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法華経について㉘
法華経について(全34)
28大白法 平成28年7月1日刊(第936号)より転載
『薬王菩薩本事品第二十三』
当品の説処について
今回学ぶ『薬王菩薩本事品第二十三』から『妙荘厳王本事品第二十七』までの五品は、本門流通分、付嘱流通中の化他流通に当たります。
法華経は、一部八巻二十八品からなりますが、初めの『序品第一』から『法師品第十』までは王舎城近くの霊鷲山で法を説かれたので霊山会と言います。
次に、『見宝塔品第十一』から前回の『嘱累品第二十二』までの十二品は、霊鷲山の遥か上空の虚空で説かれたので虚空会。
そして今回の『薬王菩薩本事品第二+三』から『普賢菩薩勧発品第二十八』までの六品は、再び霊鷲山に戻って説かれるので霊山会と言い、これを二処三会と言います。
前回の『嘱累品』において、釈尊は法華経の総付嘱を終えると、十方より来集した分身の諸仏を、その各々の本土に帰らせようとして、「仏たちは、それぞれ安楽にして随意になされよ。多宝如来の塔は、再び元の通りになされよ」と述べられました。そして虚空会に留まっていた多宝如来の宝塔の扉が閉じられました。そして釈尊自身も空中の多宝如来の宝塔から霊鷲山の上に降りられました。こうして虚空会の儀式を終えられ、再び霊鷲山の会座の場所へと戻られたのです。ここから、今回の『薬王菩薩本事品第二十三』の説法が始まります。
当品の大意
当品では、薬王菩薩の本事(注1)を明かして、法華経を身をもって実践することを勧奨し、さらに法華経受持の功徳を説き、法華経の流通を促しています。
注1……本事 「本」とは、本地や本生などのように大本の意。「事」は実際の行為や出来事、修行の意
薬王菩薩の本事について
当品は初めに、宿王華菩薩が釈尊に対して、薬王菩薩の本事を問うところから始まります。
薬王菩薩は、遥か昔、日月浄明徳仏の弟子で、名を一切衆生憙見菩薩と言いました。日月浄明徳仏のもとで法華経を学んで長い間精進し「現一切色身三昧」を体得しました。これは、相手に応じて自在に姿を現わして法を説くことができる三昧(精神統一の力)です。
一切衆生憙見菩薩は、法華経によって得た三昧の力で、様々な華や香水を降らして仏を供養しましたが、身をもって供養するほうが勝っていると考え、千二百年もの間、香油を飲み、体中に香油を注いで自らの身を燃やし、日月浄明徳仏を供養したのです。その光明は、ガンジス河の砂の数の八十万億倍の世界をくまなく照らしました。
その焼身供養の姿に、諸の仏たちは皆一同に、
「善哉善哉、善男子、是れ真の精進なり。是を真の法をもって如来を供養すと名づく」(法華経 五二六㌻)
と言って讃嘆しました。
そして一切衆生憙見菩薩は千二百年もの間、体を燃やし続け、ついに燃え尽(つ)きたのです。
諸仏が一同に薬王菩薩の焼身供養を讃嘆(諸仏同讃)して述べられた句に関連する話として、天台大師が師である南岳慧思のもと、大蘇山において法華経を修行していたとき、この句に至って悟りを開かれたと伝えられています。これを大蘇開悟と言い、これにより天台大師は、薬王菩薩の後身と言われるようになりました。
再度の焼身供養
千二百年もの間焼身供養し命終した一切衆生憙見菩薩は、再び日月浄明徳仏が在す国土の浄徳王の家に、結跏趺坐したままの姿で、即座に化生(注2)したのです。そしてまた、仏のもとへ詣でて礼拝供養しました。この時、仏は「私は今夜入滅するであろう。私は今、仏法及び遺品のすべてと我が舎利を汝に付嘱するから、汝は仏法を流布し、塔を建てて供養せよ」と告げ、間もなく入滅されました。一切衆生憙見菩薩は嘆き悲しみ、栴檀の薪で火葬供養し、舎利を収集して八万四千もの塔を建立しましたが、それでも飽き足らず、その塔の前で自身の臂を焼いて、七万二千年もの間供養したのです。
人々は、菩薩の臂が燃えてなくなったことに悲しみましたが、菩薩は「私は、臂を焼いた功徳により、必ず仏の金色の身を得るのだ。それが真実であるならば、我が両臂は元通りとなろう」と誓いを立てると、菩薩の福徳によって、たちまち元通りとなり、宇宙法界が振動して天から華が降り、すべての人々は心から感激したのです。
