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三 衣

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教学用語
「三衣」とは、一般的には僧侶が着用する三種類の法衣を指します。
一般的な三衣の由来
 「三衣一鉢」という言葉がありますが、古代インドでは僧侶は三衣
と托鉢用の鉢(食器)、その他いくつかの生活用具しか持たず、それ
以外の余計な道具を長物として遠ざけていました。今でも一般的に役
に立たないもののことを「無用の長物」といいます。
 仏教における一般的な三衣とは、僧伽梨(大衣・九条)、鬱多羅僧
(中衣・七条)、安陀会(下衣・五条)の三つになります。
 条というのは、生地の大きさの単位で、条数が多いほど、幅の広い、
大きな袈裟になります。インドの出家者たちは、儀式礼装用(九条)・
通常衣(七条)・作務就寝用(五条)と使い分けていたようです。
 インドでは青・黒・木蘭などの濁った色に染めた袈裟を、肌の上に
直接かけていましたが、仏教が中国・日本に伝播する過程で、気候や
風俗習慣の違いから、僧侶は袈裟の下に衣をまとうようになりました。
 そして袈裟・衣は、宗派ごとに様々な色・形に変化し、鎌倉時代か
ら江戸時代にかけ、権威のある僧侶に朝廷から紫衣の着用が許される
など、粗末な着衣であったはずの三衣は、絢爛豪華なものに変化し、
本来の意義が損なわれていきました。
日蓮正宗の三衣
 日蓮正宗では、日蓮大聖人・日興上人以来、薄墨色の衣、白色の五
条の袈裟、数珠、この三つをもって三衣としています。
 そのいわれについては、総本山第二十六世日寛上人が『当家三衣抄』
(六巻抄 205㌻)に詳しく御教示されています。以下、その御指南に
沿って解説します。
忍辱の鎧
 日寛上人は素絹という粗末な木地の薄墨の衣に、白五条の小さな袈
裟を着用する理由として、五条の袈裟は「行道雑作衣」といって、起
居動作に便利で、折伏行に適していることを挙げられ、さらに降りか
かる魔を耐え忍ぶ「忍辱の鎧」の意味があるとされています。
 このように、日蓮正宗の僧侶が薄墨の素絹、白五条の袈裟を用いる
理由は、日蓮正宗が折伏の宗旨であり、難を耐え忍び、折伏によって
一切衆生を救済するという意義が込められているのです。
薄墨の法衣と白袈裟
 薄墨の衣を着る理由は、
①初めて信心修行する位(名字即)を表わすため
②見た目ばかりの立派な法衣を着て修行を怠る他宗の僧侶を破折・区
 別するため
③他宗との相違を明確にし、信じる人は順縁を結び、誹謗する者にも
 逆縁を結ばせるため
④日蓮大聖人の門下として自覚を持ち、他宗の僧侶との区別を明確に
 するため
と示されています。
 名字即とは、初めて仏法を聞き、信のみがある位で、大聖人は『四
信五品抄』に、「信の一字を詮と為す(中略)信は慧の因、名字即の
位なり」(御書 1112㌻)と説かれています。
 つまり、末法の衆生は、ただ信をもって題目を唱えるだけで成仏を
遂げることができます。薄墨色の衣は、末法の成仏の位が名字即にあ
ることを表すものです。
 次に白袈裟を用いる理由は、
①初心の理即を表わすため
②大聖人が白色の袈裟をかけられていたため
③白蓮華を表すため
とされています。
 理即とは、信心すらない、仏性があるのみの末法の一切衆生を意味
します。これも名字即と同様、末法の衆生が初心の理即の位から成仏
することを表しています。
 白蓮華の意義について日寛上人は、白袈裟をかけた姿は当体蓮華仏
を表わすと共に、日蓮正宗の僧俗は大聖人の弟子として世間の法に染
まることなく仏道修行に励み、正法を弘める意義があると御指南され
ています。法華経『従地涌出品第十五』には、
 「不染世間法 如蓮華在水(世間の法に染まらざること 蓮華の水
 に在るが如し)」(法華経 425㌻)
という経文が有ります。これは、白蓮華が汚泥の中で白く美しい大輪
の花を咲かせるように、地涌の菩薩が濁世にあっても、汚れない浄く
美しい心をもっているという、地涌の菩薩の徳を示した経文です。
 この経文は、日蓮正宗の僧侶が、初めて御法主上人猊下から袈裟を
賜る際、その袈裟に必ず染筆されています。
数珠のいわれ
 日蓮正宗では、数珠を「三衣」の一つに数えます。その理由につい
ています。法華経『従地涌出品第十五』には、日寛上人は法性の珠が
百八の煩悩を覆い隠すためであると説かれています。
 本宗の数珠には、基本となる珠が一周で百八顆(玉)あり、その一
つひとつが煩悩を表しています。
 日寛上人は『当家三衣抄』(六巻抄 224㌻)に木槵子経を引き、
数珠は本来、自らの煩悩を断じるため、三宝を念じて一つずつの珠を
過ごしていくものであると示され、本宗においては、仏宝たる日蓮大
聖人、法宝たる本門の戒壇の大御本尊、僧宝たる日興上人及び御歴代
上人を念じ、一遍の題目を唱え、一つの珠を過ごすべきであると御教
示です。
 すなわち、私たちが唱える一遍一遍の題目は、三宝への信心の念を
もって唱えることが重要なのです。
 日寛上人は、数珠が、「下根を引接して修行を牽課する具(機根の
低い衆生を導いて修行を推し進めていくための法具)(六巻抄224㌻)
」であり、数珠を常に自ら身に随え、仏法僧の下種三宝に帰命する心
構えで、一遍でも多く題目を唱えるよう御指南されています。
内心に衣を着す
 このように、日蓮正宗の三衣には、法義の上から様々な意義が込め
られています。
 他宗では三衣は僧侶に限っていますが、日蓮正宗においては信徒も
三衣の一つである数珠を所持しています。このことについて日寛上人
は『法衣供養談義』に、
 「他宗の僧は事相の髪を剃り衣を着ていても、心中の謗法の髪は剃
 り落としていない。対して当宗の信徒は事相の髪は剃らなくても、
 内心の謗法の髪を剃り、さらに法華の衣を着ているから他宗の僧よ
 り勝れている(趣意)」
と仰せです。私たち日蓮正宗の信徒は、内心の謗法の髪を剃り落とし
ているのですから、世間の諸悪に染まらず、心には常に法華の衣・忍
辱の鎧を着ていることを忘れず、折伏を行じていきましょう。

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如在の礼

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教学用語
「如在の礼」とは、入滅して姿を隠した仏などに対し、生きて在すが如くに礼を尽くすことをいいます。
 本宗においては、総本山第五十九世日亨上人が、
 「(第二祖日興上人が)些細の供養も一々宗祖御影の見参に供へて、如在の礼を本仏大聖に尽し給ふ」
と示されるように、特に、日興上人が日蓮大聖人の御入滅後にあっても、大聖人の生前と変わらず、御本尊及び御影に対し尊崇の念をもって常随給仕された、その姿勢をいいます。

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「おもしろいできごと」

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(さらに…)

