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法華経について㉒

法華経について(全34)
22大白法 平成27年12月1日刊(第922号)より転載

『分別功徳品第十七』
 先の『寿量品』では、釈尊が久遠五百塵点劫に菩薩道を行じて成仏し、それより娑婆世界で人々を教化し続けてこられたことを明かし、実には常住でありながら人々を教化するため、仮に滅度を示すことが説かれました。
 今回の『分別功徳品』の前半では、本門正宗分の最後としてその利益が順々に説かれ、後半からは本門流通分の説法に入ります。

  本門正宗分(前半)
 当品の内容を述べる前に五十二位について説明します。
 この五十二位とは、菩薩が成仏するまでの段階を、十信・十住・十行・十回向・十地・等覚・妙覚の計五十二の位に分けたものです。このうち法華円教では、初住(十住の初めの位)をもって不退の境界に入ると定められています。
 法華経迹門の説法で声聞が記別を得たのは、この初住の相を示したものとされ、当品の前半では『寿量品』を聴聞した人々がそれ以降の利益を分々に得たことが説かれます。
 釈尊は弥勒菩薩(阿逸多)に、
「阿逸多よ。私がこのように仏の寿命が常住であると説くとき、ガンジス川流域の砂数を六百八十万億倍したほど多くの人々が、森羅万象が生じたり滅したりせず、単独で存在するのでもなく、互いに繋がり関係し合っているという中道の智慧を得て、不退の位にのぼることを得た【十住の益】。
 そして、その千倍もの菩薩たちが仏の一切の教えを聞いて記憶し、忘れることがない聞持陀羅尼の功徳を得たのである【十行の益】。
 また一つの世界をすり潰した塵の数(一世界微塵数)ほどの人数の菩薩たちが、人々の性質や欲望にしたがって自在に説法する弁才の功徳を得た【十回向の益】。
 また同じ人数の菩薩たちが、膨大な塵沙の煩悩を破って自在に仏法を顕わす旋陀羅尼の功徳を得たのである【初地の益】」
 以降、順番に十地の益まで説いた後、
「一つの須弥山を中心とした世界を微塵にした数の菩薩たちが、その一生において成仏を遂げるであろう」
と等覚の利益を説かれ、最後に、
「八つの世界を微塵にした数の人々が、皆、仏道を発心したのである」
と、十信の利益を説かれました。
 すると、天より曼荼羅華(白蓮華)・摩訶曼荼羅華の花が降ってきて、その場に来集していた諸仏、及び宝塔の中の釈尊と多宝仏、さらに菩薩たちや僧尼、在俗のご信徒の上に舞い散ったのです。
 また、粉末になった栴檀や沈香及び香水が降り、虚空の中に天人の鼓が打ち鳴って妙なる音色が響き渡るなどして、説法の会座を厳かにし、諸の菩薩たちが美しい声で詩歌をもって諸仏を讃歎されたのです。
 その後、弥勒菩薩が偈頌を申し述べて、本門正宗分の一品二半は終わります。

 本門流通分(後半)
  ―四信五品
 後半の流通分に入ると、釈尊は現在の四信と滅後の五品について説かれました。
 現在の四信とは、釈尊在世において『寿量品』の説法を聞き信心修行をする人の四つの段階(一念信解・略解言趣・広為他説・深信観成)で、滅後の五品とは、釈尊滅後における『寿量品』の信行の五つの段階(随喜品・読誦品・説法品・兼行六度品・正行六度品)です。
 釈尊はまず一念信解について、
「阿逸多よ。法華経本門『寿量品』の教えを聞いて、一念(刹那の短時間)のうちに信じ、理解する心を発すならば、その人が得る功徳は量り知れない。もし七十億劫もの長い間を五波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定)の修行を行った功徳と、この一念の信解の功徳を比較するならば、五波羅密の修行の功徳は一念信解の功徳に百千万億分の一にも及ばない。このように一念の信解の功徳は莫大なものである」
と説かれ、次いで、
「阿逸多よ。もし仏の寿命が常住であると聞き、その教えと趣旨を理解し解説するならば、その得るところの功徳は量り知れない【略解言趣】。
 ましてや、人々に向かって広くこの経を説き、または自分も受持し他人にも受持せしめ、または自ら書写し他人にも書写せしめ、様々な方法で『寿量品』を供養するならば、その人の功徳は無量である【広為他説】。
 阿逸多よ。男性であれ、女性であれ、この仏の寿命の長遠なる教えを心に深く信じ、理解するならば、必ずや仏が常に霊鷲山にいて、菩薩をはじめとする人々に囲まれて説法している姿を見ることができるであろう。
 そして、この娑婆世界は浄土であり、琉璃や金、宝樹の立ち並ぶ世界の中に菩薩が住んでいるところを見ることができるのである【深信観成】」
と説かれました。
 釈尊は、さらに滅後における修行の五つの段階を説かれました。
「阿逸多よ。仏の滅後の時代に、この法華経を聞いて、けっして謗ることなく素直に信じ、随喜の心を発すならば、その人は既に深く信解の相に達しているのである【随喜品】。
 ましてや、法華経を受持し読誦する者はなおさらであり、その者はその身に如来を頂戴していることになる。
 阿逸多よ。この法華経を読誦する者たちは、仏のために塔や寺を建て、僧のために坊を建てて、諸の宝物、香、音楽をもって、長い間供養し続けることと同じである【読誦品】。
 阿逸多よ。もし滅後にこの法華経を聞いて、よく受持し、さらに自ら書写し、また人々にも書写せしめるならば、その人は荘厳な僧坊や堂宇を数え切れないほど造り、仏や僧を供養することになるのである【説法品】。
 ましてやよく法華経を受持し、兼ねて布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜の菩薩行を修するならば、その功徳は極めて勝れ無量無辺であり、速やかに仏の智慧の一分を体得するであろう【兼行六度品】。
 もし人が、この法華経を受持し読誦すると共に人々のために説法し、あるいは自ら書写し、他人に書写せしめ、荘厳な塔や僧坊を建て、声聞や菩薩を供養讃歎し、これらを通して正しく六波羅蜜の行を実践する。
 阿逸多よ。私の滅後にこのように修行する者は、既に仏の悟りの道場に座して、無上菩提に近づいているのと同じである【正行六度品】」
 そして、以上の内容を重ねて偈頌として説かれ、当品は結ばれます。

  信の大事
 この四信五品について、四信の一念信解と五品の随喜品は、最初の段階でありながらも、他の経々の修行よりもはるかに大きな功徳があることに留意しなくてはいけません。
 宗祖日蓮大聖人様は、末法の私たちにおける五品の修行について『四信五品抄』に、
「所謂五品の初・二・三品には、仏正しく戒定の二法を制止して一向に慧の一分に限る。慧又堪へざれば信を以て慧に代ふ。信の一字を詮と為す。不信は一闡提謗法の因、信は慧の因、名字即の位なり」(御書 一一一二頁)
と仰せられています。
 「初・二・三品」とは先の滅後の五品の初めの三品までで、『寿量品』を喜びの心を持って信心を持ち、読誦し、人々に説き弘める人の位です。また戒定慧の修行には仏道修行の一切を含む意味があります。
 この御金言は、私たちが信心をもって慧に代えて、信心を根本とする修行に徹することで、戒定慧の一切を含む修行となることを仰せられたものです。
 私たちは「信の一字を詮と為す」との御金言のように、信心を根本に、唱題に折伏に励んでいくことが肝要です・折伏誓願目標の完遂に向かって、精進してまいりましょう。

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