注2……化生 四生〈卵生・胎生・湿生・化生〉の一つで、忽然とよりどころなくして生ずる意味と、衆生を救うために、神通力によって種々に形を変えて生まれる意味がある
法華経弘通の功徳と広宣流布の大法
このように、一切衆生憙見菩薩の故事を明かされてから、釈尊は宿王華菩薩に言いました。
「この菩薩こそ薬王菩薩その人である。身を捨てて法華経を供養する功徳は、このように無量である。もし仏の悟りを得ようとするならば、よく手足の指一本でも灯して仏の塔を供養しなさい。それは全世界の国土や宮殿・宝物を供養するより、遥かに勝れている。また、全世界を七宝で満たして仏に供養するほどの功徳であっても、この法華経の一偈一句を受持する功徳には及ばない」
そこで釈尊は、宿王華菩薩に対して、法華経が諸経において最も勝れていることを十の譬え(十種の称揚※図表参照)をもって説き明かされました。
続いて釈尊は、「宿王華よ、法華経は一切衆生を、あらゆる苦しみから救い、楽を与える経典である。この法華経は一切の生死の苦しみを解くのである」と述べられ、法華経の功能を十二の譬え(※図表参照)をもって示されました。
そして、「もし、この法華経を聞くことを得て、自らも信行し、他をも勧めるならば、その人の得るところの功徳は、仏の智慧をもってしても計ることはできない」と、法華経弘通の功徳を明かされました。
さらに釈尊は、続けて次のように説かれました。
「宿王華よ、この『薬王菩薩本事品』を汝に付嘱す。汝は、法華経を仏の入滅の後の、後の五百歳すなわち末法の時代に、この娑婆世界に広宣流布させて、けっして断絶させるようなことがあってはならない。たとえ悪魔や魔民・夜叉等がこれを破ろうとしても、汝は神通力をもって、この法華経を守護すべきである。なぜなら、この法華経は全世界の人々の病を癒やす良薬だからである。もし、病のある人がこの経を聞いたならば、たちまちに病は消滅して不老不死となるであろう」
この法華経つまり本因下種の妙法は、末法において、必ず広宣流布すべき大法であるということが示されました。このため、宿王華菩薩は、悪魔・魔民等が便りを得て、妙法流布を阻害することのないよう、『薬王品』の付嘱を受けているのです。これは、宿王華菩薩が末法に出現して妙法を弘めるということではなく、妙法と、妙法を受持信行し弘通する私たちを必ず守護するということです。
そして、この妙法は一切衆生の病の良薬であり、この妙法によって、私たちのすべての病が消滅し、不老不死という尊い常住の仏としての生命が得られるとされています。この時、八万四千の菩薩が解一切衆生語言陀羅尼(一切衆生の言葉を理解し記憶する能力)を得たので、多宝如来は宝塔の中より、宿王華菩薩の質問の功を愛でたのでした。
以上で、『薬王菩薩本事品』は終了いたします。
御法主日如上人猊下は、平成二十六年十一月度の広布唱題会の砌、『薬王菩薩本事品』の、
「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん」(法華経 五三九㌻)
の経文を引かれて、次のように御指南されています。
「すなわち、広宣流布は必ず達成すると仰せでありますが、しかし、広宣流布は我々の努力なしでは達成することはできません。
そこに今、我々が大聖人様の弟子檀那として、一切衆生救済の慈悲行である折伏をなすべき大事な使命があり、責務が存していることを知らなければなりません。そして、その使命と責務を果たしていくところに、我ら自身もまた広大なる御仏智を被り、計り知れない大きな功徳を享受することができるのであります」(大白法 八九七号)
今、私たちは平成三十三年の法華講員八十万人体勢構築をめざして、毎年の支部折伏誓願目標を完遂すべく日夜、折伏行に邁進しています。どのような障魔が競い起ころうとも、御指南の通りに自行化他の信心に励んでいれば、仏菩薩、諸天の守護を得て、広大無辺なる功徳を享受できることを確信し、さらに精進してまいりましょう。
法華経について㉗
法華経について(全34)
27大白法 平成28年6月1日刊(第934号)より転載
『嘱累品第二十二』
当品は本門流通分の付嘱流通のうち、先の『如来神力品第二十一』と共に嘱累流通に当たります。
先の『神力品』では、釈尊から地涌の菩薩に「四句の要法」の付嘱がなされ、滅後末法の弘通が託されました。
