法華経について(全34)
5大白法 平成26年2月1日刊(第878号)より転載
「日蓮正宗の基本を学ぼう」のコーナーは、前回から三ヵ月の期間が経ちましたが、引き続き、本年も法華経について学んでいきたいと思います。
前回は、法華経の開経である無量義経について学びました。いよいよ今回から法華経二十八品の初めである『序品』に入ります。
『序品第一』
『序品第一』は、法華経全体の序分に当たっています。序分とは正意となる教法を説くための準備となる部分のことです。
『法華経序品第一』に、
「仏、此の経を説き已って、結跏趺坐し、無量義処三昧に入って、身心動じたまわず」(法華経 五九頁)
と説かれるように、釈尊は無量義経を説かれた後、無量義処三昧という禅定に入られ、一言も説かれないまま、種々の不可思議な瑞相を示されます。
通序と別序について
この序品は、法華経全体の序分に当たることを述べましたが、天台大師はその序分について、『法華文句』に、通序と別序の二つの意味があると釈しています。
まず通序とは一切経に通じている序分のことです。
通序が一切経に通じるのは、諸経の冒頭には共通して、釈尊が説かれた法を、私はこのように聞きましたという「如是我聞」の句があり、いつ、どのような仏が、どこで、どのような衆生にその法を説いたのかを表わしてから本題が始まるからです。
法華経の『序品』の冒頭では、
「是の如く我聞きき。一時、仏、王舎城耆闍崛山の中に住したまい、大比丘衆、萬二千人と倶なりき」(同 五五頁)
と説かれ、信、聞、時、主、処、衆の六事が成就した通序となっています。
一の信とは、仏が説かれた法に対し、信順の念を表わすことであり、二の聞とは、仏の説かれた法を聞き、能く持つ人をいいます。三の時とは、仏が法を説かれる時を示し、四の主とは、法を説く主体者である仏を示します。五の処とは、教法の説かれた場所を言います。そして六の衆とは、仏は誰に対して法を説かれたのかを表わします。
この六事が成就し、初めて経が説かれるので、必ず諸経の初めにつけられるのです。
次に別序ですが、それぞれの経に限っての序分のことで、法華経の『序品』においては、衆集・現瑞・疑念・発問・答問の五序の構成になっています。『序品』で起きた不可思議な瑞相は第二の現瑞序に当たり、その瑞相を細かく分類すると此土の六瑞と他土の六瑞になります。
此土の六瑞と他土の六瑞について
まず此土の六瑞とは説法・入定・雨華・地動・衆喜・放光をいいます。
第一の説法瑞とは釈尊が無量義経を説き、過去四十余年の経々が未顕真実であることを示したこと、第二の入定瑞とは、釈尊が無量義処三昧という禅定に入られたこと、第三の雨華瑞とは、釈尊が無量義処三昧に入られたとき、天より四種の花が降り注いだこと、第四の地動瑞とは広く仏の世界が六種に震動したこと、第五の衆喜瑞とは、これらの瑞相を見た会座に連なる大衆が、無量の喜びを心に生じ、一心に仏を拝仰したこと、そして第六の放光瑞とは釈尊の眉間にある白毫相から光が放たれ、東方の一万八千の国土を照らし出したことです。その光は、下は阿鼻地獄から上は阿迦尼吒天に至り、東方万八千の国土に住する衆生の様子がありありと照らし出されました。
それが、他土の六瑞です。
第一に六趣=地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六道に迷う衆生が見え、第二に諸仏を見ることができ、第三には、諸仏の説法が聞こえ、第四に仏道を行じる者たちの得道するのが見え、第五に菩薩たちが種々の因縁や、種々の理解に伴った信仰、そして種々の相貌によって修行するのが見え、第六には、諸仏の入滅する相が見えました。
これらの不可思議な瑞相は、会座に連なる大衆に不思議な思いを生じさせました。何のために仏はこのような瑞相を示されたのかという疑念です。しかし仏は三昧に入ってしまいお聞きすることができません。そこで、大衆の思いを感じ取った弥勒菩薩は一座を代表して文殊師利菩薩に質問します。それは文殊師利菩薩が、過去世において計り知れないほどの諸仏に親しく仕え、供養をしたことがあったので、文殊師利菩薩であれば、このような瑞相を見たことがあるに違いないと思ったからです。
文殊師利菩薩は、弥勒菩薩の質問に対し、この瑞相は釈尊がこれから大切な法をお説きになられる前触れであると答えました。なぜなら、過去世で種々の仏に仕えていたとき、このような不思議な現象を現出した後には、必ず大切な教えを説いたからである、と述べました。そして日月灯明仏が出現されたときの話を出しました。
それは、過去無量無辺不可思議阿僧祇劫という数えられないような昔の時代に日月灯明という仏が出現し、様々な衆生の求めに応じ、正しい法を説かれたこと、そして最初の日月灯明仏が入滅すると、次々に同じ名の仏が出現して二万にも及(およ)び、最後の日月灯明仏が説法を終え、三昧に入ったときに、今と全く同じ不可思議な現象が起きたことを述べました。そしてその後、仏が三昧を出られて法華経を説いたことを話し、釈尊も必ず法華経を説くであろうことを述べました。
すなわち『序品』において、既に仏の因寿(久遠実成の由来)が密示されているのです。
即身成仏の瑞相
先ほど説明した此土の六瑞中、第六の放光瑞において、釈尊の眉間白毫相から放たれた光が東方万八千の世界を照らし、下は阿鼻地獄に至り、上は阿迦尼吒天に至ったことを述べましたが、大聖人様はこの瑞相について『御義口伝』に、
「十界皆成の文なり。提婆が成仏此の文にて分明なり。(中略)此の至の字は白毫の行く事なり。白毫の光明は南無妙法蓮華経なり。上至阿迦尼吒天は空諦、下至阿鼻は仮諦、白毫の光は中道なり。之に依って十界同時成仏なり」(御書 一七二三㌻)
と仰(おお)せです。この白毫の光明の正体は南無妙法蓮華経であり、この白毫の光明が下は阿鼻地獄まで至ることから十界互具が成就し、十界すべてが成仏したのです。そこから、特に『提婆達多品第十二』に説かれる、阿鼻地獄に堕した提婆達多の成仏が、実はこの『序品』の瑞相において即身成仏の相として密示されていると言われるのです。
さらに末法における大聖人様の文底の立場よりこの瑞相を拝するならば『御義口伝』に、
「今日蓮等の類聖霊を訪ふ時、法華経を読誦し、南無妙法蓮華経と唱へ奉る時、題目の光無間に至って即身成仏せしむ」(同 一七二四㌻)
と仰せのように、私たちが先祖代々の諸精霊や有縁の精霊への追善回向のために、塔婆を建立し、大御本尊様を受持し至信に御題目を唱えるとき、諸精霊は、御本尊の光明に照らし出されて即身成仏の功徳に浴することがこの文によって明らかなのです。
末法の闇夜を照らし出す大聖人様の仏法の根源、三大秘法総在の戒壇の大御本尊様の絶大なる功徳を信じ、御題目を唱え、化他行に邁進しましょう。そして正しい回向の在り方を実践するためにも寺院へ参詣し、積功累徳の信心に励んでまいりましょう。