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世間と出世間の嘘つきを許すなー創価学会
創価学会
かねてより創価学会は、大石寺を大謗法の地であると誹謗し、「野犬がうろついている」「ペンペン草が生えている」「桜の木は全部伐って一本もない」等と、嘘の情報を流してきた。
欺瞞体質
だいたい、宗門を口汚く攻撃する学会の言動は嘘ばかり。「嘘つきは泥棒の始まり」だが、この嘘つきは「謗法の塊」でもある。
嘘つきは人を騙す。 騙すとは、真実でないことを、嘘をついて真実だと思わせることだ。
「宗門は学会を騙してきた」「学会は宗門に騙された」等と強弁する学会員が多い。
しかし、宗門は学会を騙したことなどない。昔も今も、何一つ変わることなく、本門戒壇の大御本尊を信仰の根本と仰ぎ、広宣流布をめざしている。
対して学会は、その時々の状況によって主張や指導を目まぐるしく変えているではないか。
破門以降、血脈を否定したのに始まり、御僧侶への誹謗中傷、『ニセ本尊』の作製・販売、葬儀・塔婆・観念文の変更など。さらには会則や規則まで大幅に改変している。 破門以前を知る学会員ならば、それこそこのような大事なことを、よほどの事情(自分たちの都合に合わせて変える必要が出た)でもない限り、変えるのがおかしい。
よって、「宗門と学会のどちらが騙しているの?」と迷ったら、答えは明白。人々を証惑し騙し続けているのは、他ならぬ学会だ。
不正直団体
嘘つきは不正直である。
日蓮大聖人は『諌暁八幡抄』(御書一五四二ページ)に、
世間と出世間(仏法)の正直について説かれる。世間の正直とは、嘘偽りのないことであり、出世間の正
直とは、法華経『方便品第二』 に、
「正直捨方便但説無上道」(法華経 一二四ページ)
と説かれるように、 誤った教えを捨てて正しい教えを信じることである。
謗法の団体と化した学会は、出世間の不正直である。その最たる不正直は『ニセ本尊』の作製・販売であり、本門戒壇の大御本尊への信仰を放棄したことだ。
学会は、大聖人の御魂魄である御本尊に手を加えて『ニセ本尊』と仕立て上げ、それを会員に販売して拝ませているのである。 その罪の深さたるや、仏法破壊以外の何ものでもない。
それに輪をかけるのが、
「弘安二年の御本尊は受持の対象にはいたしません」(聖教新聞 平成二十六年十一月八日付)
との宣言。 大聖人の出世の本懐を捨てさせるという、まさに不正直の極みである。
大聖人は、
「法華経は正直の金言なり」(御書 九〇八ページ)
と決判されている。世間・出世間共に、不正直な者は法華経の教えに背くため、成仏は万に一つも叶わない。 素直な心で本門戒壇の大御本尊を信仰することこそ出世間の正直であり、真の幸福を得ることができるのである。
虚妄からの救出
学会は、大石寺の現状や寺院・僧侶について、悪口やニセ情報を吹聴して、やめない。これら不正直な輩の遠吠えには、けっして騙されてはいけない。
実際に、宗門のありのままの姿を知れば、学会員の口から出る誹謗中傷や、学会の新聞で報道される宗門の実態が、悪意によって曲げられたものだということがすぐに判る。
大聖人は、
「日蓮一人計りこそ世間・出世正直の者にては候へ」(同四三五ページ)
と仰せである。
大聖人の末弟ならば、どこまでも正直な信心を貫いていくべきである。
かつて総本山第六十七世日顕上人は、
「(学会が宗門を誹謗するのは本当に悲しむべきことだが、大きく考えるならば、大聖人様の正しい法が未来末法万年に広宣流布していく大因縁であるということを私どもは深く達観すべきである (趣意)」(大日蓮 五四三号七四ページ)
と仰せられた。
ただ学会を糾していけるのは学会の嘘を知る我々だけ。
障魔の興盛は正法たる所以。大悪起こるは大善来る(趣意)」(大日蓮四三号七四)
と仰せられた。