当品では続いて、すべての菩薩たちへの付嘱が説かれます。
摩頂付嘱
釈尊は、虚空における多宝塔の説法の座より立ち上がって出で、再び大いなる神通力をもって、右の手ですべての菩薩の頭をなでられました。
そして、次のように述べられました。
「私釈尊は、無量の数え切れないほどの長い年月にわたって、得難い無上の悟りである妙法を習い修行をして、体得してきたのである。そして、今、この大法をすべての菩薩に付嘱しよう。そなたたちは、一心にこの法華経を流布して、広く世の人々を利益していきなさい」
このようにして、釈尊は三度にわたって一切の菩薩たちの頭をなでて、繰り返して、「私釈尊は、無量の数え切れないほどの長い年月にわたって、得難い無上の悟りである妙法を習い修行をして、体得してきたのである。そして、今、この大法をすべての菩薩に付嘱しよう。そなたたちは、この法華経を受持し、読誦し、広く流布して、一切の衆生に聞かせて理解させ修行なさしめなさい」
と述べ、続いて、次のように説かれました。
「その訳は、仏は大きな慈悲を持って、何事も物惜しみすることなく、また畏れはばかるところなく、人々に仏のすべての智慧を与えることができるのである。故に、仏は一切の衆生にとって法を施してくれる大施主であり、そなたたちも仏にしたがって妙法を学び、信受して、けっして物惜しみの心を生じてはならないのである。未来世において、男性であれ女性であれ、もしこの円満なる仏の智慧を信受しようという者がいたならば、まさにその人が仏の智慧を得ることができるように、この法華経を説き聞かせなさい。しかし、もし信受しようとしない者がいたならば、まず法華経に至る前の段階に当たる深い教えを説き聞かせて、その者らを教化して利益を与え、歓喜の気持ちを起こさせるところから始めなさい。このように法華経を弘通するならば、すなわちそれが諸の仏の恩を報ずることになるのである」
この釈尊の御言葉を聞いた菩薩たちは、大いに歓び、ますます仏を敬って深く礼拝して頭を下げ、合掌して声を揃えて次のように申し上げました。
「釈尊の勅の通りに実行いたしましょう。ですので、御心配なさらないでください」
諸の菩薩は、同じ言葉を三度申し述べました。
そして、付嘱を終えた釈尊は、十方の世界より集まった自らの分身の仏を、それぞれの本土に帰らせるために、
「諸の仏たちよ。もとの国土に戻り、安らかになされよ。また多宝如来の宝塔は閉じて、元のようになしたまえ」
と仰せられました。
この御言葉を聞いた宝樹の下にいた分身の諸仏や多宝仏、また上行菩薩をはじめとする無数の菩薩たち、舎利弗らの声聞衆に諸天や阿修羅たちは、皆大いに歓喜の心を起こし、当品の説法は終わります。
総別の付嘱と三時弘経の次第
当品の付嘱は『宝塔品』の、
「仏此の妙法華経を以て付属して在ること有らしめんと欲す」(法華経 三四七㌻)
の通命に対する付嘱であり、地涌の菩薩のみではなく一切の菩薩に、釈尊滅後の弘教を付嘱されたことから総付嘱と言います。
この総付嘱について、大聖人は『曽谷入道殿許御書』に、
「釈尊、然後正像二千年の衆生の為に、宝塔より出でて虚空に住立し、右の手を以て文殊・観音・梵・帝・日・月・四天等の頂を摩でて、是くの如く三反して法華経の要よりの外の広略二門、並びに前後一代の一切経を此等の大士に付嘱す。正像二千年の機の為なり」(御書 七八五㌻)
と仰せられています。この御金言を拝して、別付嘱と対比しつつ、教・機・時の三つから説明します。
まず教について、法華経を広略要の観点から拝しますと、広の法華経とは一部八巻二十八品を言い、略の法華経とは『方便品』と『寿量品』の二品のことを言います。これに対し、要の法華経とは題目の南無妙法蓮華経のことです。
この広略要を種熟脱の三益と総別の付嘱から見れば、広略の法華経は熟脱の仏法であり、当品で総付嘱し、要の法華経は文底下種の仏法として上行菩薩に結要付嘱(別付嘱)されました。
次に機と時からみれば、釈尊の滅後は正法・像法・末法の三つの時代があります。
このうち正像二千年は総付嘱された法華経弘通の時代となり、末法は別付嘱の法華経の時代となります。
つまり、正像二千年の衆生は既に過去に下種を受けた本已有善の衆生であるため、総付嘱にしたがって、広略の熟脱の法華経が弘められました。
