臨終には執着を断つこと
昔、仏法を求める出家者が、ある山中を行くと二人の山賊(やまがつ「山中に住む賤しい身分の者」)がいた。一人は地に伏し、他の一人は畠をつくっていた。恐らく父子であろう。近づいてよく見ると、その子は毒蛇にさされて即死していたのだが、父は悲嘆する様子もなく、この僧に「あなたのおいでになる道の方向にわたしの家がありますので、家の者に飯(めし)を運ぶように言ってください。いま子供が死んだので一人分だけで良いと言ってください」と話しかけてきた。僧は「父子の別れは悲しいでしょ。どうしてあなたは嘆かないのですか」と尋ねると、男は「人間の親子は僅かの契(ちぎり)にしかすぎません。ちょうど烏が夜になると体を休めるわに木々に寄り合いますが、朝になれば方々へ飛び去るようなものです。だから少しも嘆いてはおりません」。
さて、僧が彼の家に行ってみると門の所で食事を持っている女に会った。僧が男からの伝言を伝えると、女は「さては」と言って一人分の食を置きに家に房った。家の内には老婆(母)がいた。僧は「畠のところで死んでいるのは、あなたの子供ですか」と聞くと、老婆は「その通りです」と答えた。僧が「なぜ悲しまないのですか」と言うと「どうして悲しむ必要がありましょう。母子の契は、ちょうど河の向こう岸に着くまでは同じ船に乗って行くけれども、到着すれば皆、ばらばらになるようなものです。それぞれの業によって、ちりぢりに分かれることは少しも驚くべきことではありません」と言った。
又、側(そば)にいた女人に「死んだ人はあなたの主人ではないのですか」と聞くと、女は「わたしの夫です」と顔色変えずに答えた。僧は、又も同じ質問をすると、女は「夫婦の情は、ちょうど市(いち)で人々が行き会って用事を済ませれば方々へ帰って行くようなものです。何の悲しみがありましょうか」と答えた。
この僧は「万法の因縁は仮のものであり、執心はあってはいけない。在家の中にすら、このような心の持ち主がいるのだから」と慚愧(ざんき)の心を発し、仏道に精進したのである。 深い悟りまで到達しなくとも、よくよく無常の道理を知って常住の仏法を尋ねるべきであろう。
これは、『沙石集』に記されているが、出典は未詳である。日寛上人は臨終に妄念・執着かあるべきでないとして、人との別れに執着のなかった例として、ここに紹介されたのである。
(歴代法主全書八巻)
(高橋粛道)