方 便(ほうべん)
「方便」という言葉は、目的のための一時的な手段・方法という意味で世間一般では広く使われていますが、本来は仏教語であり、仏が衆生を真実の法、悟りに導くために設(もう)けた便宜上(べんぎじょう)の手段、また手段そのものの内容をいいます。
天台大師は『法華文句』で、法華経方便品の方便の題を解釈するに当たり、法華経で説かれた方便の意義と爾前諸経(にぜんしょきょう)で説かれた方便の意義を区別し、方便の真の意義を明かすために法用(ほうゆう)方便・能通(のうつう)方便・秘妙(ひみょう)方便の三方便を説きました。
「法用方便」とは、「法」とは種々の方法・手段のこと、「用」とはそれを利用するという意味です。衆生には様々な迷いと欲望があって一様ではありません。そこで仏は、仏智(権智という仏界に具わる九界の智慧)を巧(たく)みに用いて、衆生の欲するところに応じて種々の教法を説き、当分(とうぶん)の利益を与えました。それが、華厳・阿含(あごん)・方等・般若等の随他意(ずいたい)の説法であり、これらの方便諸経を「法用方便」といいます。
次の「能通方便」とは、「能通」(能く通ず)とは「門」の意で、仏の方便化導(けどう)が最高真実の処に能(よ)く通じた門であることをいいます。衆生が低い教えによって、悟ったと思いこんでいるのを弾訶(だんか)して、真実の悟りに至らしめる方便です。化導の形は法用方便と同じであっても、方便を説く仏の御意(みこころ)には衆生を真実の悟りである法華一乗の教えに導こうとされる大目的があります。その法華一乗の宝処(ほうしょ)に能く通ずる方便を「能通方便」というのです。
以上、法用・能通の二種の方便は、爾前権教の方便であり、真の円融(えんゆう)の法を説いていませんから捨て去らなければなりません。これらの方便は、「体外(たいげ)の権(ごん)」といわれるように、方便の外に真実がある、衆生の迷い(九界)から遠く離れた外に仏の悟り(仏界)があると説いており、仏の真実の悟りではないからです。
これに対し、「秘妙方便」は、仏の深奥(じんおう)で知り難い悟りの境界(秘)に基づく化導をいい、他の諸経に説かれていない方便の真意が法華経方便品です。「秘」とは法華経のみに十界互具(ごぐ)の円融の法を説き顕わして爾前諸経には秘していたということ。「妙」とは方便の教えを悉(ことごと)く開いて妙となし、それらの方便を法華の「体内の権」とすることをいいます。爾前の方便は本来法華経から開き出されたのですから、法華経が説き明かされたならば方便の諸河は悉く法華の大海に帰入(きにゅう)して一体となり、方便はそのまま真実となります。
すなわち、法華経方便品の「秘妙方便」とは、方便と真実、または九界と仏界の両者の関係が二でなく別でなく、方便即真実、九界即仏界、十界互具・迷悟不二の円融の原理を明かしたものであり、一切万法を妙法と開く仏智の不思議をいうのです。
『御義口伝』に、
「今(いま)日蓮等の類(たぐい)南無妙法蓮華経と唱へ奉るは是(これ)秘妙方便にして体内なり」(新編一七二五)
とあるように、私たち煩悩充満の九界の衆生も、妙法を信じ唱えれば即仏界と開かれて、即身成仏の利益を得ることができるのです。