それに対し、末法の衆生は未だ過去に下種結縁を受けたことのない本未有善の衆生であるため、別付嘱にしたがって地涌上行菩薩が出現して、要の法華経である文底下種の南無妙法蓮華経を弘められる時代なのです。
この末法出現の上行菩薩とは、正しく宗祖日蓮大聖人の御事であります。さらに本宗の御相伝によれば、ここに外用は上行菩薩、内証は久遠元初の自受用報身如来であられることが拝されるのです。
こうした付嘱にしたがって、正像時代には迹化薬王菩薩の再誕である天台大師や伝教大師が現われて、広略の法華経を弘められました。
そして、日蓮大聖人は、末法時代に御出現されて結要付嘱の要法を三大秘法として御建立されたのです。
五老僧の異解
ところが大聖人の弟子檀那の中で、この立て分けを正確に理解されたのは、日興上人とその門流だけでした。
そのために五老僧の申状では、それぞれが「天台の沙門」や「天台法華宗の沙門」と名乗り、大聖人は「天台の余流を酌」むなどと述べているのです。
それに対して日興上人は、
「夫日蓮聖人は忝くも上行菩薩の再誕にして本門弘通の大権なり(中略)今末法に入っては上行出世の境、本門流布の時なり。正像已に過ぐ、何ぞ爾前迹門を以て強ひて御帰依有るべけんや。就中天台伝教は像法の時に当たって演説し、日蓮聖人は末法の代を迎へて恢弘す、彼は薬王の後身此は上行の再誕なり、経文に載する所、解釈炳焉たる者なり(中略)何ぞ地涌の菩薩を指して苟しくも天台の末弟と称せんや」(同 一八七六㌻)
と、末法の今時は結要付嘱を受けた上行菩薩の再誕である大聖人が、寿量文底秘沈の大法である南無妙法蓮華経を弘められる時であり、天台大師・伝教大師は総付嘱を受けた薬王菩薩の後身として、文上熟脱の法華経を弘めたのであると明確に示されています。
日興上人は、このように天台・伝教と大聖人の立場が異なることを奏上され、五老僧の誤った考えを厳しく指摘されております。
私たちは、法華経の総別の付嘱と正・像・末の三時における弘経の次第をしっかりと学び、大聖人より連綿と血脈を御相承された御法主上人猊下の御指南を根本に、信心修行に励んでまいらねばなりません。
さあ、平成三十三年の御命題成就をめざして、折伏に邁進していきましょう。
法華経について㉖
法華経について(全34)
26大白法 平成28年5月1日刊(第932号)より転載
『如来神力品第二十一』
今回は、『如来神力品第二十一』について学んでいきます。
題号の「如来神力」とは、釈尊が滅後の弘通を付嘱するために、十種の神力を現じたことに由来します。
本門流通分のうち、『分別功徳品第十七』の後半から前回学んだ『常不軽菩薩品第二十』までは、釈尊により、功徳流通として滅後末法の信心修行の因果の功徳が説かれ、さらに過去の常不軽菩薩の故事が明かされました。
『如来神力品』以降の八品では、嘱累・化他・自行に約して付嘱流通が説かれます。その中でも当品と『嘱累品』は、嘱累流通に配当されます。
如来の神力
これまでに滅後流通の功徳と信毀罪福の大なることを聴聞した地涌の菩薩たちは、当品の冒頭において、皆揃って釈尊の前に進み出ます。そして、一心に合掌礼拝して次のように申し上げました。
「私たちは、仏の滅後、娑婆世界はもとより、分身の諸仏の滅度の国土においても、広く妙法を弘通いたします。なぜならば、私たち自身も真に清浄な大法を得て、受持・読・誦・解説・書写して供養したいからであります(趣意)」(法華経 五〇九㌻)
すると釈尊は、文殊師利菩薩をはじめとする無量百千万億の娑婆世界に住する一切衆生の前で、大神力を顕わされました。
この神力は次の十種です。
①吐舌相―広長舌を出して上梵世に至らせる
②通身放光―身体中の一切の毛孔(毛穴)から無量無数色の光を放ち、遍く十方世界を照らす
③一時謦欬―広長舌を摂めて一時に咳払いをする
④倶共弾指―諸菩薩が弾指する
⑤地六種動―謦欬と弾指の響きが十方諸仏の世界に至り、大地が皆六種に震動する
⑥普見大会―十方世界の一切衆生が、皆娑婆世界の三仏(釈尊・多宝如来・師子座上の十方分身の諸仏)及び菩薩を見る
⑦空中唱声―諸天が虚空中において、釈尊の妙法説法と衆生の随喜供養を唱える
⑧咸皆帰命―十方世界の衆生が虚空中の声を聞き、合掌し釈尊に帰命する
⑨遙散諸物―華香・瓔珞・幡蓋・諸々の厳身具・珍宝・妙物を、遙か娑婆世界に散ずる