学会を糾していけるのは学会の嘘を知る我々だけ。障魔の興盛は正法たる所以。大悪起こるは大善来たる兆し。そうとらえて、学会員をはじめ世間の人々を折伏していこう。
(大白法令和4年6月1日号転載)
主従を弁えぬ信仰ー民間信仰
諸宗教破折2
淡路島の巨大観音像「世界平和大観音像」が、約九億円の税金を使って解体工事中という。この像の処理を巡り、関係者が苦慮する姿が報道されている。
像が立つ平和観音寺は、宗教法人の認定をされておらず、造ったのも僧侶ではなく不動産屋。 しかし、事情を知らない人にすれば見た目は観音であり、ついつい手を合わせてしまう人もいたようだ。
そもそも観音ら菩薩は、けっして仏ではない。しかし、悟りを求め、 衆生を救済する姿に、古くから信仰を集めてきた。
信仰される菩薩は数多く、紙面で紹介しきれないが、ここでは主なものを挙げてみよう。
観音信仰
観音は、最も多く信仰される菩薩であろう。観音の利益が説かれたのは法華経であり、そこには、
衆生が観音の名を唱えれば、その声に応じて衆生の苦難を余き、福楽を与えるとされている。
また、観音には千手観音や馬頭観音など多種あるが、これは救う対象に応じて自らの姿を変え、あらゆる衆生を救うことに由来する。
そんな現世利益的性格が民衆に受け入れられ、どのような願いでも叶えてくれる菩薩として信仰されるようになったというのだ。
しかし、誤ってはいけないのが、法華経で観音の利益を説いたのは、あくまで法華経の正義を宣揚するためであること。つまり『御義口伝』に、
「南無妙法蓮華経と唱へ奉る事、観音の利益より天地雲泥せり」(御書一七八九ページ)
と御示しのように、観音の利益は、広大無辺なる妙法の力用によって成されることを忘れてはならない。そこを蔑ろにして、直ちに観音を信仰することは誤りである。
弥勒と地蔵の信仰
太平洋沿いの地域に、弥勒菩薩来迎を願う信仰が、弥勒踊りなどの形で伝わっている。
弥勒とは、釈尊に次いで仏に成るとされた菩薩であり、五十六億七千万年後に人界へ下生し衆生を救済すると信じられている。
しかし、弥勒が未来仏であることは、釈尊有縁の弟子に対して説かれたもの(熟脱の化導)。このこと
について日蓮大聖人は『教行証御書』に、
「今末法に入っては教のみ有って行証無く在世結縁の者一人も無し」(同1103ページ)
と、末法の衆生は釈尊と無縁であることを説かれており、自ずと弥勒を未来仏と信じることも誤りである。
また、弥勒が下生するまでの空白の期間、人々を導くとされるのが、道路脇の”お地蔵さん”こと、地蔵菩薩である。
地蔵といえば、賽の河原で石積みをする子供を救うイメージがある。これは、平安時代に地獄思想が定着した頃、地蔵が六道を巡り、苦しむ衆生を救済するとされたことによっている。
さらに、地蔵に手を合わせれば、地蔵が代わりに苦しみを受け、地獄の裁判で罰せられるのを救うという俗信も生まれた。
しかし、地蔵について説かれる経典の多くは、後代に作られた偽経である。 手を合わせたところで利益はなく、地蔵を祀ることは謗法となるのだ。
仏の正意に沿った信仰
大聖人は『法華初心成仏抄』において、
「三世の諸仏も妙法蓮華経の五字を以て仏に成り給ふ」(同一三二一ページ)
と、妙法蓮華経は一切の仏が修行し成仏得道した教えであると教示されている。諸菩薩もまた、妙法の教えによって成仏を志し、御本仏の使いとして衆生を救済されたのである。
それを、有り難そうだからと、凡夫の浅知恵で好きな菩薩を選んで拝むことは、従者を重んじ、主人である御本仏を蔑ろにする行為であり、仏意に背く謗法である。
現世利益と後生善処は誰もが願うところであるが、『持妙法華問答抄』には、
「願はくは『現世安穏後生善処』の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後生の弄引なるべけれ」( 同 三〇〇ページ )
とあり、妙法を一心に信じ、御題目を唱えていくことこそが、現当二世に亘って人生を豊かにする、唯一絶対の方途なのである。