戒名・位牌・葬儀後の回向

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所作仏事(本宗化儀の理解のために)
 戒 名
  ○戒名の意味=戒名は死後の名前の如く理解されているようですが、
   本来は授戒を受けて、仏門に帰依した時に授けられるものです。
   即ち当宗にあっては三大秘法の仏法に帰依して、大聖人様の弟子
   となったという意味で、戒名が授けられるのです。この意味から
   すれば、御授戒を受けた時に戒名も授与されるべきでしょうが、
   今日では葬儀に当たってはじめて授けられるということは、それ
   だけ入信してから臨終に至るまでの、仏道精進が大事であるとい
   う意味に、理解して頂きたいものです。その現れとして、他宗に
   あっては、布施供養の多寡によって戒名の種類が決められるよう
   ですが、当宗はあくまでも当人の生前の信心を尊んで、授けられ
   るものです。以上の意味をふまえ、家族・親族の方が以後、故人
   の追善供養を修する時には、必ず授与された戒名をもって行って
   下さい。
  ○生前に戒名を授ける場合=身よりの無い方・身内で他に信心を
   している者がない方の場合、生前のうちに正宗の葬儀を寺院に願
   い出られる場合もあります。その様な時には、あらかじめ戒名を
   授けることがあります。
 位 牌
  ○位牌の意味=世間一般の位牌は、中国の儒教から起こったもので、
   葬式の時死者の世間的栄誉を表わすため、官位・姓名を書いたも
   のが、後に仏教に取り入れられたということです。
   即ち「位」とは官位の意味であった、霊位の位(魂のよりしろ)
   の意味ではありません。
   また「牌」は「籍」であって、ふだ(札・牒)の意味であります。
   つまり葬列の先頭を捧げ歩き、こういう位階・こういう姓名の人
   の葬式であると、人々に知らせる為の札であったのです。
   従って今日一般に考えられている如く、位牌に死者の魂が宿って
   いるのでもないし、礼拝する対象ともなりません。あくまでも、
   故人の生前の徳や地位を印し残したのが位牌でありました。
   日有上人はこれ等を
   「神座立てざる事」(富要一巻93頁)
   と退けられ、
   「只当宗は事の位牌を本と為す故に別に位牌を立てざるなり、事
   の位牌とは本尊の示書是れなり」(富要二巻153頁)
   と教示されましたが、当宗で現在立てる位牌も、この「事の位牌」
   の意義をもって、仮に立てられているのです。
  ○葬儀後の位牌の扱い=当宗の教えからすれば、死者の霊魂も一念
   三千の御本尊様の体内に収まっているのです。
   そのことを『千日尼御返事』(御書1475頁)に、
   「故阿仏房の聖霊は今いずくにかをはすらんと人は疑ふとも
   (乃至)多宝仏の宝塔の内に、東向きにをはすと日蓮は見まい
   らせて候」
   と仰せです。
   故に、我々は御本尊様を拝することによって、その功徳も精霊に
   回向されるのであり、御本尊様を中心に、故人の追善供養を修し
   ていくべきなのです。よって当宗では四十九日忌を終れば、位牌
   は寺院に納め、戒名は過去帳に記載して、世間で行われるように
   仏壇に祀ることはしません。
 葬儀後の回向
  ○初七日より七七日忌までは七日ごとに塔婆を建立して、追善供養
   を修します。特に初七日忌と五七日忌(三十五日)または七七日
   忌(四十九日)には、遠い親族も集まり、納骨をする場合が多い
   ようですので、予め寺院に法事の願い出をしておくことがよい
   でしょう。
  ○二七日忌より六七日忌までは、寺院に参詣して、塔婆供養を願い
   出ると良いでしょう。
  ○以後の法事は百箇日忌・一周忌・三回忌・七回忌等々です。

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通夜・葬式

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  所作仏事(本宗化儀の理解のために)
 通夜
  ○文字通り夜を通して読経・唱題等をして故人の成仏を祈ることで
   すが、 意義を良く弁えれば、夜通し行うことに固執しなくても
   よいでしょう。先ず御住職様の導師をもって定刻の通夜を修し、
   その後親族・同志の付合いの深い人等によって、一定時間唱題が
   なされれば望ましい姿です。
 葬式
  ○葬儀と告別式=双方混同して使われる場合もありますが、元来は
   別々の儀式でありました。
   葬儀は、遺族の信心によって故人の即身成仏を願う、信仰上重要
   な意味を占める儀式です。
   対して告別式は、生前故人と縁の有った一般の人々が、故人に別
   れを告げる儀式であって世間との付合いから出た儀式といえます。
   古来の告別式は、野辺送りがこの意味を持っていたようですが、
   次第に今日のように、焼香をもってする形に変わってきたのです。
   従って信心の上からは葬儀の方がより重要であることは、言うま
   でもありません。ゆえに普通には葬儀を行うことによって、その
   一連の流れの中に告別式も含まれていると解釈されます。
   しかし会葬者が多く予想されるような場合には、葬儀とは別に、
   火葬して後に告別式を執り行うこともあります。その判断はあく
   までも喪主並びに近親者の意志によるものです。
   告別式を行う場合でも、日蓮正宗の化儀に反しないよう行うべき
   は当然です会場は寺院本堂か若しくは自宅・公民館等となります。
  ○葬儀は故人の折伏の場=葬儀の場は故人がこの世で最後に出来る、
   折伏の場ともなります。即ち会葬者の集まるのは故人の徳による
   ものであり、その場において正宗の化儀に則った立派な葬儀が営
   まれることは、故人が最後の折伏をしている姿と言えましょう。
   家人はその手助けをするという心づもりで、信心に根差した荘厳・
   厳粛となるよう、精一杯の努力をすべきです。   