⑩十方通同(通一仏土)―十方世界が通達無礙、一仏国土となる
これらは、爾前迹門では現われたことのない大神力でした。そのことからも、これから付嘱される妙法の功徳がいかに広大無辺であるかが拝されます。
この十神力について、中国の妙楽大師は、『法華文句記』の中で、前の五つは在世のため、後の五つは滅後のために顕わされた、と釈されています。
日蓮大聖人は御本仏の御境界から、
「此の十種の神力は在世滅後に亘るなり。然りと雖も十種共に滅後に限ると心得べきなり」(御書 一七八三㌻)
と、滅後に約して御教示あそばされています。これは、『観心本尊抄』に、
「此の十神力は妙法蓮華経の五字を以て、上行・安立行・浄行・無辺行等の四大菩薩に授与したまふなり」(同 六五九㌻)
と仰せられていることからも明らかです。
十種の大神力が顕わされると、釈尊は上行菩薩を筆頭とする地涌の菩薩たちに対し、法華経の滅後弘通を付嘱されました。
この付嘱は、称歎付嘱・結要付嘱・勧奨付嘱・釈付嘱から成ります。次品『嘱累品第二十二』における「総付嘱」は、一切の菩薩に対する法華経一部の付嘱であるのに対して、当品における付嘱は、本化地涌の菩薩に法華経の肝要を付嘱されることから、「別付嘱」とも称されます。
要を結して受持を勧む(説相の大意)
釈尊は上行菩薩等に告げられます。
称歎付嘱(付嘱の功徳が大なるを称える)
諸仏の神力は無量無辺であるが、その神力を用いて無量無辺百千万億阿僧祇劫という長い間、付嘱のために妙法の功徳を説いたとしても説き尽くすことはできない。
結要付嘱(「四句の要法」に括られた付嘱の内容)
「以要言之。如来一切所有之法。如来一切自在神力。如来一切秘要之蔵。如来一切甚深之事。皆於此経。宣示顕説(要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示顕説す)」(法華経 五一三㌻)
しかしながら、枢要を取り妙法の精粋を述べるならば、如来の一切の所有する教え、如来の一切の無礙自在な神力、如来の一切の不可思議の実相、如来の一切の深い因縁果報は、すべて妙法蓮華経に説き明かされている。
勧奨付嘱(修行・起塔を勧める)
したがって、あなたたちは仏滅後、一心に妙法を受持・読・誦・解説・書写し、教説の通りに修行しなさい。どのような国土にあっても、教説のままに修行したとする。それが法華経が在す場所であるならば、たとえ園の中であっても、また林の中、樹の下でも、あるいは寺院や在家の家、殿堂であっても、もしくは山谷・広野であったとしても、そこに塔を建てて供養すべきである。
釈付嘱(修行の功徳を解釈する)
なぜならば、妙法の在す所が、そのまま道場だからであり、諸仏は、そこにおいて悟りを開き、説法をされ、入滅されるのである。
付嘱の法体
以上、四段からなる付嘱において最も大事なのは、肝要となる付嘱の内容を顕わされた結要付嘱です。迹化・他方の菩薩方による誓願を制止された釈尊が、当品に至り、ついに本化地涌の菩薩へと滅後流通を付嘱されたのです。
『従地涌出品第十五』を学んだ際に、地涌の菩薩の外用と内証について概説しました。そのうちの外用の御立場として大切なのは、開近顕遠と結要付嘱の二義を顕わすために出現されたということです。
釈尊は、法華経の肝要を四句の要法に括って上行菩薩に付嘱されました。これを天台大師は、
「結要に四句有り。(中略)唯四なるのみ。其の枢柄を撮って之を授与す」(法華文句記会本下‐四六七㌻)
と、名体宗用教の五重玄の依文として、概略的に釈されています。
これに対して日蓮大聖人は『御義口伝』に、
「一経とは本迹廿八品なり。唯四とは名用体宗の四なり。枢柄とは唯題目の五字なり。授与とは上行菩薩に授与するなり。之とは南無妙法蓮華経なり」(御書 一八〇五㌻)
と、また『三大秘法稟承事』に、
「所説の要言の法とは(中略)寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり」(同 一五九三㌻)
と仰せられています。付嘱の法体を明確に御示しになり、本尊付嘱としての意義が明らかです。
