「正しい宗教と信仰」に学ぶ(大白法)
私たちは、日常さまざまな判断をしながら生きています。善悪を考えて決断しなければならないときもありますし、損か得かを考えて行動したり、他人の評価を考慮して行動する場合もあります。
幼児の頃は誰でも、善悪や他人の評価などにとらわれず、好きかきらいかという自分本位の感情で判断し、笑ったり泣いたりします。しかしその幼児も成長し、責任ある社会人になると、好き嫌いの感情による判断だけでなく、理性による判断、つまり物事の道理や善悪・利害などを考えて行動するようになります。人間誰しも好ききらいの感情は生まれながらに持っており、どんな人でも好きになれない食べ物や飲み物は必ずあるでしょうし、一般に「医者嫌い」を自称する人も多いようです。しかし、医者がきらいだといっても、健康を損ねたり生命にかかわるケガをしたときは、身体を守るために医者にかからなければなりません。
私たちの周囲には、好ききらいで判断してよいことと、その反対に、さきほどの医者ぎらいのたとえのように、理性で正邪・善悪・得失・用否などを決定しなければならないときがあるわけです。
これをとり違えて用いたり、すべて好ききらいの感情で判断することは、きわめて幼稚な行動であり、危険なことでもあります。
もし、信仰が趣味や道楽あるいは一種の友好活動にすぎないものならば、好きかきらいかで判断し、きらいな人は近づかなければよいわけです。しかし、正しい宗教とは、苦悩に直面している人に対してはもちろんのこと、それ以外の、特別の悩みがないという人に対しても、正しい生命観・人生観に立脚した真実の幸福を獲得する道を説いています。この正しい宗教を信仰することによって、私たちは個々の生命力をより生き生きと蘇生(そせい)させ、人生を力強く充実したものに変えることができるのです。
人生を木に譬(たと)えるならば、正しい信仰は根幹に当たるといえるでしょう。なぜなら正しい信仰が、人生の根源の力になるからです。
ですから、信仰を単に好ききらいで決めることは、自分の人生の根本を感情で決定することであり、賢明な方法ではありません。
また私たちの人生は、いつ、どこで幕を閉じるかわかりません。また、自分の真実の幸福は、家族や周囲の人々へ、そして社会の幸せにも通じていくのです。今日一日を正しい信仰によって生活することは、あたかも羅針盤を備えた船のように、幸福という目標に向かって正しく前進することになるのです。
どうか好ききらいにとらわれず、真実の仏法に耳を傾けて信仰が必要なことを知ってください。
素直な心で仏の教えに触れるとき、あなたは人生でもっとも大切な宝を、今まで忘れていたことを痛感するでしょう。
折伏実践のために
信仰が嫌いな理由を聞き出そう聞き出そう
折伏の相手がの相手が「信仰は嫌いだ」と感情的になっていうこ場合があります。そういう人は過去に何らかの宗教に関わって嫌な思いをした嫌な経験をした経験をしたとか、宗教がらみの不祥事や犯罪を見聞きしたイメージや先入観をを持っているとか持っているとか信仰の道理が判っていないのが原因なのかも知れません。或いはその人がもともと他人の話を聞かない自己中心的な性格なのかもしれません。その場合、相手にまず「あなたは何故信仰が信仰が嫌いなのですか」と聞いてその理由を聞き出すことも折伏の上で大切です。
そのためには相手の話を「よく聞くこと」が重要です。もちろん、これは宗教に対する相手の無理解や謗法を認めるという意味ではなぐ、相手の人格を尊重した上で、相手に対し心を込めて真剣に折伏するということです。
信仰の話をするとすぐに拒否反応を起こす大は、過去に信仰が嫌いになった理由があって、むしろ大きな悩みや苦しみを抱えているものです。そうした相手に信仰が嫌いな理由についてこちらから質問を投げかけることによって、話の糸口が出来て相手の不幸や苦しい事情を聞き出すことができます。
このように折伏する場合、まず相手との関係が大切です。最初は相手が「信仰ば嫌いだ」と感情的になっていても相手と真剣に正面から向き合い、相手を思いやる気持ちを忘れないで折伏することです。
正しい宗教とは何かを教えてあげよう
宗教嫌いの人がよく口にする言葉に「宗教なんてなくても困らない」「信仰はやりたい人がやればいい」という
のがあります。そういう主張をする人に限って、無宗教の誤りや、正しい宗教と誤った宗教との違いに気がついていません。
人間は、この世に生を受けてから亡くなるまでの一生の’間に、生・老・病・死の晋しみがあり、人間関係の悩友や経済苦、不慮の事故など様々な出来事に遭遇します。自分の身に降りかかってくるこれらの人生苦と、正面から向き合い、正しく乗り越えて生きていくためには、人生の指針となる正しい宗教が必要となるのです。
なぜならば、正しい宗教はその人の過去の宿業の問題を根本から解決し、現在から未来に向かって、希望を持つて生きていく智慧と勇気を与えてくれるからです。宿業という意味は善悪の業(行為)に共通しますが、過去世における善悪の行為が原因となって、現世に苦楽の果報を受けることを言います。この宿業は持って生まれたものなので、自らが選ぶこともできませんし、それを変えることも至難の難なのです。
人間の宿業が人生の中にどうしても避けられない不幸や苦悩の姿として現れる場合、この宿業の苦しみを根本から解決するのが正しい宗教の持つ力なのです。こうした人間の宿業を根本的に解決できない宗教ならば、たしかに「宗教なんてなくても困らない」という主張も、あながち間違いだとは言えません。しかし、宗教における正邪・善悪の区別もしないで、ひとまとめにして言うのは誤りであるということをあげなくてはな妁ません。
正しい信仰が幸福に生きるための根源
正しい信仰を持つ人と持たない人の行く末は天地雲泥の差があります。信仰を持たない人生は、あたかも根幹を顧みることなく枝葉だけにとらわれ。振り回された人生であり、やがて枯れゆく枝葉のように、行く末は不安と恐れに満ちたはかない人生となるのです。正しい信仰によってこそ真の自己を確立して、揺るぎない幸福を得ることができるのです。
大聖人様は「法華初心成仏抄」に、一切衆生の心中の仏性を唯一音に喚び顕はし奉る功徳無量無辺なり』(御言 一三二〇ページ)
と仰せです。これについて御法主日如上人猊下は、
「ひとたび、私どもが南無妙法蓮華経と唱うれば、‘ただその一音によって、十界の衆生の心中の仏性が喚び顕され、一切衆生が成仏することができると仰せられているのであります。まさに唱題の功徳は無量無辺であります。
したがって、唱題行は、この御教示から拝しても、我らの成仏のためには欠かすことのできない大事な仏道修行であることが解ります」(大白法七六九号)
と御指南されております。仏性とは仏の本性という意味ですが、すぺての衆生か仏性を具えています。それ故に私
たちは現在と未来に向かって悠々と生きることができるという成仏への可能性を秘めているのです。
しかし私たちの生命に具わる尊い仏性も、正しい信仰という「緑」がなければ現実に開き顕すことはできません。私たちは御本尊様を絶対と信じて御題目を唱え、折伏を実践することによって仏性が開かれて、自他共に真の幸福を得るのです。
私たちはどんな人に対しても、相手の話を十分に聞いてあげ、日蓮正宗がもっとも正しい信仰であるとはっきり伝えると共に、御題目の功徳と真剣な祈りをもって、粘り強く折伏してまいりましょう