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墓について

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所作仏事(本宗化儀の理解のために)
○墓の信仰上の意味=法華経神力品に、
   「当知是処 即是道場」
    (当に知るべし 是の処は即ち是れ道場なり)
 とあります。つまり法華経の行者の修行するところどこにあっても道場であるとの意味で、妙法の信者が死して葬られた墓所も、そこが即身成仏の道場、南無妙法蓮華経の修行の場となるのです。
 ゆえに、正宗信徒の墓石には、必ず題目を刻むことになっております。
○墓相の迷信=世間に墓相といって、向き・形状・造り形・造る時期等々、様々な迷信を言う人がいますが、上記の意義からして、墓石題目を刻んだ墓であれば、そのような事は一切気にする必要がないのは、いうまでもありません。  
○墓に題目を刻む意義=先ず死者の当体即妙法蓮華経の五大である意味が考えられます。
更にそこに埋葬された人、また墓を建立した人が、妙法の信者であることを知らしめるのは勿論、子孫の代になっても先祖の信仰を知り、他の教えによって追善供養を修するを防ぐことにもなります。
○墓石題目の建立=竿石(長方形の石)に題目を刻んで台石に乗せます。五輪塔の題目を希望される方もありますが、これは個人墓に限ります。(一部地域で行われている供養塔などは、あえて建てる必要はありません。)
○墓石題目の染筆=必ず寺院に願い出て下さい。自分で勝手に,お題目を書いたり、石材業者に任せてしまってはなりません。
 まず題目を刻む石の大きさを決め、図引紙(トレッシングペーパー)・模造紙等をその大きさに2~3枚切って、寺院に染筆を願い出ます。寺院より染筆題目が下附されたらそれを石材店に持参して、竿石に刻んでもらいます。(染筆題目は、使用後寺院に返納して下さい。)
○墓石題目の取付け=題目より上には、家紋や○○家の墓などの文字が一切こないように気をつけます。(墓の屋根の上でもいけません。)正宗の鶴丸を使ってはいけません。
○墓誌=墓石題目とは別に、その墓に埋葬されている故人達の、戒名・俗名・死亡年月日・享年を並べ記した石板を墓の傍に建てたり、はめ込む場合もあります。この場合でも墓石題目が中心となるよう、気をつけます。なお、墓誌等には「妙法」(題目)を刻んではいけません。
○開眼供養=墓石題目が完成したなら、必ず僧侶の導師を仰ぎ、開眼供養を修します。(開眼供養とは、刻まれた題目に魂を入れることです。)またこの時、遺骨がある場合には埋葬(納骨)も
一緒に行います。
○墓参の心得=当宗では、墓参をする折には、先に御本尊様の御前で追善供養をするのが本義で、ただ墓参だけを行うという事は好ましくありません。即ち師弟相対の義により、あくまでも御本尊様の仏力・法力によって、墓参の功徳も先祖精霊に回向されるからです。よって、事前に寺院に参詣して、御本尊様の御前で塔婆供養をして後、その塔婆を持って墓所に向かいます。
○墓所に塔婆を建立する事=前掲神力品「当知是処 即是道場」の文の前に、「皆応に塔を起てて供養すべし」とあるところに、意義を求められます。塔婆はお経文の「塔」に通じるからです。
 また墓地は当宗の信者のみならず様々な人が訪れる所ですから、当宗の塔婆を目に触れさせることによって、建立願主の志しを広く知らせめ、仏縁を結び功徳を得させることになることが、『中興入道御消息』(御書1434頁)に説かれています。
 これらの意義をもって、当宗では墓参の折には必ず塔婆を建立することになっています。開眼供養の場合も同じです。
○三師塔での墓参=総本山の墓地を始め、全国にある日蓮正宗の寺院墓地には、おおかた三師塔が建立されています。三師塔とは、宗祖大聖人・二祖日興上人・三祖日目上人の墓所を表す五輪塔のことです。
 そのような墓地での墓参は、まず三師塔へ参った後、自分の有縁の墓所へ参るべき事を、師弟相対の上から『化儀抄』(37条)等に説かれています。
 また三師塔の前では座るか膝を折って身を低くして拝し、有縁の墓所では立ったままお参りをします。即ち三師は師(仏界)であり、有縁の精霊は弟子(九界)であるからです。
○墓所での回向=方便品・自我偈・題目、または自我偈・題目とします。
○焼香=墓所での焼香は、火のついた線香を一本づつ全員に配っておき、読経唱題中導師、親族、その他の人の順で前に出て、香炉に供えます。
○塔婆立ての設置=墓参に塔婆を立てる意義は前述の通りですが、なるべく墓の後ろに塔婆立てを作り、風で倒れて見苦しくならないようにしましょう。
(塔婆は一年間程度はそのまま立ておき、古くなってから焼却します)

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通夜・葬式までの準備

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所作仏事(本宗化儀の理解のために)

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○末期の水(死水)=死者の口にとらせる水のこと。
 亡くなった人とのつながりの深い順に、樒の葉に水をつけて、軽く唇をうるおす程度にとらせます。
○枕経=厳粛な唱題の内に、いよいよ息を引き取ったならば、北枕(後述)に枕直しをして、枕辺に三具足・鈴をととのえ、枕経を上げます。枕経は、寺院より導師曼荼羅をお迎えし、住職の導師をもって行うのが本来の在り方ですが、急なことでもあり、今日なかなかそこまで出来ないのが実情です。しかし三具足をそろえ、遺体に向かって方便品・自我偈・題目を唱え、臨終を見取った家族だけでも、枕経を勤めるようにしたいものです。なお、枕経は息を引き取って後、直ちに修するのが本義です。またこの時より自宅の仏壇の扉は完全に閉じて、寺院より導師御本尊様をお迎え出来るように、準備を整えます。

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正宗葬儀の心構え

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所作仏事(本宗化儀の理解のために)

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世間(せけん)(ひと)(かん)える葬儀(そうぎ)肉親(にくしん)()くなっても、もし葬式(そうしき)と言うも のがなかったなら、遺族(いぞく)人々(ひとびと)(かな)しみに()えられないのではな いか。葬式(そうしき)(おこな)うからこそ、遺族(いぞく)はその(なか)()(した)し、なされる べきことが(すこ)しづつ(すす)められていく(あいだ)(かな)しみも幾分(いくぶん)(やわ)らげられ、また(みずか)らを(なぐさ)めることも出来(でき)ると、宗教(しゅうきょう)学者(がくしゃ)葬式(そうしき)利点(りてん)分析(ぶんせき) しています。今日(こんにち)世間(せけん)(ひと)たちの(おこな)葬儀(そうぎ)も、個々(ここ)意識(いしき)はな くとも、このような学者(がくしゃ)分析(ぶんせき)()てはまっています。(おお)くは、因襲(いんしゅう)(てき)形式(けいしき)(てき)世間(せけん)(たい)(おも)んじて、意義(いぎ)内容(ないよう)にまで()()って(かんが)えることは(あま)りありません。

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本宗(ほんしゅう)葬儀(そうぎ)世間(せけん)葬儀(そうぎ)とどこが(ちが)うのかと()えば、日常(にちじょう)信仰(しんこう)生活(せいかつ)一部(いちぶ)として、(ひと)()くなれば当然(とうぜん)葬儀(そうぎ)(おな)信心(しんじん)をもって ()(おこな)われるということです。()(おもむ)(ひと)も、自分(じぶん)のこれまでの信心しんじん)到達(とうたつ)(てん)として、正宗(しょうしゅう)葬儀(そうぎ)遺族(いぞく)()(いと)まれるべきを(のぞ) むでしょうし、遺族(いぞく)人々(ひとびと)も、肉親(にくしん)(なく)くなった(いま)こそ、日頃(ひごろ)自分(じぶん)信心(しんじん)成果(せいか)を、死者(ししゃ)成仏(じょうぶつ)(ねが)(うえ)()かしたいと(かんが)える のです。  

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信心(しんじん)(もと)づく葬儀(そうぎ)=『化儀(けぎ)(しょう)』43条に、当宗(とうしゅう)葬儀(そうぎ)のありかたについて、「霊山(りょうぜん)への儀式(ぎしき)なるが(ゆえ)に、他宗(たしゅう)他門(たもん)自門(じもん)()いても同心(どうしん)()(かた)を・あらがき((たけ)(つく)った(かき)結界(けっかい))の(うち)()るべからず、法事(ほうじ)なるが(ゆえ)なり」と(おお)せです。(富要(ふよう)(かん)66(ぺーじ))    
つまり当宗(とうしゅう)葬儀(そうぎ)は、霊山(りょうぜん)死者(ししゃ)(おく)大切(たいせつ)儀式(ぎしき)ですから、 謗法(ほうぼう)(ひと)()れず信心(しんじん)強盛(ごうじょう)(ひと)のみで葬儀(そうぎ)(いとな)むのが本義(ほんぎ)です。 しかし今日(こんにち)これを厳格(げんかく)(つらぬ)くのは、少々(しょうしょう)無理(むり)(めん)もありますが、親族(しんぞく)一類(いちるい)それぞれを生前(せいぜん)折伏(しゃくぶく)して、信心(しんじん)()たせておけば、 この『化儀(けぎ)(しょう)』の(ごと)く、正宗(しょうしゅう)信者(しんじゃ)のみで葬儀(そうぎ)(いとな)む((また)はそれに(ちか)(かたち)(いとな)む)ことも不可能(ふかのう)ではありません。我々(われわれ)目標(もくひょう)もここに()き、折伏(しゃくぶく)精進(しょうじん)(いた)すべきです。   

