諸宗教破折2
2/26/2020 怪しい派遣サービス
誰しもに訪れる人生の終わり。そこに宗教(葬儀)が関わることになるのだが、菩提寺がなく、”もしも”の時に頼れる僧侶がいない人が増えている現代。
そこに目を付けた商売に、 「僧侶派遣サービス」がある。 葬儀に僧侶を手軽に呼べることを売りにしており、取り扱っている宗派も多岐(たき)にわたる。
インターネット上に乱立するサイトの画面上で、宗派、戒名の要不要、通常の葬儀または火葬式 (直葬)などを選択入力していけば、費用総額が提示され、申込みまで完了。派遣僧の宗派お任せで、割引があると謳(うた)う業者も案の定(あんのじょう)というか、「費用を抑(おさ)えたい」「檀家として寺院と付き合わずに済むから重宝(ちょうほう)」と利用した人から、派遣された僧侶が騙(かた)った寺は実際は存在しなかった、僧侶もニセモノだった、等の指摘がある。
多くの業者は ”僧籍のある本物の僧侶”、を派遣すると宣伝する。 が、やり直しのきかない、たった一度の葬儀を、どこかの宗派に在籍している僧が、とりあえず読経すればいいのか。これら僧侶派遣業の出現は、時代と共に葬礼がサービス業ととらえられ、今どきの、できるだけ不要なお金は使いたくないという世の風潮の一端か。だとすれば今後も、収入に不安のある高齢者の人口比率増加を考えれば、この種の新規商売は、ますます増えるのかも知れない。
しかし一方で、二十代で「終活」に興味を持つ若者たち、四十代で遺影を準備する人たちがいるとも。本心は、きちんと終わりを迎えたいということだろう。
邪師の引導は堕(だ)地獄の因
導く者の大切さを説いた仏教説話がある。
ある一本の木の下に、月を映(うつ)した井戸があったそこに、五百匹の猿の群れがやってきた。ポス猿は井戸に浮かぶ月を見て
「月が井戸に落ちている。みんなで月を取り出して暗闇を破ろう」
と提案した。
そこでポス猿は、
「わしが木の枝をつかむから、お前たちはそれぞれ尻尾(しっぽ)をつかめ。そうすれば手が月まで届く」
と命じた。
言われた通りにした猿たちの手が、もう少しで井戸の水に届こうとした時、あまりの重さに枝が折れ、井戸の中にみんな堕(お)ちて溺死(できし)してしまった。
師が間違っていると、多くの者を道連れにしてしまうことを諭す話だ。
人生の最大事である葬儀を何のために執り行うかといえば、故人を成仏の境界へと導くためである。
それを、根拠のない本尊や、釈尊自らが「信じてはならない」と断じた方便の教えに基づいて行っても目的が達せられないのは当然である。
むしろ、邪法邪師による葬儀は、かのボス猿の如く故人、及び施主を苦しみの結果に導くことを知るべきであろう。
正しい葬儀とは
「正しい」葬儀とは、ゆめゆめ送る側の納得や満足のためではない。
正しい教法により葬送の儀式を執行(しっこう)するのが、遺(のこ)された者の重要な務め、真実最高の報恩行である。
日蓮大聖人が。
「今日蓮等(たぐい)の類 聖霊(しょうりょう)を訪(とぶら)ふ時、法華経を読誦(どくじゅ)し南無妙法蓮華経と唱へ奉る時、題目の光無間(むげん)に至って即身成仏せしむ」(御書一七二四祭)
と御教示のように、末法の一切衆生を救済成仏させ得る力と用(はたら)きのある、唯一の正法とは、一閣浮提(いちえんぶだい)第一の本門の本尊である。この御本尊に信心無二に唱える題目の功徳により、どのような人でも無始(むし)以来の罪障を消滅し、必ず即身成仏の境界に導かれる故に、正しい葬儀とは
日蓮正宗の御本尊を奉掲(ほうけい)し、 仏法の道理を正しく弁(わきま)える日蓮正宗の御曽侶に導師を務めていただき、師檀共に御題目を唱え、故人を御本仏の在(ましま)す常寂光の仏土へと送ることである。なお、故人の未来世に関わる重大な葬儀に際しては、一切の邪義誘謗法の念慮を断(た)ち、清浄なる信心をもって心静かに、感謝の御題目を唱えていきたい。故人の成仏、遺族の心の平安のためにも、人生最期の選択は、けっして誤ってはならない。
(大白法 第一〇二三号 令和二年二月十六日)