へば千人の兄弟が一人の親を殺したらんに、此の罪を千に分けては受くべからず。一々に皆無間大城に堕ちて同じく一劫を経べし。此の国も又々是くの如し。娑婆世界は五百塵点劫より已来教主釈尊の御所領なり。大地・虚空・山海・草木一分も他仏の有ならず。又一切衆生は釈尊の御子なり。譬へば成劫の始め一人の梵王下りて六道の衆生をば生みて候ひしぞかし。梵王の一切衆生の親たるが如く、釈迦仏も又一切衆生の親なり。又此の国の一切衆生のためには教主釈尊は明師にておはするぞかし。父母を知るも師の恩なり。黒白を弁ふるも釈尊の恩なり。而るを天魔の身に入りて候善導・法然なんどが申すに付けて、国土に阿弥陀堂を造り、或は一郡・一郷・一村等に阿弥陀堂を造り、或は百姓万民の宅ごとに阿弥陀堂を造り、或は宅々人々ごとに阿弥陀仏を書き造り、或は人ごとに口々に或は高声に唱へ、或は一万遍或は六万遍なんど唱ふるに、少しも智慧ある者は、いよいよこれをすゝむ。譬へば火にかれたる草をくわへ、水に風を合はせたるに似たり。此の国の人々は一人もなく教主釈尊の御弟子御民ぞかし。而るに阿弥陀等の他仏を一仏もつくらず、かゝず、念仏も申さずある者は悪人なれども釈迦仏を捨て奉る色は未だ顕はれず。一向に阿弥陀仏を念ずる人々は既に釈迦仏を捨て奉る色顕然なり。彼の人々の墓無き念仏を申す者は悪人にてあるぞかし。父母にもあらず主君・師匠にてもおはせぬ仏をば、いとをしき妻の様にもてなし、現に国主・父母・明師たる釈迦仏を捨て、乳母の如くなる法華経をば口にも誦し奉らず。是豈不孝の者にあらずや。此の不孝の人々、一人二人、百人千人ならず、一国二国ならず、上一人より下万民にいたるまで、日本国皆こぞて一人もなく三逆罪のものなり。されば日月色を変じて此をにらみ、大地もいかりてをどりあがり、大せいせい天にはびこり、大火国に充満すれども僻事ありともおもはず、我等は念仏にひまなし、其の上念仏堂を造り、阿弥陀仏を持ち奉るなんど自讃するなり。是は賢き様にて墓無し。譬へば若き夫妻等が夫は女を愛し、女は夫をいとおしむ程に、父母のゆくへをしらず。父母は衣薄けれども我はねや熱し。父母は食せざれども我は腹に飽きぬ。是は第一の不孝なれども彼等は失ともしらず。況んや母に背く妻、父にさかへる夫、逆重罪にあらずや。阿弥陀仏は十万億のあなたに有りて、此の娑婆世界には一分も縁なし。なにと云ふとも故もなきなり。馬に牛を合はせ、犬に猿をかたらひたるが如し。

