およそ妙法題華経とは、仏の真実の悟りである。その悟りの内容において、法界のなかの十界とその住処のすべてが妙法の全体と説かれている。
しかし、この迷悟の区別は、妙法の理に染法と浄法があり、それが事相において、染法は薫じて迷いの衆生となり、浄法は薫じて悟りの仏界となる。
この仏界の悟りが妙法蓮華経の全体の境界であるが、現実の衆生には迷悟の相として表れている。しかして、この迷悟は、そのまま全体が法性、すなわち妙法の理と示されるのである。
故に、妙法蓮華の実教を信ずる人は、すなわち当体蓮華の妙体となるが、妙法を信ぜず因果の正しい道理に反する権教や、仏教外の外道を信ずる者は、妙法蓮華の当体でないと指南されている。
迷悟は法性の一理と述べられていることからすれば、妙法を信ずる者も、信じない者も、すべて法性の一理のはずである。それならば、信も不信も区別はないと言えるのではなかろうか。
この疑問について会通すれば、迷悟の全体が法性の一理というのは、あらゆる存在の基本としての真理において一体と言うのである。一理の語が明らかに、これを示されている。
しかし、現実の十界に差別する因果相は、理ではなく事実の姿である。これを理に対し、事相と言う。
この現実相よりすれば、権教や外道教の信者は妙法を信じないので、妙法の体とはならない。すなわち、九界に偏執する迷いの体の故である。
実教の妙法を信ずる人は、仏の真の悟りとしての妙法蓮華経と一体となるから、その当体が妙法蓮華と顕れる。その身心、すなわち仏である。
しかし、また妙法を信じても、信が徹底せず、種々の疑いを残す者は、悪縁によって迷いを生じ、当体蓮華の尊い境地より転落する。
故に、信力を強盛に持ち、真剣に題目を唱えることが肝要である。