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当人(とうにん)信心(しんじん)なき場合(ばあい)=『(おん)()()(でん)(じょ)(ほん)御書(ごしょ)1724(ぺーじ))に、  
(いま)日蓮(にちれん)(とう)(たぐい)聖霊(せいれい)(とぶら)(とき)法華経(ほけきょう)読誦(どくじゅ)し、南無妙法蓮華経と (とな)(たてまつ)(とき)(だい)(もく)(ひかり)無間(むげん)(いた)って即身(そくしん)成仏(じょうぶつ)せしむ」(「無間(むげん)」とは無間(むげん)地獄(じごく)のこと)(すなわち)死者(ししゃ)本人(ほんにん)がたとえ信心(しんじん)()かったり、未入信(みにゅうしん)であったとしても、親族(しんぞく)(tona)える題目(だいもく)無間(むげん)地獄(じごく)まで(とど)き、 立派(りっぱ)成仏(じょうぶつ)せしむる(こと)()かれた御文(ごもん)です。
ゆえに、正宗(しょうしゅう)信者(しんじゃ)でない(ひと)()くなった場合(ばあい)でも、身内(みうち)(おや)兄弟(きょうだい))に()たる(ひと)信心(しんじん)によって(喪主(もしゅ)となり)寺院(じいん)住職(じゅうしょく)導師(どうし)(むか)え、正宗(しょうしゅう)葬儀(そうぎ)(おこな)うことができるのです。   

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遺族(いぞく)信心(しんじん)()場合(ばあい)上記(じょうき)(ぎゃく)に、死者(ししゃ)当人(とうにん)のみ正宗(しょうしゅう)信者(しんじゃ)で、遺族(いぞく)未入信(みにゅうしん)場合(ばあい)です。 『化儀(けぎ)(しょう)』88(じょう)に、   
(たと)昨日(さくじつ)まで法華宗(ほっけしゅう)(いえ)なりとも孝子(こうし)施主(せしゅ)(とう)()くんば仏事(ぶつじ)()くべからず、(ただし)取骨(しゅこつ)までは(とぶら)ろふべし云々(うんぬん)」     
とあります。(おや)信心(しんじん)()()子息(しそく)孝子(こうし)ということで、その 孝子(こうし)()場合(ばあい)葬儀(そうぎ)火葬(かそう)取骨(しゅこつ)までの回向(えこう)は、正宗(しょうしゅう)寺院(じいん)()(おこ)なう(こと)ができます。これは、故人(こじん)生前(せいぜん)信心(しんじん)(たい)して(おこな) うものです。しかし、それ以後(いこう)(しょ)七日(なぬか)からの追善(ついぜん)供養(くよう)は、正宗(しょうしゅう)では出来(でき)なくなります。(すなわ)ち、追善(ついぜん)供養(くよう)とは、遺族(いぞく)信心(しんじん)をもって      (いとな)むものですから、その人々(ひとびと)信心(しんじん)をしていない(未入信(みにゅうしん))で あれば、法事(ほうじ)(おこな)えないのが道理(どうり)です。世間(せけん)無信仰(むしんこう)人達(ひとたち)が、ただお(きょう)をあげて(もら)えさえすれば、供養(くよう)になるだろうと(かんが)えるの とは、おおいに(おもむき)()にします。    

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導師(どうし)曼荼羅(まんだら)(こと)葬儀(そうぎ)のおり御安置(ごあんち)される御本尊(ごほんぞん)を、導師(どうし)曼荼羅(まんだら) (御本尊(ごほんぞん))と(もう)()げます。死者(ししゃ)霊山(りょうぜん)浄土(じょうど)(みちび)()即身(そくしん)成仏(じょうぶつ)導師(どうし)となる御本尊(ごほんぞん)(さま)意味(いみ)です。    
妙法(みょうほう)曼荼羅(まんだら)供養(くよう)()』(御書(ごしょ)689(ぺーじ))に(いわ)く、     
()曼荼羅(まんだら)文字(もんじ)五字(ごじ)七字(しちじ)にて(そうら)へども、(さん)()諸仏(しょぶつ)御師(おんし)一切(いっさい)女人(にょにん)成仏(じょうぶつ)印文(いんもん)なり。冥途(めいど)にはともしびとなり、死出(しで)(やま)にては(りょう)()となり、(てん)には日月(にちがつ)(ごと)し、()には須弥山(しゅみせん)(ごと)し。 (しょう)()(かい)(ふね)なり。成仏(じょうぶつ)得道(とくどう)導師(どうし)なり。」     
御文(ごもん)をよくよく信心(しんじん)(もっ)(はい)すべきであります。     
 また『持妙(じみょう)法華(ほっけ)問答(もんどう)(しょう)』(御書(ごしょ)1297(ぺーじ))には、曼荼羅(まんだら)を「無為(むい)聖衣(しょうえ)」と()かれ、「死後(しご)(はじ)をかくす信楽(しんぎょう)慚悔(ざんけ)(ころも)」との(しめ)(しょ) 、即(すなわ)生前(せいぜん)宿業(しゅくごう)(おお)(かく)して、(みずか)らの()()仏道(ぶつどう)(こころざ)(しるし)とな  る(ころも)との意味(いみ)でありましょう。   

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導師(どうし)(こと)葬儀(そうぎ)(とき)には寺院(じいん)より導師(どうし)御本尊(ごほんぞん)(さま)とともに、僧侶(そうりょ)導師(どうし)(むか)えます。これも世間(せけん)(ひとの、僧侶(そうりょ)のお(きょう)引導(いんどう)がなければ葬式(そうしき)にならないというような(かんが)えではなく当宗(とうしゅう)にあっては僧侶(そうりょ)大聖人(だいしょうにん)(さま)のお使(つか)いであるという信心(しんじん)(じゅう)して、導師(どうし)(むか)えることが肝要(かんよう)です。 
上野(うえの)殿(どの)御返事(ごへんじ)』(御書(ごしょ)1361(ぺーじ))には、     
(あい)かまへて(あい)かまへて、自他(じた)生死(しょうじ)()らねども、御臨終(ごりんじゅう)のきざみ、生死(しょうじ)中間(ちゅうかん)に、日蓮(にちれん)かならずむかいにまいり(そうろう)べし」     
()かれております。     
 第五十九世日亨(にちこう)上人(しょうにん)はこの御文(ごもん)について、(かなら)ずしも、大聖人(だいしょうにん)(さま)死者(ししゃ)枕辺(まくらべ)()られなくとも、弟子(でし)である僧侶(そうりょ)代理(だいり)として出張(しゅっちょう) されることがこの()()たると、「(むか)(そう)」の(れい)をもって、解釈(かいしゃく)  されています。(聖訓(せいくん)(ひゃく)(だい)33(ぺーじ))もって形式(けいしき)一辺倒(いっぺんとう)世間(せけん)(かんが)(かた)(どう)じて、信心(しんじん)(うしな)(こと)のなきよう、()()けたいものです。   

