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道理・文証・現証なき邪宗団

諸宗教破折
日蓮大聖人は、
「日蓮仏法をこころみるに、道理と証文にはすぎず。又道理証文よりも現証にはすぎず」(御書八七四)
と仰せである。
 この道理・文証・現証は、仏滅後の様々な宗派・教義が存在する中から正しい教法を選取する上に、
重要な要素となる。特に、伝統的な仏教教団以外にも、新興宗教や異流義が乱立する現在においては、より慎重に道理・文証・現証を見極め、誤った教えに惑わされないようにすることが肝要である。
 その観点から顕正新聞に掲載された一月度総幹部会での会長・浅井昭衛の指導を見ると、いかに顕正会が大聖人の仏法から逸脱した団体であるかが明白になるのである。
道理に反した教学推進
この指導の中で、浅井は、顕正会での教学推進に関して、
「どうか『基礎教学書・日蓮大聖人の仏法』を繰りかえし読み、信・行・学兼備の人材になって広宣流布を進めてほしい。私は心から願っております」(顕正新聞令和四年二月五日号)
と述べている。
 自著を「繰りかえし読め」とは、なんとも傲慢な発言であるが、なにせ顕正会では、この書を聖典の如くに扱い、
「『遥拝勤行と広告文で必ず広宣流布が成る』の必ず広宣流布が成る』の大確信を、月々日々に強めております」(同令和二年九月五日号)
と、その広告ですら有り難がる始末。もはや、この本や「広告文」が大聖人の御金言以上のものであるかのような物言いである。
 言うまでもなく、大聖人の仏法を学ぶ上においては、御書を拝することが基本であり、道理である。             
 よって、浅井の己義が詰まった書を読んでも、正しく大聖人の前を知ることができないのは当然だ。 まさに、道理に反した姿と言えよう。
文証なき国立戒壇論
 また浅井は相変わらず国立戒壇への妄執から、宗門に対し、「御遺命破壊」「大聖人への師敵対」などと誹謗している。
 さんざん指摘してきたように、宗門では便宜上使われてきた「国立戒壇」の語は、御書にもないので「使用しない」と決定したのであって、現に御遺命たる「広宣流布」と「本門寺の戒壇建立」に向かって、日夜折伏弘教に邁進している。この広布前進の、どこが「御遺命破壊」なのか。
 しかも浅井は、
「『御書には国立戒壇という言葉はない』などと見えすいたウソを言い出し」(同令和四年二月五日号)
という「見えすいたウソ」を述べる。もし、ウソではないのであれば、「国立戒壇」の語が記される御書の文証を挙げてみよ。
 このように、御書を恣意的に利用し、文証なき国立戒壇論に執着する浅井の姿こそが、「大聖人への師敵対」そのものである。
 さらに浅井は、「顕正会の諌暁」によって正本堂が崩壊したとか、御開扉の際、一度大 扉の不調があったことをもって、
「大聖人様は断じて御遺命破壊の大悪を許し給わずの大現証であります」(同)
と嘯く。
大御本尊を拝せぬ現証
 大御本尊の御遷座は、宗門の判断で行われたもので、「顕正会の諌暁」など微塵も関係ない。 また、一日だけ大扉の故障があったが、それ以降現在に至る十数年間、とどこおりなく御開扉が行われている。これのどこが現証なのだ。
 そんなことより、異流義である顕正会に籍を置く以上は、永久に「大御本尊を拝すことができない」という大罰の現証を直視すべきである。
 この現証一つで、いくら浅井が大御本尊への尊崇を叫び「国立戒壇建立」「遥拝勤行」を主張しても、すべてがまやかしであると判るであろう。それどころか、大聖人の御意に背く大謗法であることを自覚すべきである。
 顕正会員には、浅井の非法に気づき、一刻も早く大御本尊のもとへ帰依することを、強く言い置くものである。
(大日蓮令和4年4月1日号)





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