こうして妙法の一切は釈尊から上行菩薩の所有となり、この付嘱の筋目によって末法に上行菩薩の再誕・再往久遠元初自受用報身如来の再誕として御出現されたのが、宗祖日蓮大聖人です。大聖人は、妙法を弘通することで惹起した大小種々の難を忍び、三類の強敵を扣発して一人法華経を身読され、末法の一切衆生救済のために、付嘱の法体を三大秘法総在の本門戒壇の大御本尊として御図顕あそばされたのです。
応に此の経を受持すべし
付嘱の後、釈尊は義を重ねて宣せられるために偈頌を説かれ、その最後に、
「我が滅度の後に於て 応に斯の経を受持すべし 是の人仏道に於て 決定して疑有ること無けん」(法華経 五一七㌻)
と結ばれています。『如来神力品』における結要付嘱の功徳として、釈尊の滅後、正像時代を過ぎた末法時代においては、妙法を受持する一行に五種妙行の一切が具わり、凡夫の即身成仏があることを説かれて結語とされたのです。
私たちは、法華講衆として大御本尊を信受したとき、深い因縁により、一人ひとりが地涌の流類・地涌の菩薩の眷属であるとの実証を示すことができます。したがって、宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年に向けて、大聖人の本眷属であるとの自覚に立ち、妙法弘通に挺身していくことが大切です。
法華経について㉕
法華経について(全34)
25大白法 平成28年4月1日刊(第930号)より転載
『常不軽菩薩品第二十』
今回は、『常不軽菩薩品第二十』について学んでいきます。
『分別功徳品第十七』の後半から『普賢菩薩勧発品第二十八』までが本門流通分に配当されますが、その中でも当品までの三品半には、法華弘経の功徳と流通を明かされています。
前回学んだ『法師功徳品第十九』において、釈尊は、随喜品(滅後の五品の第一)の果の功徳として六根清浄を明かされましたが、当品では、その過去の実例として常不軽菩薩の因縁を説かれ、法華経を毀る者と信ずる者との罪福を示すことによって流通を勧められています。
常不軽菩薩
当品において釈尊は、得大勢菩薩(勢至菩薩とも称される)を対告衆として法を説かれます。
遥か昔、威音王如来(威音王仏)という仏様が在して、天・人・阿修羅等の人々のために、それぞれの機に見合った法を説かれ、仏様の智慧を授けました。そして威音王如来の滅後、正法時代・像法時代を過ぎて仏法が滅尽すると同じ名号の仏様が出現するという様相が次第して、二万億もの威音王如来が世に出られました。
最初の威音王如来が入滅され正法時代を経て像法時代になると、増上慢の比丘の勢力が盛り上がっていました。この時、常不軽という一人の比丘が出現したのです。この方は、比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の四衆を見ると必ず合掌礼拝して、
「我深敬如等。不敢軽慢。所以者何。汝等皆行菩薩道。当得作仏(我深く汝等を敬う。敢えて軽慢せず。所以は何ん、汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし)」(法華経 五〇〇㌻)
と「二十四字」で表わされる言葉を述べました。これは、「私はあなた方を尊敬します。けっして軽蔑いたしません。なぜなら、あなた方は菩薩道を修行して、必ず後に成仏するからです」という意味です。
この比丘は、専ら経典を読誦せず、誰に対しても合掌礼拝し、
「我敢えて汝等を軽しめず」(同)
と繰り返します。ところが、四衆の中で、莫迦にされたと思い瞋恚(瞋り)を起こした心の不浄な者たちは、比丘に対して悪口の限りを尽くし、杖木をもって打ち、瓦石を投げつける者までいました。しかし、こうした迫害に怯むことなく、より強盛に礼拝讃歎を貫いたため、いつしか比丘は、人々から「常不軽」と呼ばれるようになったのです。
やがて、常不軽比丘が命終の時を迎えると、虚空において、威音王如来が説かれた法華経の二十千万億に及ぶ無量の偈を聞き、比丘はその法華経を受持して六根清浄の果徳を得ました。そして、さらに二百万億那由他歳もの寿命を得て、広く人々のために法華経を説いたのです。すると、それまで軽蔑し迫害を加えてきた四衆も、六根清浄の功徳を成じた菩薩の姿に接し、法華経の説法を聴聞して信伏随従しました。
