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「国立戒壇」という幻想 顕正会

諸宗教破折
10/2/2018

顕正新聞を見てみると、六月度総幹部会での会長・浅井昭衛の指導が載っていた。
浅井は、
「広告文と遥拝(ようはい)勤行で広宣流布はできる。この大道は大聖人様が教えて下さったもの、これこそ広布最終段階の戦いの姿である」
(顕正新聞 平成三十年七月五日付)と指導している。
浅井の著書の新聞広告(その著書ですらない)と遥拝勤行で、何を広宣流布するというのだろうか。しかも「この大道は大聖人様が教えて
下さった」などと言っているが、当然のことながら日蓮大聖人の御金言にそのようなものはない。
これが「広宣流布最終段階の戦いの姿」とは、何ともみすぼらしい姿である。

「国立戒壇」に執着する浅井
この指導で浅井は相(あい)も変わらず「国立戒壇」への執着を見せている。
浅井は最近、宗門の各誌で掲載される「現在では国立とは国が建設し、国が管理すること、本門の戒壇堂にはそぐわない」との指摘を意識してか、
「国立戒壇といっても、なにも国家の費用で建立し、これを国家が管理するなどというものではない」(同)
などとし、
「それはまさしく『勅宣(ちょくせん)並びに御教書(みぎょうしょ)を申し下して・・』との仰せのままに、『国家意思の表明』を必要手続きとして建立される戒壇だから、『国立戒壇』と呼ばれて来たのであります」(同)と弁明した。
しかし、国語辞典で「国立」と見れば、
「国が設立・維持・管理すること」(新潮国語辞典 第二版)
とあり、誰もが「国家の費用で建立し、国家が管理する戒壇」と解釈するだろう。
また、『三大秘法抄』の、
「勅宣(ちょくせん)並びに御教書(みぎょうしょ)」(御書 一五九五㌻)
とは、東大寺等の小乗戒壇や延暦寺の大乗戒壇建立の際から踏まれている、朝廷の勅令によって建立されるという手続きである。
そもそも、「国立戒壇」なる名称は御書のどこにもなく、明治時代に、国柱会の田中智学によって初めて使われたのである。

伝統教義にはない「国立戒壇」
大聖人が示される名称は、あくまで、

「本門寺の戒壇」(同 一六七五㌻)

である。
それを『三大秘法抄』や「一期弘法付嘱書」の御書を挙(あ)げて、あたかも大聖人が「国立戒壇」の語を御遺命として残された、伝統教義のようにごまかしているのである。
さらに浅井は、文証として「国立戒壇」の語を使われている、日亨上人、日昇上人、日淳上人、日達上人の御指南を挙げ、「このように、およそ血脈付法(けつみゃくふほう)の正師にして、国立戒壇を熱望されなかった貫主(かんず)上人は、七百年間、一人としておられない」(顕正新聞 平成三十年七月五日付)

「このように、国立戒壇の建立は正系門家・富士大石寺の唯一の使命・宿願であったのです」(同)
と述べている。
たしかに、浅井が列挙する御指南のように、本宗において昭和中期頃に便宣上、用いられたこともあったが、主権在民とおなり、信教の自由が保障された今日、時勢にそぐわず、さらには伝統教義ではない「国立戒壇」の名称は、使用しなくなったのである。ましてや、その名称すらなかった時代に「国立戒壇」を熱願したり、宿願とする御法主上人がおられるはずもない。
その証拠に、「国立戒壇」の名称が世に出る以前は、御書はもちろん、御歴代上人の御指南にも「国立戒壇」の表記は一切ない。

本門寺の戒壇を建立せらるべきなり
大聖人の御遺命は、ひとえに一天四海広宣流布である。そして、その広布の暁に本門戒壇の大御本尊を御安置申し上げる「本門の戒壇堂」の建立である。
建立の形態や手続き等に関しては、その時代の状況に則(のっと)って、時の御法主上人の御判断によって決せられるから心配無用。
破門され、大御本尊から離れた浅井ら顕正会が叫ぶ「国立戒壇」は、叶うことのない幻想なのである。

(大白法 第九九〇号 平成三〇年一〇月一日)

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