法華経について(全34)
7大白法 平成26年4月1日刊(第882号)より転載
『譬喩品第三』
今回学ぶ『譬喩品第三』は、前半が法華経迹門の正宗分の法説周であり、後半は同じく正宗分の譬説周の部分です。
『譬喩品』前半では、前回の『方便品』の説法を受けて領解、述成、授記、衆歓喜が説かれ、後半では有名な三車火宅の譬えが説かれます。
―前半―
舎利弗の信解と授記
『譬喩品』に入ると、舎利弗は歓喜に躍り上がり、釈尊に従って尊い法を学んだことにより、喜びを懐いたことを申し述べます。
舎利弗は、今まで釈尊から教えを聞き、菩薩方へ未来の成仏の保証(記別または授記と言う)がされることを見てきました。一方で、菩薩方と同じ悟りを得ているつもりであった自分たちは、小乗の悟りによってけっして成仏できないとされています。それなので、なぜ釈尊が私たちを小乗の教えで導こうとされるのかと、疑いを懐いていたことを述べます。
しかし続いて、これは、自分たちが釈尊の方便を知らずに、小乗の悟りを本当の悟りであると思ったために生じた迷いであり、自らの過失であることを述べます。
また、法華経を聴聞して仏の真の境界と出世の本意をうかがい、たちまちに一切の疑いが消え、身も心も安穏の境地を得たことと、初めて真の仏子となることができ大きな喜びを得たことを申し述べました。
この舎利弗の領解を聞いた釈尊は、遠い過去から舎利弗を教化してきたことを明かします。そして、舎利弗がその教化を忘れて小乗の法によって悟りを得たと思い込んでしまったと説かれます。そこで、舎利弗を本来の菩薩として無上の仏道に向かわせようと、この妙法蓮華経を説いたことを明かされ、舎利弗の領解を承認されたのです。
その後、釈尊は、舎利弗がさらに無量無辺の時を修行した後に、大宝荘厳という時代(劫)に離垢という国土において、華光如来という名の仏になると述べられました。
この舎利弗への記別は、それまで成仏できないとされてきた声聞や縁覚の人々が末来の成仏を保証されるという、大切な意義を持っています。これを二乗作仏と言い、法華経以外の経典にはけっして説かれていません。
こうして舎利弗への授記が終わると、梵天帝釈をはじめとする一会の大衆が、皆我が事のように歓喜しました。
次いで、記別を受けた舎利弗は、未だに疑いを懐いて迷っている声聞衆のために、さらに法を説かれるよう、釈尊にお願い申し上げたのです。
―後半―
三車火宅の譬え
そこで釈尊は三車火宅の譬えを説きます。
ある国に一人の大長者がおりました。長者は、たくさんの財産を持っており、たくさんの召使いを抱えていました。その邸宅はとても広いのですが、出入り口の門は、狭くて小さい門が一つあるだけでした。この家には、五百人の人々と共に、長者の子供たち三十人が住んでいました。
ある時、長者の留守中に、突然、火が起こり、瞬く間に屋敷に広まりました。ところが、子供たちはまだ幼く、遊びに夢中になっていて火事に気がつきません。
帰ってきた長者は、子供たちの身を案じて、「お前たち早く外へ逃げなさい。火に焼かれてしまうぞ」と大きな声をかけましたが、子供からは、父の呼びかけを聞かずにただ遊んでいるのでした。
長者は、子供たちを助けるために方便を設けました。「お前たちの好きな羊の引く車、鹿の引く車、牛の引く車(三車)が門の外にあるよ。早く外に出てくれば、お前たちにあげるよ」と告げました。
この言葉を聞いた子供たちは、挙って外へ走り出て、安全な所へ避難することができました。その様子を見て、長者は安堵して、喜んだのです。
子供たちは、父の長者に向かって、早く三車をくれるように願いました。そこで長者は、三車よりもはるかに立派で、姿も能力もすぐれた大白牛が引く、大きく荘厳された車を、子供たちに平等に与えたのです。
多くの財宝を持っている長者は、大切な我が子に劣った車ではなく、優れた車を等しく与えたのです。子供たちはこの大白牛車に乗って、未曽有の喜びを得ました。
譬喩を説き終えた釈尊は、舎利弗との問答を通して、三車ではなく大白牛車を与えた長者に虚妄(嘘)の罪はなく、むしろ子供たちの命を救うために方便を設けられたことを明らかにします。
そして釈尊は、仏も同じく一切衆生の父であり、無量の徳と智慧と探い慈悲を具えているからこそ、常に一切の人々を教化して利益を与えるのであると説かれました。如来の化導も同じように、一仏乗を方便をもって三乗に分別して説いたのであり、本来、父子は一体にして、一仏乗をもって衆生を救うことが本意であることを説かれたのです。
この長行に続いて偈頌が説かれ、『譬喩品第三』は結ばれます。
一切衆生は仏子
長者の家の火事は、煩悩などが原因となって起こる苦しみの火です。火事になった長者の家のように、私たちの住むこの世界には、煩悩などによって起こる様々な苦しみがあります。これを『譬喩品』では、
「三界は安きこと無し 猶火宅の如し 衆苦充満して 甚だ怖畏すべし」(法華経 一六八頁)
と説いています。この苦しみに満ちた世の中で、子供たちを導いた長者のように、仏様は私たち一切の衆生を救おうとされるのです。
『譬喩品』の偈頌に、
「今此の三界は 皆是れ我が有なり 其の中の衆生 悉く是れ吾が子なり 而も今此の処 諸の患難多し 唯我一人のみ能く救護を為す(今此三界 皆是我有 其中衆生 悉是吾子 而今此処 多諸患難 唯我一人 能為救護)」(同頁)
とあります。この偈に仏様に具わる三つの徳が説かれています。
すなわち、「今此三界 皆是我有」は法界の一切が仏の所有であり、仏が一切の主君であるとする主の徳です。
次の「其中衆生 悉是吾子」は、一切衆生は皆仏性を具えた仏の子であり、仏は父であるとする親の徳を現わしています。
そして、「而今此処 多諸患難」とはこの世界に多くの苦しみがあることを意味し、最後の「唯我一人 能為救護」は、仏が一切衆生を救済して真の浄土へと導く師匠であるとする師の徳を説かれているのです。
火宅のように苦しみの多い世の中ではありますが、主師親三徳を具えられた仏様、すなわち御本仏日蓮大聖人様とその御金言を信じ、その教えのままに振る舞えば、必ずや安穏の境地に至ることができるのです。
以信得入と不信謗法
このほかに『譬喩品』では、法華経を信ずることの大切さと不信の罪とが示されます。
信の大切さとしては、偈頌に、
「汝舎利弗 尚此の経に於ては 信を以て入ることを得たり」(同 一七四頁)
と説かれ、当品前半における舎利弗の領解も、その根本が信ずることにあったと示されています。
続いて不信については、同じく偈頌に、
「若し人信ぜずして 此の経を毀謗せば 則ち一切 世間の仏種を断ぜん(中略)其の人命終して 阿鼻獄に入らん」(同 一七五頁)
と説かれています。この経文を妙楽大師が釈して述べられたのが十四誹謗(下記表参照)です。
仏教における経典や論書には、多く信じることの大切さが説かれています。信なき修行は無益であり、いかなる修行にも、その根本に信がなくてはならないのです。
私たちは、本門戒壇の大御本尊に対し奉る強い信を根本に、御法主上人猊下より賜った御命題を成就するため、唱題と折伏行に精進してまいることが大切なのです。