四十九、現当二世の秘術

日顕上人猊下御指南

南無妙法蓮華経を唱えて自行化他の信心修行に励むことの理由の一つは、この法のみが唯一末法現代の一切衆生の機根に適合しているからである。末法の衆生は、釈尊の過去の長い化導に縁がなく、その教えを習ったことのない人々である。故に、現代社会において、小乗教はもちろん、諸々の大乗教についても、それを真剣に生活の規範として学び行じ、目的を達成している者は皆無と言えよう。すなわち、現代人の思想は西洋文明その他、外道の様々な信仰や思想の低級な真理観、倫理観、価値観のなかに埋没し、加えて貪・嗔・癡の三毒充満はいよいよ著しく、このようななかで釈尊の仏教の実体は形骸化している。まさに、白法隠没の相である。故に、現在存在する仏教各宗や、それの一分をまねて自己流に利用する無数の新興宗教は、本来の釈尊の正しい見解に基づく、各時代に適合した教と機と時に対して説かれた仏教の精神に違反し、矛盾する偽宗教である。これらを信じても肝要な仏種はなく、したがって成仏はありえない。末法の衆生には、直ちに各人の仏性を喚起させる仏種それ自体を顕す法が真実の救済となる。すなわち、南無妙法蓮華経である。衆生の持つ迷妄の心と、肉体により起こる様々な迫害・障害・煩悩・業・苦を止めるには、生命の奥底より仏種を発動せしめる以外にはなく、その仏乗種は、ただ南無妙法蓮華経にのみ存するからである。
顧みるに、法華経述門は諸法実相十如の法門により、法界は円融して九界即仏界・仏界即九界の正理を示されるが、その理を説いた仏は、この土に出現し修行して初めて成仏したのである、その始覚の十界互具の教えには、永遠の実体が欠除するため、その法理は常住不変のものではなく、したがって救済の教えに確実性を欠いている。故に、述門の教法は、末法には利益がないとして抑止される。本門は、この難を免れている。すなわち、釈尊は久遠の仏身を顕して、始成正覚の難を打ち破り、仏身の常住に伴う十界円融によって無始の九界常住が明らかとなる。九界の常住に仏界が一体となり、無始の仏界の常住に九界が一体となる。
この九界仏界常住の悟りは、さらにその根本として、無始の九界仏界一如の本因下種、妙法蓮華経の法体に帰する。これによって在世の衆生は、これまで種々の形相で修行した高貴な仏法上の位を、転して凡夫名字即の位に立ち還り、信の一字をもって本地難思境智の妙法を信解する。そこに、三世流転の苦難が根本的に解決し、凡夫即極の成仏を遂げるのである。これを、等覚一転名字妙覚と言う。
この釈尊の化導は、地涌の出現に伴う言説によって久遠の長寿を示したのであり、在世の衆生は、まず釈尊と同じく自己の常住を悟り、次いで、転して久遠元初凡夫即極の仏身と一体の下種妙法を信解した。したがって、下種の妙法それ自体が、直ちに本門の化導の表面には顕れていない。この相による成仏は在世の衆生であり、それは久遠からの釈尊の化導との因縁によるのである。したがって、在世の本門の法は脱益の利益であり、釈尊と久遠以来の因縁がない末法の衆生には、その仏種が発動する用きをなさない。故に、末法は久遠元初の本仏日蓮大聖人の御化導により、即身成仏の仏種を下すところの南無妙法蓮華経のみが一切衆生の迷妄に起因する、あらゆる障害苦難を止める現当二世の秘術なのである。