こうして常不軽菩薩は、多くの衆生を教化して無上正覚へと導き、命終の後に日月燈明仏・雲自在燈王仏という多くの仏様に値い奉り、その間、常に五種の妙行(受持・読・誦・解説・書写)を修したことによって、ついに自らも仏果を得るに至ったのです。
信毀罪福
釈尊は、この常不軽菩薩が過去世における御自身の姿であり、現世において速やかに成仏の相を示現できたのも、すべて過去の法華経修行の功徳に依ることを明かされました。
それに対して、常不軽菩薩を瞋恚の心で軽賤した四衆は、その罪により二百億劫もの長い間、仏法僧の三宝に値遇せず、初めの千劫の間は、阿鼻地獄に堕ちて大苦悩を受けました。そして、ようやくその罪を滅し終わった後、法華経に信伏随従した功徳によって再び常不軽菩薩の教化に浴し、修行を経て仏道を成就することができたのです。
さらには、釈尊の法華経の会座に同座し記別を与えられた跋陀婆羅をはじめとする聴聞衆が、実は過去世において常不軽菩薩を軽毀した四衆であると明かされます。これによって、法華経が誹謗者をも仏道へと導く正法であることが明確となり、釈尊は、いよいよ五種の妙行を勧奨され、さらに偈頌を説いて、重ねて仏滅後の妙法流通を勧められています。
当品の内容から、常不軽菩薩のような正しい仏道修行によって必ず仏果を成ずること、その一方で、誹謗の四衆が長く堕地獄の苦悩を受けたように、法華経を謗る罪が非常に大きいことが明らかとなります。そして何より、法華経の下種を受け信ずる功徳によって、地獄に堕ちるほどの罪であっても滅した後には必ず仏様に値い、真の福を得るとの説相から、法華経本門の折伏行の大事が拝されます。
本門折伏の修行
中国の天台大師は『法華文句』において、常不軽菩薩は一切衆生に本来具わる仏性を礼拝して下種結縁し、未来成仏の因としたことを示されます。また、
「本已に善有り、釈迦は小を以て之を将護したもう。本未だ善有らざれば、不軽は大を以て強いて之を毒す」(法華文句記会本 下‐四五二㌻)
と釈されて、迹門の『安楽行品第十四』に説かれる像法時代の本已有善の衆生に対する摂受の修行に対し、本門の当品に示される忍難弘通が、末法時代の本未有善の衆生に対する折伏の修行であることを明かされています。
したがって末法の今、私たちが一切衆生に対して行ずべきは折伏です。しかし、宗祖日蓮大聖人様が五濁悪世の末法時代に御出現あそばされたのに対して、常不軽菩薩は威音王如来の像法時代に出現されました。また、大聖人様が三大秘法、南無妙法蓮華経の五字七字を弘められるのに対して、不軽菩薩は「二十四字の法華経」を面とされるなど、同じく本門折伏の修行と言っても異なりがあります。ただし、これらの相違は、大聖人様が文底下種を旨として仏法を顕わされるのに対して、釈尊の前身である不軽菩薩は熟益・脱益を旨として修行をされたことに依るのです。
ですから、その修行の在り方を拝すれば、どちらも悪口罵詈・及加刀杖を堪え忍ばれての、自行化他にわたる妙法弘通に他なりません。したがって、大聖人様は末法の法華経の行者として、御自身で法華身読の振る舞いを実践されると共に、当品や『勧持品第十三』を諸御書に引用されて、滅後末法における信心修行の方軌を、御在世の弟子信徒だけでなく、末法の一切衆生に御示しくださっています。
「とてもかくても法華経を強ひて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり。何にとしても仏の種は法華経より外になきなり」(御書 一三一六㌻)
とは、まさに法華折伏による順逆二縁の成仏を示された御教示と拝されます。
前御法主日顕上人猊下は、当品御講義の砌に
「相手が疑問を持って言ってきたことに対してのみ話をするというのは摂受のほうになる。それに対して、こちらから進んで相手に説き、また伝えるのが折伏で、これがいわゆる礼拝行を道路において行ったという不軽菩薩の在り方です」(大白法 五七九号)
と、御指南あそばされています。自ら進んで行じ相手の誤りをしっかりと破折しなければ、大聖人様の御意に叶う折伏の修行とはならないのです。
御法主日如上人猊下の、
「末法は謗法が充満し、ために多くの人々が知らず知らずのうちに悪縁に誑かされ、邪義邪宗の害毒によって不幸の境界から脱することができずにいます。こうした人々を救済していくためには、正像過時の如き摂受ではなく、破邪顕正の折伏をもってするのが最善であり、折伏こそ末法の一切衆生救済の最高の慈悲行であります」(大白法 八八三号)
