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道徳さえ守っていれば宗教の必要はない

 「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
 道徳とは現実の社会に、善良な人間として生きて行くために、自らを律し、たがいに守るべき社会的な規範をいいます。
 したがって社会生活上の正と不正・善と悪などの分別を心得て、自らの良心にも、社会的な規範にも恥じることのないように生活してゆくことが大切です。
 しかし、道徳はあくまでも、現実に生きている人間のいちおうの規範であって、それによって、先祖を救い、自らの罪障を消滅し、さらには未来の子孫の幸せをもたらすなどという力はありません。
 つまり道徳は、今世に生きる人々の生活を正し、人間性を高める意味での指針とはなりえても、仏教のように、過去・現在・未来の三世の因果を説かず、三世にわたる一切の人々の救済とはなりえません。
 日蓮大聖人は道徳と佛教の関係について、
「王臣を教へて尊卑をさだめ、父母を教へて孝の高きことをしらしめ、師匠を教へて帰依をしらしむ」(開目抄・新編五二四)
と仰せになって、道徳は仏法の先がけとして、その序分の役割をはたすものだと記されています。
 昔から人の守るべき道徳の一つとして、「孝養」ということがよくいわれます。自分を生み、今日まで育ててくれた両親に対して、よく仕え、その恩に報いることは大切なことです。しかし、仏法における孝養とは、ただ親の言葉にしたがい、親にものを贈ったり、年老いた両親の面倒をみるということにとどまらず、正法の功徳によって、両親を始めとする一家・一族・一門の人々を、皆ともに救っていくというところにきわまるのです。
 したがって仏法では正法による孝養を、「上品の供養」(もっとも勝れた供養)と名づけるのに対し、道徳における一般的な孝養は、いわば「下品の供養」(上・中より下位の供養)にあたるとされています。
 大聖人は、
「法華経を信じまいらせし大善は、我が身仏になるのみならず、父母仏になり給ふ。上七代下七代、上無量生下無量生の父母等存外に仏となり給ふ(中略)。『願はくは此の功徳を以て普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜん』」
(盂蘭盆御書・新編一三七七)
と、正法を行ずる大善こそ、自ら仏の境地に至るのみならず無量生の父母と、無量生の子孫を救う道だと教えられています。
 このように正しい信仰をとおして自分を磨き、さらに世の中の人々を教化して、正法の功徳を社会の一切の人々に及ぼし、ともどもに仏道を成就することが、最高最善の生きかたとなるのです。

【折伏実践のために】

道徳について
 辞書を引くと道徳とは、
「人のふみ行うべき道。ある社会で、その成員の社会に対する、あるいは成員相互間の行為の善悪を判断する基準として、一般に承認されている規範の総体。法律のような外面的強制力を伴うものでなく、個人の内面的な原理」(広辞苑)
とあります。
 たしかに、私たちは社会生活を送る上において、世間で言う法律だけを遵じゅん守しゅして、豊かな安心した日々を過ごせるわけではありません。法律に反した行いをすることはもちろんのこと、「法には触れていないから」などと主張して、周りの迷惑を顧かえりみず自分勝手な行動に終始していたら、社会の混乱をきたすでしょう。
 そこで私たちには、社会の一員として生活していくための倫りん理り観かんが求められますし、守らなくてはならない規範というものが存します。これが道徳です。したがって、私たちは自ら進んで道徳に基づく生活を心がけることが大切です。
 特に小・中学校等では、道徳の授業が行われており、四つの視点、すなわち「自分自身に関すること」、「他の人とのかかわりに関すること」、「自然や崇高なものとのかかわりに関すること」、「集団や社会とのかかわりに関すること」から内容が検討され、児童・学生を教育しています。
 もちろん、こうした道徳教育は、人間にとって大事なものであり、学ばなければなりません。
 