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寺檀(じだん)和合(わごう)大切(たいせつ)(こと)=『化儀抄(けぎしょう)(だい)(じょう)に、亡者(もうじゃ)への引導(いんどう)回向(えこう)には、導師(どうし)たるもの(すこ)しも(わたくし)意志(いし)をはさむことなく、虚心(きょしん)坦懐(たんかい)に      読経(どきょう)唱題(しょうだい)して、妙法(みょうほう)功力(くりき)(まか)せる(こと)大切(たいせつ)である(むね)()かれています。しかし(あえ)()えば、普段(ふだん)から信徒(しんと)住職(じゅうしょく)(あいだ)(つよ)信頼(しんらい) 関係(かんけい)があることが、より(のぞ)ましいことは、()うまでもありません。      普段(ふだん)寺院(じいん)参詣(さんけい)しない(ひと)()くなり、葬儀(そうぎ)(もう)()みを()けて(はじ)   めて、その(ひと)存在(そんざい)()ったという(れい)もまゝありますが、導師(どうし)としての回向(えこう)(いささ)かも()わらずとも、即身(そくしん)成仏(じょうぶつ)(ねん)ずる大切(たいせつ)儀式(ぎしき)ゆえに、信心(しんじん)(とお)した日頃(ひごろ)からの寺檀(じだん)(まじ)わり、僧俗(そうぞく)()()い が大切(たいせつ)だと(おも)います。   

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地域(ちいき)風俗(ふうぞく)習慣(しゅうかん)・しきたりとの兼合(かねあい)い=葬儀(そうぎ)()わる風俗(ふうぞく)・  習慣(しゅうかん)迷信(めいしん)(たぐ)いも、土地(とち)々々(とち)様々(さまざま)なものがあります。 それ()のうちで、念仏(ねんぶつ)信仰(しんこう)(とう)関係(かんけい)あるものについては、謗法(ほうぼう)で すから(きび)しく(いまし)めなくてはなりません。また根拠(こんきょ)()迷信(めいしん)によって、無駄(むだ)なしきたりを()いたり、かえって家族(かぞく)負担(ふたん)をかける場合(ばあい)もありますが、それらを(のぞ)けば、あながち土地(とち)々々(とち)(つた)えられてきた習俗(しゅうぞく)(とう)無視(むし)してしまうことも()いと(おも)います。    
大聖人(だいしょうにん)(さま)御書(ごしょ)(なか)で、たとえば『持妙(じみょう)法華(ほっけ)問答(もんどう)(しょう)』(御書(ごしょ)297 (ぺーじ))に、
有為(うい)凡膚(ぼんぴ)無為(むい)(しょう)()(ちゃくし)ぬれば、三途(さんず)(おそ)れなく 八難(はちなん)(はばか)りなし」(とう)と、(あき)らかに死出(しで)(たび)をして、死者(ししゃ)黄泉(よみ)(くに)(おもむ)くという、世間(せけん)(かんが)えに(じゅん)じて、(ほう)()かれています。 法華経(ほけきょう)(おし)えからすれば即身(そくしん)成仏(じょうぶつ)であって、わざわざ()(たび)()ちをするわけではないのですが、その(ほう)理解(りかい)され(やす)いとして、このような表現(ひょうげん)をされたものと(はい)されます。これを(ずい)(ほう)毘尼(きび)法門(ほうもん)()い、謗法(ほうぼう)にならない(かぎ地域(ちいき)慣習(かんしゅう)(とう)(したが)(なか)で、正法(しょうぼう)(ひろ)めていくのも、布教(ふきょう)有効(ゆうこう)手段(しゅだん)です。 

