題目を唱えることは、必ず信心による。信心とは、御本尊に向かい奉り題目を唱えるとき、成仏決定と信ずることである。これは信心の厚薄によることであるが、あくまで信力を強く持って精進すべきである。
仏法のなかにはあらゆる行法があり、三十七道品、蔵教の但空、通教の不但空、別教の従仮入空、従空入仮、但中、各教の六度等の広い教行は到底、何人も一生の間になし終わることはできない。しかし、その枢要は題目に帰するのであり、信が根本である。故に『止観』巻四に、
「仏法は海の如く、唯信のみ能く入る」(止観会本中一四三ページ)
と説き、『弘決』巻四に、
「唯信能人とは、孔丘の言、尚信を首めと為す。況んや仏法の深理、信無くして寧んぞ人らんや」(同一四四ページ)
と示し、同巻一に、
「円信と言うは、理に依って信を起す。信を行の本と為す」(同上六〇ページ)
とある。天台、妙楽の釈も、仏法の修行は信をもって本とする。正法を受持する者は、現当二世にわたり信を根本と心得べきである。