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道端にある石像 ー民間信仰

諸宗教破折2

3/31/2018   外を歩いていると、
道端で様々な石像を見かけることがある。
「道祖神」と呼ばれる、
自然石に注連縄(しめなわ)の張られたものや文字の刻まれた石碑、男女ニ体が手を繋(つな)いでいるもの、性器を模したもの。
あるいは後代に出現した「お地蔵さん」と言われる地蔵菩薩も、と様々だ。
道祖神とは一体?
その中の道祖神と称される石像は、起源は定かではないが古来、「塞(さえ)の神」「斉(さい)の神」等と呼ばれ、日本各地の道端や峠などに置かれている。

大昔、自分の村とよその集落との境目や道の分岐点で、外から侵入して村人を死に追いやる流行(はや)り病(やまい)、悪霊を防いでもらう役割が持たされていたからだ。
その道祖神に、時代を経ることに新たな意義が加えられたり拡張してきた。例えば、辻にあるから、旅の安全を守る神、この世とあの世の境を司(つかさど)る神などと。

また、他の民間信仰や仏教とも結びついたり雑説が伝えられるようになる。

例えば、神道の信仰と結びついて、日本神話の天孫降臨の際に道案内したとされる「猿田彦神」 と同一視されたり、
仏教と結びついて、六道〈地獄・餓鬼(がき)・畜生・修羅・人間・天上の六界〉の入り口にいるとされる地蔵菩薩を道祖神とする信仰も生まれた。現在、各地の道端や村落共同墓地の入り口で地蔵の石像が六体並んでいるのを見かけるのは、このためである。
こうして地域・村落の守り神として祀(まつ)られたこの石像に、人々は、五穀豊穣(ほうじょう)、子孫繁栄、息災延命などを祈って手を合わせてきた。

誤った信仰では災難を招く
このように道祖神は、長い歴史と、人々を様々な営みの中で、いろいろな考えや願いが盛り込まれて作り上げられてきた民間信仰である。そこには、真実の宗教に必要な、文証も道理も現証も存在しない。
六地蔵も、地蔵菩薩の根拠とされる経典は中国で創作された偽経、あるいは真実を明かさない方便の経なので、末法の衆生を真に救済するものではない。

今日でも、道祖神に手を合わせて花などを供える人、
道祖神にまつわる地域の祭りに参加している人もいるだろう。それらに、
「昔から行われている習慣」
「何となく有り難いから」
「祭りが楽しい」

などと、気軽な気持ちで参加している人もいるに違いない。
しかし、信仰心はなくとも真実の教えでないものに手を合わせたり、祭りに参加したりすることは、謗法行為である。地域社会に災難を招く原因とはなっても、けっして人々の平和の繁栄には繋がらない。
いつの時代も、地域の平和と人々の安泰を願う気持ちは尊いもの。しかし、その目的を達するには、正しい手段を選ぶ必要がある。
目的を叶えるには正しい手段を
卑近な例だが、ダイエットをするという目的があったても、健康を害する手段をとっては元も子もない。
世界平和という目的があっても、戦争などという愚かな手段を使っては本末転倒である。
地域社会と個人の真の平和と繁栄は、真実最高の教えである日蓮大聖人の正法に帰依(きえ)しなければ実現しない。
大聖人が『立正安国論』の中で、
「今すぐ誤った信仰を改め、正しい教えに帰依するべきである。そのことで我々の住む所か仏国土となって災難がなくなり、心身は安らかにして幸福の境界が定まることを信じるべきである〈趣意〉」  〈御書  二五〇㌻〉

と御教示のように、最も大切なことは、まず自分自身が誤った信仰を改めて、正しい御本尊に帰依することに尽きる。
この御本尊の絶大な功徳を、大聖人は次のように仰せだ。
「このまんだら(曼荼羅)を身にたもちぬれば〈中略〉一切の仏神等のあつ(集)まりまぼ(守)り、昼夜にかげのごとくまぼ(守)らせ給ふ法にて候。よくよく御信用あるべし」  〈同  九〇三㌻〉

「道祖神」などの俗信に惑(まど)わされてはいけない。一切の仏神から守護され、真の幸福を得る道は、三大秘法の御本尊を受持信行する以外にないのだから。

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