70地涌の菩薩
教学ノート
地涌の菩薩とは、大地から涌いて出てこられた大勢の菩薩のことです。法華経の『従地涌出品第十五』に説かれています。
釈尊から、法華経の前半十四品(迹門)の教えを聞いてきた菩薩たちは、そのすばらしさに喜びました。そして、釈尊が亡くなった後、この経を護り修行することをお許しいただければ、私たちは多くの人々にこの経を説いてまいります」
と誓いを立てました。この菩薩たちを迹化・他方の菩薩といいます。
ところが、釈尊はその願い出を退け、「私には久遠の昔から六万恒河沙もの多くの弟子がいます。さらに、その一人ひとり六方恒河沙等の眷属がいます。私の滅後は、この菩薩たちが法華経を弘めるのです」と仰せになりました。そして、大地から地涌の菩薩を出現させました。この菩薩たちを本化の菩薩ともいいます。
(恒河とはインドに流れるガンジス川のことで、「六万恒河沙」は、ガンジス川の砂の数のように数え切れないくらい多いという意味です)
その後、釈尊は、法華経の肝要である『如来寿量品第十六』で、御自身が実は久遠からの仏であると明かされます。『如来神力品第二十一』でその内容を四句にまとめ(四句の要法)、上行菩薩をはじめとする地涌の菩薩に、未法で法華経を弘める役目を託されました。(結要付属)
そうして末法の、出現されたのが、日蓮大聖人様です。
「涌出品には、上行菩薩等が末法に出現して南無妙法蓮華経の五字を弘めると説かれている。まずは日蓮一人が先駆けて出現したのである(趣意)(御書1361ページ)
と、御自身が上行菩薩の再誕であると仰せられました。
ただし、この上行菩薩としての姿は、人々を教え導くために方便として示された姿(外用)で、真実の御姿 (內証)は末法出現の御本仏です。(超意)」(御書13615)
また、大聖人様は、『諸法実相抄』に、
「日蓮と同じ心ならば 地涌の菩薩であろうか(中略) 末法において妙法蓮華経の五字を弘める者は、男女の別なく、地涌の菩薩として出現した者であり、また、地涌の菩薩でなければ唱えることのできない御題目である(趣意)」(同666ページ)
と仰せです。もともと、末法に生まれた衆生は、過去に妙法の種を受けていません(本未有善)が、大聖人様の妙法の種を受けることで救われます。そして、本門戒壇の大御本尊と御法主上人猊下を信じて題目を唱え、一切の人々を救うために信行に励むことで、 地涌の菩薩 としての境界を開くことができ、多くの人を救っていけるのです。
Q24.「御本尊は我々の胸中の肉団にあるから、大御本尊を拝まなくてもよい」
Q&A 創価学会員の言い分に答える
A.あなたは『日女御前御返事』の、
「此の御本尊全く余所に求むる事なかれ。只我等衆生、法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる胸中の肉団におはしますなり」(御書一三八八頁)
との御文を根拠として、そのように言うのでしょう。
この御文は、衆生個々の生命に成仏の因となる仏性がそなかっており、御本尊に向かって唱題することによって、はじめて衆生の仏性が開かれ、そこに真実の仏界が涌現することを教示されたものです。
これについて、総本山第六十六世日達上人は、
「我々は、御本尊の明鏡に向かうとき、凡夫理体の仏性が境智冥合して、はじめて成仏できるのであります。自分が自身を拝んで、なんで成仏できましょうか。
そこに、御本尊の大事なことがあるのであります。もし、かってに自分自身を拝んで成仏するというならば、大聖人はなんのために御本尊をご図顕なさったのか。戒壇の御本尊を、大聖人のご当体として残されたのでありましょうか」(達全ニー五-六〇〇頁)
と仰せられています。
この御指南からも、「御本尊は我々の胸中の肉団にあるから、大御本尊を拝まなくてもよい」という言い分が間違っていることは明らかです。
Q23.「大石寺に行かなくても、心で大御本尊を信じているからよい」
Q&A 創価学会員の言い分に答える
A.学会員のなかには、破門以降も、大石寺に安置される大御本尊を思い描いて、勤行・唱題をしていた方もいたでしょう。
そのような人達は、日蓮大聖人の教えを守って信心しているからよいと思っているかも知れません。しかし、名実ともに大御本尊から離れ、大謗法集団になった創価学会に籍を置く以上、その家庭の御本尊も、またその人の信心も、大御本尊の血脈から離れたものであり、そこに功徳は絶対にないのです。
Q22.「大御本尊から離れても功徳を受けてきた」
Q&A 創価学会員の言い分に答える
A.あなたが邪宗教となった創価学会に所属している限り、功徳と思い込んでいることは、邪宗特有の魔の通力にすぎません。
『諌暁八幡抄』には、
「一分のしるしある様なりとも、天地の知る程の祈りとは成るべからず。魔王・魔民等守護を加へて法に験の有る様なりとも、終には其の身も檀那も安穏なるべからず」(御書一五三一頁)
と仰せられています。
すなわち、邪法を信ずることによって一分の利益があったように見えても、それは仏天の利益ではなく、第六天の魔王の力によるものであり、結局は身の破滅に至るのです。
したがって今後は、いかに会員が家庭の御本尊を拝んでも、功徳を積むどころか、かえって堕地獄の業因を重ねるだけです。