諸宗教破折
3/1/2017
異流儀・正信会の位置付けは、宗門において未来永劫、変わらない。何をどう言い繕(つくろ)うと、
御本仏日蓮大聖人の御聖意に反する大謗法団体である。
その正信会が、独自に包括宗教法人を設立し、一宗一派を旗揚げした。
いかに団体組織を整備しても、正信会の信仰は風前の灯火である。
なぜなら、正信会には、信仰の中心にして信心修行の根源となるべき主体が存在しないこと。そして、これは永久に確立し得ないからである。だから本紙は、宗教法人云々といった世俗のことの前に、信仰の正邪を峻別せよと指摘し、速やかに大謗法を懺悔することが先決であると何度も警告した。
案の定、今度は、新たな包括宗教法人と従前の正信会の組織との間で分裂騒動、果ては批判合戦である。
この一事を見ても、正信会の未来に希望はない。
「田分け」した所業
「たわけ」という言葉の語源に「田分け」説がある。
これは、田畑を子供の人数で分割して相続していくと、代を重ねるごとに田畑の面積がどんどん狭くなり、収穫高も減って、やがては家系が衰退することから、未来に疎(うと)い愚か者を「田分け(たわけ)」と呼ぶとの俗説である。
まさに、正信会の現状さながらではないか。
信心修行の主体がない正信会であるからして、念頭にあるのは組織の維持のみ。「折伏」の単語はあっても、他人(ひと)を救うとか世の中にどのように寄与するとか、およそ志(こころざし)など気にもしなければ修行もないであろう。
余計なお世話ではあるが、少々の人数の会を二分し、未来はいよいよ先細りではないか。
「田分け」は「戯(たわ)け」を洒落(しゃれ)た俗言というのが真相らしいが、どちらにせよ、現在の姿は「たわけ」た所業以外の
何ものでもない。
一連托生の大謗法です
直近号の『正信会報』に、吉川興道(従前派)が巻頭言を寄せ、
「現在に於いて『本門戒壇の大御本尊』を信仰の根本としているのは正信会」(該誌 一五九号㌻)
ち言い張っている。そして、
「法人派も数年前から大石寺奉安堂に安置されている大御本尊に疑義をとなえ、日蓮正宗へは戻らない」(同)
と、宗教法人正信会側が創価学会と同様に戒壇の大御本尊への信仰を否定していることを取り上げて、自分たちは彼らとは違うと言っているのだが、これは問題のすり替えに過ぎない。
総本山第二十六世日寛上人は、
「富士山は是れ広宣流布の根源(中略)根源とは何ぞ、謂わく,本門戒壇の本尊是れなり」(六巻抄 六八㌻)
と御教示である。
本門戒壇の大御本尊こそ、日蓮大聖人の仏法の根源にして広宣流布の中心であるから、ここを踏み外せば、大聖人の信仰はない。故に、古川は、自分たちは「『本門戒壇の大御本尊』を信仰の根本」としているから正信、宗教法人側は謗法だと主張したいのだろうが・・・。
おいおい、それは違いますぞ。共に一連托生の大謗法、せいぜいドングリの背比べです。
何を信仰してきたの?
ならば問おう。
正信会問題が起きた以後に正信会へ入った者も、本門戒壇の大御本尊を信仰の根本としているのか?
この間に得度したという「私度僧」も、戒壇の大御本尊を信仰しているのか?
正信会の古参はともかく、これら本門戒壇の大御本尊を拝したこともない新参者(しんざんもの)の信仰心も、本門戒壇の大御本尊にあると、本当に思っているのか?
そんなことはあり得ないではないか。
大御本尊から離れて、かれこれ四十年、その間、一度も総本山に参詣していない以上、信仰の中心がぶれるのは当然であり、そんな邪信へ誘(いざな)ったのは、他ならぬ古川らなのである。彼らの言は宗門に何の痛痒(つうよう)もないが、未だに、過去に正真の御本尊に手を合わせていた人々が会の中にいることを忘れてはならない。
正信会の現在の混乱は、邪信故の現証である。そんな大謗法に翻弄(ほんろう)される悲しき人たちを、一日も早く正信へ導こうではないか。
(大白法 第九五二号 平成二十九年三月一日)