 但日蓮一人計り此の事を知りぬ。命を惜しみて云はずば国恩を報ぜぬ上教主釈尊の御敵となるべし。是を恐れずして有りのまゝに申すならば死罪となるべし。設ひ死罪は免るとも流罪は疑ひなかるべしとは兼ねて知りてありしかども、仏恩重きが故に人をはゞからず申しぬ。案にたがはず両度まで流されて候ひし中に、文永九年の夏の比、佐渡国石田郷一谷と云ひし処に有りしに、預かりたる名主等は、公と云ひ私と云ひ、父母の敵よりも宿世の敵よりも悪げにありしに、宿の入道といゐ、めといゐ、つかうものと云ひ、始めはおぢをそれしかども先世の事にやありけん、内々不便と思ふ心付きぬ。預かりよりあづかる食は少なし。付ける弟子は多くありしに、僅かの飯の二口三口ありしを、或はおしきに分け、或は手に入れて食せしに、宅主内々心あて、外にはをそるゝ様なれども内には不便げにありし事何の世にかわすれん。我を生みておはせし父母よりも、当時は大事とこそ思ひしか。何なる恩をもはげむべし。まして約束せし事たがうべしや。然れども入道の心は後世を深く思ひてある者なれば、久しく念仏を申しつもりぬ。其の上阿弥陀堂を造り、田畠も其の仏の物なり。地頭も又をそろしなんど思ひて直ちに法華経にはならず。是は彼の身には第一の道理ぞかし。然れども又無間大城は疑ひ無し。設ひ是より法華経を遺はしたりとも、世間もをそろしければ念仏すつべからずなんど思はゞ、火に水を合はせたるが如し。謗法の大水、法華経を信ずる小火をけさん事疑ひなかるべし。入道地獄に堕つるならば還って日蓮が失になるべし。如何がせん如何がせんと思ひわづらひて今まで法華経を渡し奉らず。渡し進らせんが為にまうけまいらせて有りつる法華経をば、鎌倉の焼亡に取り失ひ参らせて候由申す。旁入道の法華経の縁はなかりけり。約束申しける我が心も不思議なり。又我とはすゝまざりしを、鎌倉の尼の還りの用途に歎きし故に、口入有りし事なげかし。本銭に利分を添へて返さんとすれば、又弟子が云はく、御約束違ひなんど申す。旁進退極まりて候へども、人の思はん様は誑惑の様なるべし。力及ばずして法華経を一部十巻渡し奉る。入道よりもうばにてありし者は内々心よせなりしかば、是を持ち給へ。

 日蓮が申す事は愚かなる者の申す事なれば用ひず。されども去ぬる文永十一年太歳甲戌十月に蒙古国より筑紫によせて有りしに、対馬の者かためて有りしに宗の総馬尉逃げければ、百姓等は男をば或は殺し、或は生け取りにし、女をば或は取り集めて手をとをして船に結ひ付け、或は生け取りにす。一人も助かる者なし。壱岐によせても又是くの如し。船おしよせて有りけるには、奉行入道豊前の前司は逃げて落ちぬ。松浦党は数百人打たれ、或は生け取りにせられしかば、寄せたりける浦々の百姓ども壱岐・対馬の如し。又今度は如何が有るらん。彼の国の百千万億の兵、日本国を引き回らして寄せて有るならば如何に成るべきぞ。此の手は先づ佐渡の島に付きて、地頭・守護をば須臾に打ち殺し、百姓等は北山へにげん程に、或は殺され、或は生け取られ、或は山にして死ぬべし。抑是程の事は如何として起こるべきぞと推すべし。前に申しつるが如く、此の国の者は一人もなく三逆罪の者なり。是は梵王・帝釈・日月・四天の、彼の蒙古国の大王の身に入らせ給ひて責め給ふなり。日蓮は愚かなれども、釈迦仏の御使ひ・法華経の行者なりとなのり候を、用ひざらんだにも不思議なるべし。其の失に依って国破れなんとす。況んや或は国々を追ひ、或は引っぱり、或は打擲し、或は流罪し、或は弟子を殺し、或は所領を取る。現の父母の使ひをかくせん人々よかるべしや。日蓮は日本国の人々の父母ぞかし、主君ぞかし、明師ぞかし。是を背かん事よ。念仏を申さん人々は無間地獄に堕ちん事決定なるべし。たのもしたのもし。

 抑蒙古国より責めん時は如何がせさせ給ふべき。此の法華経をいたゞき、頚にかけさせ給ひて北山へ登らせ給ふとも、年比念仏者を養ひ念仏を申して、釈迦仏・法華経の御敵とならせ給ひて有りし事は久しゝ。又若し命ともなるならば法華経ばし恨みさせ給ふなよ。又閻魔王宮にしては何とか仰せあるべき。をこがましき事とはおぼすとも、其の時は日蓮が檀那なりとこそ仰せあらんずらめ。又是はさてをきぬ。此の法華経をば学乗房に常に開かさせ給ふべし。人如何に云ふとも、念仏者・真言師・持斎なんどにばし開かさせ給ふべからず。又日蓮が弟子となのるとも、日蓮が判を持たざらん者をば御用ひあるべからず。恐々謹言。
 五月八日                 日  蓮 花押
一谷入道女房

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