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教学辞典1

n

教学用語

nnnn
ごんきょうあごんきょう
あかあか
悪業あくごうあくごう
悪道あくどうあくどう地獄餓鬼畜生悪道のこと。
ごんあごんじ
仙人せんにんあしせんにん
じゃおうあじゃせおう
阿修羅あしゅらあしゅらりたいという、境涯
あたえたまふあたえたまふ
あつわらあつわら
あつわらごうあつわらごう
あつわら法難ほうなんあつわらほうなん
りつあなりつ
なんあなん
にゃにょうじんにょあにゃにょうじんにょ
あまつさあまつさへ
安房あわくにあわのくに
あんらくぎょうぼんあんらくぎょうぼん
いかいかに
池上いけがみ相承そうじょうしょいけがみそうじょうしょ
池上いけがみむねなかいけがみむねなか
こんとうさんせついこんとうのさんせつ
石川いしかわまご三郎さぶろうよしただいしかわまごさぶろうよしただ
異常いじょう現象げんしょういじょうげんしょう
伊豆いずさん権現ごんげんいずさんごんげん
伊豆いずはいりゅういずはいりゅう
伊勢いせ神宮じんぐういせじんぐう
せついせつ
異体いたい異心いしんいたいいしん
異体いたい同心どうしんいたいどうしん
いちえんだいいちえんぶだい
一期いちごしょういちごしょう人間一生涯
いちだい因縁いんねんいちだいじいんねん
いちにちきょういちにちきょう
いち由旬ゆじゅんいちゆじゅん40里 一里は、3.3Km  3.3X40=132Km
いっこういっこう一説には、万年ともわれている。
一切いっさいいっさい
一切いっさいきょういっさいきょう
いっしんさんがんいっしんさんがん
一体いったいぶつぞうりゅういったいぶつぞうりゅう
にんしつだんいにんしつだん
いよいよ いよいよ 
いわいわん
因果いんがいんが
いんぎょうとくいんぎょうかとく
陰徳いんとく陽報ようほういんとくようほうていようがていまいが、よいことをなうものは、結果としてずよいことがえてわれってくることを「陰徳陽報」とう。(中国時代思想で『』の人間訓にでてくる。
うばり
運行うんこううんこう
永仁えいにんえいにん
疫病えきびょうえきびょう
閲覧えつらんえつらん
られるえられる
えんぎょうえんぎょう
えんどん止観しかんえんどんしかん
延命えんめいえんめい
おうくつおうくつまら悪人
奥州おうしゅう宮城県みやぎけんおうしゅう(みやぎけん)
おうじんにょらいおうじんにょらい
大井おおいきつろくおおいきつろく
大石おおいしはらおおいしがはら
おおかぜおおかぜ
おかさずおかさず
つるおつる
つぎ本尊ほんぞんおてつぎほんぞん
おもおもす
おんでんおんぎくでん
おんおんま
かいきょうかいきょう
かいごんじゅけんかいごんじゅけん
甲斐かいくにかいのくに
かいもくしょうかいもくしょう
過去かこかこ
さいかさい
鰍沢かじかざわかじかざわ
なん かじふうなん 
呵責かしゃくかしゃく非難する。りつけること。
呵責かしゃくかしゃくりつけてめること。
しょうそんじゃかしょうそんじゃ悪人
かずらかずら
せんねんかせんねん
じょうかびらえじょう
鎌倉かまくら幕府ばくふかまくらばくふ
かみてんじょうかんもんかみてんじょうかんもん
かんぎょうかんぎょう
かんぎょうそくかんぎょうそく
寛元かんげんかんげん
かんぼんかんじぼん
かんじんの本尊ほんぞんしょうかんじんのほんぞんしょう
かんおんさつもんぼんかんぜおんぼさつふもんぼん
感応かんのう道交どうこうかんのうどうこう
蒲原かんばらしょうないかんばらしょうない
かんげんさつぎょうほうきょうかんふげんぼさつぎょうほうきょう
がんぽんがんぽん
帰依きえきえ
飢饉ききんききん
飢饉ききんききん
こんきこん
季節きせつきせつ
ぼうきぼう
きょうきょう一般とは道理べる・論議する。仏教においては、えを「菩薩を「人師を「」とう。
境界きようがいきようがい
きょうぎょうしょうしょきょうぎょうしょうごしょ
きょうきょうけ
きょうせんきょうせん
きょうぜんきょうぜん
きょうぜんきょうぜん
きょうぜんきょうぜん
境地きょうちみょうごうきょうちみょうごう
教典きょうてんきょうてん
きょうまんきょうまん
ぎょうりきぎょうりき
きよすみてらきよすみてら
疑惑ぎわくぎわく
金言きんげんきんげん
久遠くおんがんじょくおんがんじょ
久遠くおんしゅくおんげしゅ
きょうくきょう
けんくけんうこと。
くしながら
愚痴ぐちぐち
づうぐづう
くにくにいてめる儀。
くにくにくにちから武力ぶりょくもちいてくにおさめる儀。
くになかたみ場合ばあいくにのなかがたみのばあい  ⇒たみ民衆みんしゅうりきゆうくにおさめる
くびくびのざ
熊野くまのくまの
けいけいが
軽重けいじゅうけいじゅう
けいぜんけいぜん
けう
しょうけぎしょう
ごんきょうけごんきょう
華厳けごんけごんじ
しゅげしゅ
しゅ結縁けちえんげしゅけちえん
しゅやくげしゅやく
じょうぼんけじょうゆぼん
せつげせつ
せんげせん
懈怠けたいけたい
たいけたい
解脱げだつげだつ
だつけんげだつけんご
けちみゃくそうじょうけちみゃくそうじょう
てんげてん
建治けんじけんじ
けんけんじ
けんじゅけんけんじゅけん
けんわくけんじわく
けんほうとうぼんけんほうとうぼん
けん謗法ほうぼうしょうけんほうぼうしょう
けんぽんけんぽん
けんもんけんもん
けんやくけんやく
五臓ごぞうごぞう肺臓心臓肝臓腎臓つの内蔵
ごうごう
弘安こうあんこうあん
高尚こうしょうこうしょう上品高尚趣味
ごうしょうごうしょう
こうせん流布るふこうせんるふ
広大こうだいじんのんこうだいじんのん
弘長こうちょうこうちょう
ごうごうま
かいごかい
ぎゃくざいごぎゃくざい
くぅこくぅえ
ごくそつごくそつ地獄ちた罪人めるという
ごくぼんのうごくぼんのう
穀物こくもつこくもつ
御供養ごくようごくよう
どうごけどう
けんこけん
げんごげん
じゅうごじゅうにい
しゅほっごしゅほっし
挙処こしょこしょそのげて指弾すること。
御書ごしょごしょ
後生ごしょうごしょう
五濁ごじょく悪世あくせいごじょくあくせい
後世ごせごせ未来まれるべき世界のことで、後生ともいう。
国家こっかかんぎょうこっかかんぎょう
こつこつき
でんだいごでんどだい
事柄ことがらことがら
ごとごとく
五人ごにんしょしょうごにんしょはしょう
ひゃくじんでんごうごひゃくじんでんごう
ひゃくじゅほんごひゃくでしじゅきほん
ほんぶつごほんぶつ
小松原こまつばら法難ほうなんこまつばらのほうなん
ごみ
よくごよく
これこれ
こんこんじ
今生こんじょうこんじょう
こんせつこんせつ
こんぜんこんぜん
こんぜんこんぜん
根本こんぽんこんぽん
根本こんぽんそうすうこんぽんそうすう
建立こんりゅうこんりゅう
さいしょうさいしょう
在世ざいせ結縁けちえんざいせけちえん
さいだんさいだん
さいれんぼう返事へんじさいれんぼうごへんじ
さいわいさいわい
しんさしん
座主ざすざす
佐渡さどさど
どのくに法華ほっけこうしゅう返事へんじさどのくにほっけこうしゅうごへんじ
さとさとり
さぶ軽視し、ばかにすること。
さんいんぶつしょうさんいんぶつしょう
参詣さんけいさんけい
さんさいしちなんさんさいしちなん
燦然さんぜんさんぜん
さんぜんじんでんごうさんぜんじんでんごう
さんたいさんたい
三道さんどうさんどう
さんとくさんとく
さんわくさんわく
阿羅漢あらかんしあらかん
かいほんぎゃくなんじかいほんぎゃくなん
しきしんさんごうしきしんさんごう言葉行動
四苦しく八苦はっくしくはっく
身中しんちゅうむししししんちゅうのむし
死者ししゃししゃ
じょうしょうかくしじょうしょうかく
しん弘法ぐほうししんぐほう
しんほんしょうししんごほんしょう
じつじょういちぜんじつじょうのいちぜん
しつぜんしつぜん
しつぜんしつぜん
実相じっそうじっそうじ
しったるしったるた
しど
指南しなんしなん
自然じねんじねん
しぶ
しま
しも
下山しもやま消息しょうそくしもやまごしょうそく
しゃこくしゃえこく
写経しゃきょうしゃきょう
