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他宗の謗法を容認ー創価学会

 創価学会
 日蓮正宗から破門されて以降、他宗との共存共栄を図るため、それらとの融和に努めてきた創価学会。
 『聖教新聞』では、昨年の前ローマ教皇との会見に続いて、今年五月、新ローマ教皇への祝電が報じられた。他宗迎合の実体も、ここに極まれりと言ったところか。
 バチカンとの距離を縮める理由は、ローマ教皇に跪いて、その権威を学会の裏付けにしようとでも考えたのだろう。
 バチカンへ行ってひざまずのだろて、「ローマ教皇に認められました。創価学会は世界宗教です」とアピールした
いのだ。名聞名利のための奔走である。
学会に破折の精神なし
 権力に媚び諂い、謗法破折など、とうの昔に忘れ去ったくせに、『創価学会教学要綱』(以下『要綱』)には、
「創価学会は、大聖人に連なり、慈悲の発露としての折伏精神を堅持していく」(要綱 一六九ページ)
と日蓮大聖人の折伏を謳う。いったい、どの口が言わせるのか。開いた口が塞がらない。
『聖愚問答抄』に、
「今の世は濁世なり、人の情もひがみゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし。此の時は(中略)只折伏を行じて力あらば威勢を以て謗法をくだき、又法門を以ても邪義を責めよとなり」(御書 四〇三ページ)
と御教示のとおり、悪世末法において邪法邪義の謗法を挫くことが折伏の精神であり、未来永劫変わらぬ大聖人の御意である。
 かねて学会は、
「今後は攻撃されない限りは協調していきたい」(朝日新聞 平成十四年八月十四日夕刊)
「今の世に四箇の格言をそのままにしておくことは、かえってこちらが独善的と批判されかねませんから」(同)
「もしも日蓮大聖人とイエスが話し合ったならば、決して口論などにはならず、民衆に尽くす生き方に対して、尊敬の念を抱いたのではないか」
(聖教新聞 平成十七年六月十日付)
などと信じられない発言をしてきた。これのどこに大聖人の折伏精神があるというのか。
謗法与同の罪深し
 大聖人は四箇の格言を旨として諸宗を破折し、妙法を弘通された。他宗教を容認し、他宗教に迎合する学会の言動は、紛れもなく、大聖人の御化導に反逆する大謗法なのだ。
 大聖人の御教えを全く知らない学会に、改めて教えて進ぜよう。謗法厳誡は永遠に変わらぬ日蓮正宗の宗是である。なぜなら、それなら、それは大聖人の御遺誡だからである。
『曽谷殿御返事』の、
「何に法華経を信じ給ふとも、謗法あらば必ず地獄にをつべし。 うるし千ぱいに蟹の足一つ入れたらんが如し」(御書 一〇四〇ページ )
との仰せを拝せば、わずかでも謗法があれば成仏は思ぱいに聾のらんが如し」(御書 一〇四〇ページ)
との仰せを拝せば、わずかでも謗法があれば成仏は思いもよらないことが明らかである。
 にもかかわらず、学会は、
「日蓮大聖人の仏法は謗法厳誡です」(教宣ハンドブック 八八)
と明記してはいるものの、現実には誡めるどころか、前掲のごとく謗法を容認しているのだ。
 謗法厳誠の精神を踏みにじる連中が、大聖人門下を名乗るのもおこがましい。
学会に大聖人の仏法を語る資格はない!
破邪顕正の折伏を
 正法正義から逸脱し、破邪顕正の折伏を忘れた学会は、謗法の姿そのものだ。
したがって、どれだけ友好活動に励んでも世の中は悪くなるばかりである。
 学会のいう「対話=折伏」は、諂うことではあっても、不幸の原因である謗法を断ち、大聖人の正法に導くことにはなっていない。
 大聖人は同じく『曽谷殿御返事』に、
「謗法を責めずして成仏を願はゞ、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし」(御書一〇四〇ページ)
と明確に御示しである。
 人々の幸福、世界の恒久平和と仏国土を実現するには、謗法を誡める本宗の僧俗折伏しかない。
 我々は日々謗法を誡め、謗法に与することなく、どこまでも慈悲の心で破邪顕正の折伏に努めていこう。
(大白法令和7年10月1日号より転載)