 仏法への糸口
 しかし、本文に示される通り、道徳は「仏法の先駆けとして、その序分の役割を果たす」一・応・の・規範です。仏教と対比すれば、到底、真の教えとはなり得ません。
 この点を、『減劫御書』を拝しながら、もう少し詳しく説明したいと思います。
 仏法が伝わる以前の中国や日本では、人心を調ととのえるために、三皇・五帝・三聖等の外げ道どうによって、道徳や孝養の大事を教えました。
 しかし時を経ると、次第に人心は再び荒すさみ、世間には悪事が蔓延はびこりました。なぜなら、外道の教えが浅いために、悪事の失とがを戒めることができなかったからです。そして、
「外経をもって世をさ治まらざりしゆへに、やうやく仏経をわたして世間ををさめしかば世をだ穏やかなりき。此はひとへに仏教のかしこきによて、人民の心をくはしくあかせるなり」(御書 九二四㌻)
と仰せのように、内道である仏教が伝えられたことで、ようやく平穏が訪れました。
 しかしまた、小乗教を用もちいても世間は荒れていき、以降、諸大乗教、さらに時代が進むと法華経が弘められて世間が治められました。
 大聖人様がさらに『開目抄』に、
「礼れい楽がく等を教へて、内典わたらば戒かい定じょう慧えをしり知やす易からせんがため云云」(同 五二四㌻)
と御教示のように、外道の教え(道徳)が説かれた理由は、それまで禽きん獣じゅう同然であった人間の道徳性を高め、次に三世の因果を説く仏法を受け入れるための準備に他なりません。
 仏法に依よらず、道徳を守るだけでは、真の幸福を掴つかむことなどできません。「道徳さえ守っていれば宗教の必要はない」と言う人には、ぜひ、このような道理を教えてさしあげましょう。
 
 正しい宗教を人生の指針に
 末法の今時は、「五ご濁じょく悪あく世せ」と説かれています。
 大聖人様は『三三蔵祈雨事』に、
「末代悪世には悪知識は大地微み塵じんよりもをほ多く、善知識は爪そう上じょうの土どよりもすくなし」(同 八七三㌻)
と仰せです。悪知識とは、邪よこしまな教えを説き、人々を悪道に陥おとしいれる謗法者を言いますが、仏教の道理に照らし合わせれば、邪宗教はもちろん、道徳のみに執とらわれることも悪知識に惑わされていることになります。こうした人々は世の中にあふれていますが、善知識に親しん近ごんし、正法を求めていかなくては真に救われることはないのです。
 また、大聖人様が、
「末代濁世の心の貪とん欲よく・瞋しん恚に・愚ぐ癡ちのかしこさは、いかなる賢人聖人も治めがたき事なり」(同 九二四㌻)
と仰せの如く、特に末法の衆生は三毒強盛です。釈尊の教導の中でも出世の本懐である法華経ですら、ただ用いただけでは救済はできません。法華経の中でも、本門寿量品の文底に秘沈された、大聖人様の本ほん因にん下種仏法によってのみ、本当の安あん穏のんな境界が築かれていきます。
 さらに言えば、根本煩悩である三毒が増大する原因は、謗法の害毒によるのですから、謗法を捨てて大聖人様の仏法に帰き依えすることが、真の功徳を積み、自らの罪障を消滅して困難を解決する道に繋つながるのです。
 御法主上人猊下は、『十法界明因果抄』を引かれて、
「謗法の害毒の恐ろしさを、我々はもっと知らなければなりません。
 故に、幸せになるためには、この謗法を断たなければならないのであります。謗法を断たなければ、三世にわたる本当の幸せを築くことはできないのであります。本宗において、謗法を厳誡する所以ゆえんは、まさにここにあるのであります。
 したがって、いかに謗法を退治し、自分自身の信心を確立し、一生成仏を遂げていくか、これが我々の信心であります。折伏を行ずるとは、この謗法を破折し、正しい信心を勧めることであります」(大白法 七七一号)
と御指南されています。
 私たちは多くの人々に、道徳を守るだけに止とどまらず、妙法の信仰に励むことが三世に亘わたる幸福を得られる絶対的要件であると教え、さらに破邪顕正の折伏を行じることが最も正しい振る舞いであることを、伝えてまいりましょう。

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