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「さわらぬ神にたたりなし」で宗教に近づかない方がよいと思うが

 「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
 「さわらぬ神にたたりなし」とか「参らぬ仏に罰は当たらぬ」ということわざは、信仰とかかわりを持たなければ、利益も罰も受けることはないとの意味ですが、一般には広くなにごとも近づかなければ無難であるという意味に使われています。
 たしかに間違った宗教には近づかない方が無難ですが、こと正しい仏法に対して、このような考えを持つことは誤りです。
 釈尊は、
「今此の三界は 皆是れ我が有なり 其の中の衆生 悉く是れ吾が子なり」
(法華経・一六八)
と説かれ、世の中のすべては仏の所有するところであり、人々はすべて仏の子供であるといわれています。いいかえると、仏法とは文字通り仏が悟られた真理の法則ということであり、私たちは誰ひとりとしてこの真理の法則から逃れることはできません。
 仏教では宇宙全体を指して法界といいますが、日蓮大聖人は、
「法界一法として漏るゝ事無き」(御義口伝・新編一七九八)
と仰せられ、仏が開悟した法は宇宙法界に漏れなくゆきわたっていると教えられています。
 ですから信仰を持たなければ罰も当たらないというのは、警察署に近づかなければ罰せられることもないということと同じで幼稚な理屈であることがわかるでしょう。
 もし正しい仏法に近づかなければ、真実の幸福をもたらす教えを知ることができないわけですから、それこそ日々の生活が、仏に背き、法を破る悪業の積み重ねとなっていくのです。
 ましてや仏の慈悲は人を救い善導するところにあり、たたりなどあるわけがありませんし、罰といっても、親が我が子を導く手段として叱ることと同じで、それも親の愛情の一分であることを知らなければなりません。
 その意味から考えても、罰が当るから仏法に近づかないというのは、親や教師がうるさいからといってこそこそ逃げ回っている子供と同じことで、およそ健全な人間に育つはずはないのです。
 いかに自分では信仰と無縁のつもりでいても、この世に生きている人はすべて、正しい教えによらなければ真の幸福を得られない存在であり、また仏の掌の上で生きていることに違いはないのですから、自らの人生をより爽快なものとし、充実したものとするため一日も早く正しい仏法に帰依することが大切なのです。

【折伏実践のために】

日頃から正しい信心を
 現在、日本には数多くの宗教があります。昔からある浄土宗や真言宗などの既成仏教や新興宗教と呼ばれる近年出てきたもの、または到底宗教とは呼び難いものまで、多くの宗教が広まっています。
 このように数多くある宗教の中で、どれが本当によいものなのか、どれが本当に幸せになれるものなのかを判断するのは難しく、それならば、いっそ宗教自体に近づかないほうがいいだろうとの思いが出てくるのも仕方のないことかもしれません。また、最近では宗教が関連した事件も多く、より慎重になるのも判ります。
 しかし一方で、「困った時の神頼み」「藁わらにもすがる」との言葉があるように、日頃から「自分は絶対に宗教には頼らない」と思っている人でも、切羽詰まって、自分ではどうすることもできなくなったときには、神仏にすがるということがあります。その時には、宗教の教えの内容は関係なく、友人に誘われるままに入ってしまうことが多くあります。特に怪しげな新興宗教に入ってしまう入り口はこのようなことが多いのではないでしょうか。
 切羽詰まってから、神や仏に頼るのではなく、日頃から正しい教えのもと、正しい本尊に手を合わせ、信心修行することが大切なのです。
 また、正しい教えを持たもつということはそのまま、間違った宗教を信じるなどの悪いことを根絶し、善いことを実践していくことになるのです。正しい宗教を信じていればま違った宗教に騙だまされるのを、自おのずと防ぐことができるのです。
 
 正しい御本尊で罪障消滅
 仏法では、因果の道理が説かれています。因果の道理とは原因と結果ということであり、善い原因を作れば善い結果が、悪い原因を作れば悪い結果が出るという「善因善果」「悪因悪果」です。
 ではどのような原因を作ることが一番よいのでしょうか。題の諺ことわざにあるように何事にも近づかないほうがよいのでしょうか。しかしこれでは善い原因も作ることはできません。
 最も善い因を作ることは、正しい宗教、正しい御本尊に縁をすることです。
 妙楽大師の言葉に、
「縦使たとい、発ほっ心しん真実ならざる者も、正しょう境きょうに縁すれば功く徳どく猶なお多し」
とあるように、正しい御本尊に縁をすることにより、たとえまだ信心が確かなものではなくても大きな功徳を戴くことができるのです。
 総本山第二十六世日寛上人が、
「此の本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙みょう用ゆう有り。故に暫しばらくも此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶かなわざる無く、罪として滅せざる無く、福として来たらざる無く、理として顕われざる無きなり」(御書文段 一八九㌻)
と御指南されているように、正しい御本尊を心から信じて御題目を唱えていくならば、誠実な祈りは必ず叶い、罪障消滅していくことができるのです。
 前御法主日顕上人猊下は、
「毎日の題目受持の功徳は、或る時には直ちに罪障消滅の不可思議な現証となって顕れ、また次第に積って五尺の器うつわに充満し、おのずから化他の徳となって外へ流れ出ます」(大白法 二七七号)
と御指南されております。
 また、御法主日如上人猊下は、
「折伏することによって、我々は過去世からの様々な罪障を消滅することができるのであります。折伏が一生成仏のための最高の仏道修行であるという所以ゆえんも、実はここにあるのであります」(同 六九九号)
と御指南されており、自行として御本尊に御題目を唱え、化他行である折伏を行じていくことで、過去世からの罪障を消滅し、それが即身成仏への道であると仰せなのです。
 このように正しい宗教を信仰することで、たたりや罰が当たるのではなく、反対に過去無量の罪を消滅していくことができるのです。
 
 謗法を恐れるべし
 大聖人は『顕謗法抄』に、
「謗法とは法に背そむくという事なり」(御書 二八六㌻)
と仰せられています。正法を謗そしることだけを謗法と言うのではなく、正しい教えに背そむき信じないことが謗法になるのです。つまり、間違った宗教を信仰している人に限らず、宗教に興味がない人、関心がない人など無宗教者と言われている人でも、正しい教えを信じていないということで謗法を犯していることになるのです。したがって、「さわらぬ神にたたりなし」と言って、間違った宗教や人々を不幸に陥おとしいれる宗教には諺の通り近づかないほうが賢明ですが、正しい宗教、すなわち人を本当に幸せにするための教えに対し、疑心暗鬼になってはかえって罪となることも知る必要があるでしょう。
 また、私たち正法を信仰している者にあっては、謗法与同罪に気をつけなければなりません。与同罪とは、他人が謗法を犯しているのを見ながら知らん顔をして、その人の誤りを改めさせようとしないこと、すなわち折伏しなければ、自分も罪の一端を担になってしまうということです。「自分は正法を信じているからいいのだ」ではなく、この与同罪となることにも気をつけなければ本当の幸福は訪れないのです。
 私たちは、自身がまず真剣な唱題と折伏をもって罪障消滅し、神仏に近づかなければ罪はないなどと言って本当の宗教に背を向け、知らず知らずのうちに謗法を犯してしまっている人たちをも積極的に大聖人の正法に導き、平成二十七年、三十三年を一人でも多くの方と共に迎えることができるように日々信心修行、折伏に精進してまいりましょう。

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和歌山県田辺市の在住、日蓮正宗法華講員です。
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