しゃくしゃく一般とは道理べる・論議する。仏教においては、えを「菩薩を「人師を「」とう。
しゃくしんしゃくしん
釈尊しゃくそんしゃくそん
しゃくもんしゃくもん
迹門しゃくもんしゃくもん
じゃくよくじゃくよく
じゃけんじゃけん
じゃ宗教しゅうきょうじゃしゅうきょう
しゃっしゃっけ
舎利しゃりほつしゃりほつ
じゅじゅ
じゆ
重罪じゅうざいじゅうざい
しゅうしたしゅうした
じゅうぜんかいじゅうぜんかい
じゅうそうじゅうそう
じゅうじゅっほんじゅうちゆじゅっほん
じゅうにょ実相じっそうじゅうにょじっそう
じゅうはっかいじゅうはっかい
じゅがくがくにんほんじゅがくむがくにんきほん
じゅぼんじゅきぼん
修行しゅぎょうしゅぎょう
じゅくじゅくし
じゅくやくじゅくやく
種子しゅししゅし
じゅじゅじ
じゅそく観心かんじんじゅじそくかんじん
しゅじゅくだつしゅじゅくだつ
しゅじゅくだつさんやくしゅじゅくだつのさんやく
衆生しゅじょうしゅじょう
じゅだいしょじゅだいぶごしょ
しゅっしゅっけ
述作じゅっさくじゅっさく
出処しゅっしょしゅっしょ
しゅったいしゅったい
菩薩ぼさつじゆのぼさつ
しゅだいしゅぼだい
しゅしゅゆ
主要しゅようしゅよう
寿じゅりょうけんぽんじゅりょうけんぽん
寿じゅりょうほんじゅりょうほん
しょうあん大師だいししょうあんだいし
しょういんようじゅしょういんようじゅ
正応しょうおうしょうおう
貞応じょうおうじょうおう
正嘉しょうかしょうか
障害しょうがいしょうがい
生涯しょうがいしょうがい
じょうぎょう菩薩ぼさつじょうぎょうぼさつ
しょう問答もんどうしょうしょうぐもんどうしょう
正慶しょうけいしょうけい
荘厳しょうごんしょうごん
生死しょうじ一大事いちだいじけちみゃくしょうしょうじいちだいじけちみゃくしょう
じょうしゃじょうしゃ
成就じょうじゅじょうじゅ
調じょうじゅくじょうじゅく
精進しょうじんしょうじん
しょうぞうしょうぞう
成道じょうどうじょうどう
じょうきょうさつぼんじょうふきょうぼさつぼん
成仏じょうぶつとくだつじょうぶつとくだつ
しょうほうだいしょうほうじだい
しょう法華ほっけ題目だいもくしょうしょうほっけだいもくしょう
しょうみょうしょうみょう
しょかいしょかい受動のことできかけられるす。
濁水じょくすいじょくすい
所化しょけしょけ修行の位)
書写しょしゃしょしゃ
書写しょしゃしょしゃ
しょしょは
じょぼんじょぼん
しょゆうしょゆう
しんしんぎ
しんぼんしんげぼん
しんけんしんけん
しんごん見聞けんもんしんごんけんもん
真実しんじつしんじつ
じんじゃじんじゃ
神社じんじゃ参詣さんけいじんじゃさんけい
じんじゃわくじんじゃわく
しんじゅしんじゅ
信心しんじんしんじん
瞋恚しんにしんに
じんのんじんのん
信伏しんぷく随従ずいじゅうしんぷくずいじゅう
信伏しんぷく随従ずいじゅうしんぷくずいじゅう
しんりきしんりき
侵略しんりゃくしんりゃく
しんろくそうしんろくそう
ずいどくほんずいきくどくほん
すいさいすいさい
彗星すいせいすいせい
すいぶつしんけつすいぶつしんけつ
けんずけん
だつ長者ちょうじゃすだつちょうじゃ
星宿せいしゅくへんなんせいしゅくへんげなん
清浄せいじょうせいじょう
生長せいちょうせいちょう
清澄せいちょうせいちょうじ
せいりきせいりき
世界せかいしつだんせかいしつだん
しょうぼうれんちょうぜしょうぼうれんちょう
浅識せんしきせんしき
せんしょうせんじしょう
ぜんじょうけんぜんじょうけんご
浅深せんじんせんじん
戦争せんそうのこと。せんそうのこと。
せんせんだら
ぜんしきぜんちしき
善智識ぜんちしきぜんちしき
ぜんにち麿まろぜんにちまろ
相似そうじそくそうじそく
相承そうじょうそうじょう
ぞうぜんぞうぜん
ぞうぜんぞうぜん
僧俗そうぞく和合わごうそうぞくわごう
そうでんそうでん
ぞうほうぞうほうじ
ぞうほうだいぞうほうじだい
草木そうもく成仏じょうぶつそうもくじょうぶつ
息災そくさいそくさい
即身成仏そくしんじょうぶつそくしんじょうぶつ
即身成仏そくしんじょうぶつそくしんじょうぶつ
即身成仏そくしんじょうぶつそくしんじょうぶつ
ぞくるいぼんぞくるいぼん
そしそしり
だいいちしつだんだいいちぎしつだん
退たいたいじ
退治たいじたいじ
たいしつだんたいじしつだん
だいしつきょうだいしつきょう
大聖人だいしょうにんだいしょうにん
大石寺だいせきじだいせきじ
代々だいだいだいだい
だいつうしゅだいつうげしゅ
だいつうふっこうだいつうふっこう
退転たいてんたいてん
だいだっだいばだった
だいだっぼんだいばだったぼん
太陽たいようたいよう
たくたいたくたい
他国たこくたこく
こくしんぴつなんたこくしんぴつなん
たしたしか
ぞうとうけんたぞうとうじけんご
だつちゃくだつちゃく
たつくちたつのくち
打破だはだは
ぼんだらにぼん
だんだんか
団結だんけつだんけつ
竹林ちくりん精舎しょうじゃちくりんしょうじゃ
聴聞ちょうもんちょうもん
聴聞ちょうもんちょうもん
つたつた
弟子でしぶん本尊ほんぞん目録もくろくでしぶんほんぞんもくろく
でん概略がいりゃくでんがいりゃく
天候てんこう異変いへんてんこういへん
天照てんしょうこうたい神宮じんぐうきょうてんしょうこうたいじんぐうきょう
伝染病でんせんびょうでんせんびょう
伝染病でんせんびょうでんせんびょう
てんそんてんそん
てんだいしゅうてんだいしゅう
天台宗てんだいしゅう四十九しじゅうくいんてんだいしゅうしじゅうくいん
てんだい大師だいしてんだいだいし
伝教でんきょうだいでんきょうだいし日本天台宗開祖最澄のこと。
天台てんだい大師だいしてんだいだいし
てんぽうりんてんぽうりん
天理てんりきょうてんりきょう
どうごうどうごう
踏襲とうしゅうとうしゅう
とうじょうけんとうじょうけんご
同心どうしんどうしん
とうせつとうせつ
道理どうりどうり
じょうにんとぎじょうにん
どくどく
どくどく
どくじゅどくじゅ
どくじゅもんけんどくじゅたもんけんご
そつてんとそつてん
とんじんとん・じん・ち三毒
どんじんどんじんち
とんよくとんよく
内証ないしょうないしょう
なんなんだ
にいいけしょにいいけごしょ
そうじょうにかそうじょう
日向にこうにこう
にごにごり
しょにしょ
ぜんきょうにぜんきょう
にち上人しょうにんにちうしょうにん
にちがつはくしょくなんにちがつはくしょくなん
にちかん上人しょうにんにちかんしょうにん
にちごうにちごう
日持にちじにちじ
にちじょにちじょ
にちじょうにちじょう
にちぜんにちぜん
にちどうにちどう
にちみょうにちみょう
にちもくにちもく
にちもく上人しょうにんにちもくしょうにん
日秀にちゆうにちゆう
にちにちよ
日蓮にちれん一期いちごほう付属ふぞくしょにちれんいちごぐほうふぞくしょ
日蓮にちれん大聖人だいしょうにんにちれんだいしょうにん
日蓮にちれん大聖人だいしょうにんにちれんだいしょうにん
日朗にちろうにちろう
にっにっけ
日興にっこうあと条々じょうじょうのことにっこうあとじょうじょうのこと
日興にっこうあと条々じょうじょうのごとにっこうあとじょうじょうのごと
にっこう上人しょうにんにっこうしょうにん
日興にっこうゆいかいおきもんにっこうゆいかいおきもん
日興にっこうゆいかいおきもんにっこうゆいかいおきもん
日昭にっしょうにっしょう
にっせんにっせん
新田家にったけにったけ
にっちょうにっちょう
日頂にっちょうにっちょう
にゅう涅槃ねはんにゅうねはん
入滅にゅうめつにゅうめつ
入滅にゅうめつにゅうめつご
如法にょほうきょうにょほうきょう
にょらい寿じゅりょうほんにょらいじゅりょうほん
にょらいじんりきほんにょらいじんりきほん
にょらいめつにょらいめつご
にんかいにんかいつ。人間界のこと。
にんじゅしつえきなんにんじゅしつえきなん
にんのうきょうにんのうきょう
にんぽういっにんぽういっか
にんぽうたいいつにんぽうたいいつ
にん本尊ほんぞんかいげんにんほんぞんかいげん
