諸宗教破折
浄土宗とは法然を開祖とする宗派であり、京都に総本山知恩院を構える。
知恩院では、毎年四月十八日から四月二十五日まで法然の忌日法要として「御忌大会」が行われている。
特に、四月十八日には夜通し念仏を称える「ミッドナイト念仏in御忌」が催される。
「易行往生を説いた法然上人の伝統がいまに生きている」(知恩院ホームページ)
というように、浄土宗の教えは、ただただ念仏を称えるところにある。ふざけた名前のように聞こえる「ミッドナイト念仏in御忌」には、浄土宗の誤りが詰まっている。
専修念仏の教え
浄土宗における教義の根本は、ただ南無阿弥陀仏と称える(念仏を称える)ことにより、極楽浄土に往生が叶うという教えである。
したがって、現在の浄土宗も、ひたすら念仏を称える専修念仏を基本的な修行としている。
法然が死去する間際に書かれた『一枚起請文』なる誓願には
「念仏の教え以外に奥深い教えはない。もし私が念仏以外に奥深い教えを知っていて、皆に隠しているとすれば、私は阿弥陀仏と釈尊の慈悲に背き、地獄に堕ちるだろう(趣意)」(浄土宗檀信徒必携 二八 )
と言っている。
ひたすら念仏を称えることが末法の衆生が行じやすい修行であり、極楽浄土へ往生が叶うとするのだ。
しかし、この往生とは、今世はあきらめて来世、極楽浄土において救われるということ。今世ではけっして成仏が叶わないことを意味している。浄土宗の教えでは、現実に苦悩に喘ぐ人々を救えないのだ。
また、末法の衆生が救われる極楽浄土などもありはしない。その極楽浄土とは架空の国土なのだ。釈尊は
『如来寿量品』に、
「我常に此の娑婆世界に在って、説法教化す」(法華経 四三一券)
と説かれるように、我々の住む娑婆世界こそが本来の仏国土である。
阿弥陀仏とは
阿弥陀仏とは浄土宗で崇める仏であり、浄土の教え(浄土三部経)には阿弥陀仏の本願力によって、極楽往生が叶うと説く。
この本願力とは、阿弥陀仏が衆生を救うために立てた四十八願という誓いのことであり、これらの誓いを成就して、阿弥陀仏は仏に成ったと説かれている。
特に、十八番目の誓いのなかには「正法(=法華経)を誹謗する者は極楽浄土へ往生できない」と明言している。つまり阿弥陀仏の誓願には条件があるのだ。
にもかかわらず法然は、その条件を一切無視し、自著の『選択集』で「名号さえ称えれば絶対の功徳がある」と豪語した。
この法然の打ち立てた教えに根拠はなく、自分流の”本願〟をでっち上げたわけである。
また、阿弥陀仏は釈尊の経典中に出てくる架空の仏であり、名はあっても、実J 体がない。実体のない仏を本尊として修行をしても、当然、そこに利益があるはずもない。
浄土宗の教えは、釈尊の本意に背き、阿弥陀仏自身の本願にも背を向ける教えなのだ。
正しい修行
日蓮大聖人は『立正安国論』において、日本国中が混迷を極めている根本原因こそ、法然の念仏であると断ぜられ、
「如かず彼の万祈を修せんよりは此の一凶を禁ぜんには」(御書 二四一ページ-)
と、謗法の一凶を断ち、正法に帰依しなければ、災難を払って仏国土を実現することはできないと仰せである。
冒頭に挙げたホームページでは、木魚の音を再生できるようにしてあり、それに合わせて念仏を称えることを勧めている。
しかし、興味本位でうっかり称えた場合でも、念仏は称えれば称えるほど不幸に陥るのである。
日本国内に「私の家の宗旨は念仏だ」という人は多く、きっとあなたの身の回りにもいるはずだ。
私たちはそのような人に対し、「念仏をいくら称えても幸せになることはできません。正しい御本尊様に手を合わせ、一緒に南無妙法蓮華経と唱えましょう」
と声をかけていこう。
(大白法令和7年9月16日号より転載)