(令和5年3月5日 於 総本山客殿)
日如上人猊下お言葉
本日は、皆様にはコロナ禍のなか、三月度の広布唱題会に出席をされ、まことに御苦労さまでございます。
さて『南条兵衛七郎殿御書』を拝しますと、
「いかなる大善をつくり、法華経を千万部書写し、一念三千の観道を得たる人なりとも、法華経のかたきをだにもせめざれば得道ありがたし」(御書 三二二㌻)
と仰せであります。
すなわち、この御文は「たとえ、いかに勝れた善根功徳を積み、法華経を千万部も書写し、法華経の肝要たる一念三千の法門を究めたという人であっても、法華経の敵、つまり謗法をそのまま放置して破折をしなければ、成仏することはできない」と仰せられているのであります。
したがって、一応、勤行にも励み、教学も学び、仏法のことはよく知つているという人もいます。しかし、いくら教学を学んでいると言っても、邪義邪宗の謗法をそのままにして、折伏をしなければ、成仏はできないとの厳しい仰せであります。
それはあたかも、
「朝につかふる人の十年二十年の奉公あれども、君の敵をしりながら奏しもせず、私にもあだまずば、奉公皆うせて還ってとがに行なはれんが如し」(同三二三㌻)
と仰せのように、朝廷に仕えている人が、十年、二十年と長年にわたって奉公してきても、主君の敵を知りながら、上にも報告せず、その敵を憎みもせず、責めなければ、奉公の功績も皆、消えてしまい、かえって罪に問われるようなものであると仰せられているのであります。
いずこの世界にあっても、悪人を放置しておけば、その組織は内側から破壊されてしまいます。また、そうした悪がはびこることを黙って許しておくことも、大きな罪であります。
すなわち、私どもの信心においては、悪しき謗法をそのまま放置しておくことは、謗法厳誠の宗是からいっても適正ではありません。また、謗法を黙過しておくことは、必ず禍根を残すことになります。
私どもの信心において大事なことは、自行化他にわたる信心であります。自行化他にわたる正しい信心の道に連なってこそ、初めて成仏をかなえることができるのでありますから、私どもは受持正行・折伏正軌の宗是をしっかり守り、信心に励んでいくことが肝要であります。
されば皆様方には、いよいよ強盛に唱題に励み、講中一結・異体同心して折伏を行じ、もって一天広布を目指して精進されますよう心からお祈りし、はなはだ粗略ながら、一言もって本日の挨拶といたします。
(大白法 令和5年3月16日号より転載)