念仏ねんぶつ道場どうじょう建立こんりゅうねんぶつどうじょうこんりゅう
のうかいのうかいは、能動ということできかけるということ。
能化のうけのうけ僧侶・(
さねながはぎいさねなが
箱根はこね権現ごんげんはこねごんげん
のくおうはしのくおう
しゃく屈服くっぷくはしゃくくっぷく
はっそうさくふつはっそうさくふつ
蔓延はびこはびこる
はら殿どの返事へんじはらどのごへんじ
和合わごうそうはわごうそう
般若はんにゃはんにゃ
はんにゃはんにゃじ
彼岸ひがんひがんえ
ふうなんひじふううなん
誹謗ひぼうひぼう
びゃくほうおんもつびゃくほうおんもつ
ぼんひゆぼん
ひょうかくひょうかく
びんびんぐ
顰蹙ひんしゅくひんしゅく
ひんしゃおうひんずしゃらおう
びんしゃおうびんばしゃらおう
ふうさいふうさい
かいふかい
福士ふくしとう供養くようふくしのとうくよう
ふげ
けんさつかんはつぼんふけんぼさつかんはつぼん
不作ふさくふさく
富士ふじいっせきもん存知ぞんじのごとふじいっせきもんとぞんじのごと
富士ふじいっせきもん存知ぞんちのことふじいっせきもんとぞんちのこと
富士ふじ上方かみがた河合かわいふじかみがたかわい
富士山ふじさんふじさん
富士ふじもんちゅうけんもんふじもんけちゅうけんもん
じょうふじょう
不信ふしんふしん
仏界ぶっかいそくかいぶっかいそくくかい
仏事ぶつじ作善さぜんぶつじさぜん葬儀法要など
ぶつしゅぶつしゅ
ぶつ知見ちけん  ぶつちけん  
ぶっぽうぶっぽう
ぶっぽうそうぶっぽうそう
ぶつりきぶつりき
ふるな
文応ぶんおうぶんおう
ぶんしんそくぶんしんそく
ぶんねいぶんねい
ふんのうふんのう
ぶんべつどくほんぶんべつくどくほん
へいのもんのじょうよりつなへいのさえもんのじょうよりつな
へんけんへんけん
辺鄙へんぴへんぴ
ほうおんしょうほうおんしょう
伯耆ほうきぼうほうきぼう
ぼうぎゃくぼうぎゃく
ほうどくほんほうしくどくほん
ほうしょうほうしょう
北条ほうじょう時頼ときよりほうじょうときより
ほうどうほうどうじ
ほうなんほうなん
暴風ぼうふうぼうふうう
ほう便べんぼんほうべんぼん
ほうぼうほうぼう
謗法ほうぼうほうぼう
謗法ほうぼう厳戒げんかいほうぼうげんかい
ほう本尊ほんぞんかいげんほうほんぞんかいげん
ほうりきほうりき
ほうりきほうりき
きょうほけきょう
さつぼさつ
菩提樹ぼだいじゅぼだいじゅ
ほっげんほっけげんぎ
法華ほっけこうしゅうほっけこうしゅう
ほっ三大さんだいほっけさんだいぶ
ほっしゅようしょうほっけしゅようしょう
ほっ涅槃ねはんほっけねはんじ
ほっもんほっけもんぐ
法華ほっけもんほっけもんぐき
ほっぼんほっしぼん
ほっしんほっしん
ほっ上人しょうにんほっすしょうにん
ほんかいほんかい
ほんみょうほんかみょう
ほん感応かんのうみょうほんかんのうみょう
本義ほんぎほんぎ
本家ほんけほんけ
ほん眷属けんぞくみょうほんけんぞくみょう
ほん国土こくどみょうほんこくどみょう
ほんじゃく一致いっちほんじゃくいっち
ほん寿命じゅみょうみょうほんじゅみょうみょう
ほん神通じんつうみょうほんじんつうみょう
ほんせつほうみょうほんせつほうみょう
本尊ほんぞんほんぞん
本尊ほんぞん問答もんどうしょうほんぞんもんどうしょう
ほん弟子でしほんでし
ほんにんみょうほんにんみょう
ほんそんぎょうほんぬそんぎょう
ほん涅槃ねはんみょうほんねはんみょう
煩悩ぼんのうぼんのう
煩悩ぼんのうしょうぼんのうしょう
煩悩ぼんのうぼんのうま
ほんぜんほんみうぜん
本門ほんもん戒壇かいだんほんもんかいだん
本門ほんもん題目だいもくほんもんのだいもく
本来ほんらいそんじゅうほんらいそんじゅう
ほん利益りやくみょうほんりやくみょう
ほんろくろうそうほんろくろうそう
しょうまかかしょう
かんまかしかん
こくまかだこく
じゃだいまかはじゃはだい
松葉まつばやつまつばがやつ
まっぽうまっぽう
じんまやふじん
にんまやぶにん
みずかみずから
身延みのぶみのぶ
身延みのぶさん付属ふぞくしょみのぶさんふぞくしょ
身延みのぶ相承そうじょうしょみのぶそうじょうしょ
美作みまさかぼう返事へんじみまさかぼうごへんじ
みょうおんさつぼんみょうおんぼさつぼん
みょうそくみょうじそく
みょうそうごんおうほんぼんみょうそうごんおうほんじぼん
みょうほう曼荼羅まんだら御本尊ごほんぞんみょうほうまんだらごほんぞんる
みょうやくみょうやく
みょうらく大師だいしみょうらくだいし
無碍むげ自在じざいむげじざい
無常むじょうむじょう世間一切万法消滅して、しも状態にとどまらないこと。
無上むじょうほうじゅむじょうほうじゅ
みょうむみょう
みょうわくむみょうわく
りょうきょうむりょうぎきょう
めっめっご
蒙古もうこ襲来しゅうらいもうこしゅうらい
もうしじょうもうしじょう
もくけんれんもくけんれん
門弟もんていもんてい
もんていほんにんしゅもんていほんにんげしゅ
もんていほんにんみょうもんていほんにんみょう
蚊虻もんもうもんもうあぶ・か
やくおうさつほんぼんやくおうぼさつほんじぼん
薬師やくしきょうやくしきょう
やくそうぼんやくそうゆぼん
疫病やくびょうやくびょう
しゅやしゅだら
やぶやぶる
由比ゆいゆいけ
じゅっぽんゆじゅっぽん
ゆずゆずり
要諦ようていようてい
幼名ようみょうようみょう子供名前
予言よげんよげん
同罪どうざいよどうざい
らごら釈尊
力用りきゆうりきゆう
りく
そくりそく
りっしょうあんこくろんりっしょうあんこくろん
立正りっしょう安国論あんこくろんりっしょうあんこくろん
やくりやく
流行りゅうこうびょうりゅうこうびょう
流星りゅうせいりゅうせい
りゅうせんりゅうせんじ
りょうぼう久住くじゅうりょうぼうくじゅう
れいほうじゅうれいほうくじゅう
螻蟻ろうぎろうぎ・あり
ろうろうぎ
ろくそくろくそく
ろくなんろくなんくい
ろくまんごうしゃろくまんごうがしゃ
ろっかんしょうろっかんしょう
ろんろん一般とは道理べる・論議する。仏教においては、えを「菩薩を「人師を「」とう。
和合わごうそうだんわごうそうだん
しょうねつしょうねつ
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所作仏事(本宗化儀の理解のために)

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戒名・位牌・葬儀後の回向

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正宗葬儀の心構え

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通夜・葬式までの準備

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通夜・葬式

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墓について

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  • 母の1回忌 2024年11月28日
    27日は母の1回忌で兄弟が揃い、お寺にて追善供養をして頂きました。正法で追善供養ができること、誠に有難いことと […]
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  • 残暑見舞い 2024年9月8日
    残暑お見舞い申し上げます。 立秋は過ぎましたが暑い日が続きます。 お体をご自愛ください。

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和歌山県田辺市の在住、日蓮正宗法華講員です。
宝相寺支部所属。宝相寺は日蓮正宗総本山大石寺の末寺です。人生の悩みなど正しい仏法で乗り越えていきましょう。
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