御本尊を信じ奉り、南無妙法蓮華経と唱え奉るとき、我らの胸中の肉団、すなわち心臓を中心とする胸の中に御本尊が入御まします。凡夫の我らの当体が、御本尊の住処となるのである。このことは、大聖人の御指南であり、我らはただ疑いなく信じ奉るほかはない。また、この時、我らの当体と心は、御本尊の境智の実体である九識心王という明煌々の法界全体を体とする良如となる、との御教示である。
我らの日常の生活中の心意識は、眼・耳・鼻・舌・身の五根を統するので第六識と言う。
仏教のなかでは心識を深く掘り下げ、六識の奥に七識、八識があり、八識には迷いと悟りを蔵した元の心識があると言う。この七識、八識は、我ら凡夫の通常心では到底、感知できないのであり、普通の人はただ六識による精神生活のなかでのみ生きている。したがって、八識のさらに奥の、法界を体とする広大な九識の存在などは、感知することは不可能である。
大聖人の大慈大悲により、唯信無疑に御本尊に唱題するとき、このような前人未踏の白蓮華の境地を我々の心胸中に現ずるのであり、まさしく法界遍満の九識の妙法と自受用本仏の大力用である 故に、信の一字をもって唱題に励むべきである。