との御指南のもと、いかなる難も恐れることなく、順縁・逆縁すべての人々に対して折伏を行じると共に、八十万人体勢構築へ向けて新入信者の育成も確実に推進してまいりましょう。
法華経について㉔
法華経について(全34)
24大白法 平成28年3月1日刊(第928号)より転載
『法師功徳品第十九』
前回の『随喜功徳品第十八』では、五十展転随喜の功徳を説き、滅後の五品(随喜品・読誦品・説法品・兼行六度品・正行六度品)の初めである随喜品の因の功徳を明かして流通を勧められました。
今回の『法師功徳品』では、随喜品の果の功徳である六根清浄を明かして流通を勧めます。
『法師功徳品』の題号について
「法師」とは、一般的な意味として、仏法に精通し、清浄な行を修し、師として人々を導く僧を指しますが、法華経においては『法師品第十』にも説かれるように出家在家を問わず、この妙法を信じ説く者すべてを「法師」と称します。天台大師は『法華文句』において、この法師の法は法華経、この法を師とする故に法師とする意義と、法を衆生に弘めて師となるが故に法師とする意義を挙げられています。
当品における「法師」とは、『法師品第十』で説かれる五種法師のことで、法華経を受持し、経文を読み、また誦(経文を諳んじて読むこと)し、解釈して他に説き、書写するという五種類の修行をする者のことです。
また、「功徳」とは、五種の修行によって、私たち一人ひとりに具わる六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)が、清らかになる六根清浄の功徳のことです。
六根清浄の功徳
六根清浄とは、私たちの眼・耳・鼻・舌・身・意の六つの感覚、認識器官が、煩悩を有したままその汚れを払い、清らかになることです。
当品の冒頭、釈尊は、常精進菩薩に対して、この六根清浄の功徳について明かされます。
「もし善良なる男女が、この法華経を受持し、あるいは読誦し、あるいは解説し書写したならば、この人は眼に八百の功徳、耳に千二百の功徳、鼻に八百の功徳、舌に千二百の功徳、身に八百の功徳、意に千二百の功徳を得て、その功徳によって六根が荘厳され、皆清浄になるであろう(趣意)」(法華経 四七四頁)
と、この五種法師を修行することで眼・鼻・身の三つにそれぞれ八百の功徳が具わり、耳と舌と意にはそれぞれ千二百の功徳が具わります。そして、これら六根の功徳を全部合わせると六千の功徳を得ます。
前御法主日顕上人猊下は、この「六千」の功徳や「八百」と「千二百」という数について、次のように詳しく御指南されています。
「これは、安楽行の意義の上から法華経の修行の功徳に十善があり、その十善の一つにまた十善が具わっておるが故に百善となり、その百善中の一々に十如是の法門が具わるので、千の善を成じ、その千の善についても自行と化他の両面から示され、また行ずるので二千の善となり、さらに『大慈悲為室』『諸法空為座』『柔和忍辱衣』という衣座室の三軌の意義が具わり六千となるのであります。
この六千を六根に配するならば、一根について一千の功徳が存するという次第でありまして、その一千についてさらにまた、用きの上から能盈・能縮の意義が存するのであります。能盈とは『みちる』の意でありますから千二百となり、能縮とは縮まる意味において八百となるのでありまして、このような意義の上から経文に『千二百』『八百』という数が示されておるのであります」(大日蓮 五五六号)
次に五種法師の修行によって、六根それぞれに得る清浄の功徳について、『法師功徳品』に説かれる内容に従って、要約して説明します。
①眼根清浄の功徳―父母から授かった肉眼が清らかになり、全世界の有り様を、下は極悪の阿鼻地獄から、上は最高の有頂天に至るまで、よく見ることができる。また、その中に住んでいる一切の人々が、どんな生き方をしているか、彼らの業の原因や果報、生まれた境界などをことごとく見ることができる。
②耳根清浄の功徳―父母から授かった耳が清らかになり、象・馬・牛の声、ホラ貝・鼓・鐘・鈴の音、男・女・凡夫・聖人・天人・竜・夜叉・餓鬼の声など、全世界のありとあらゆる声を聞くことができる。もろもろの僧や尼僧、また菩薩たちが経典を読誦し、また人に読み聞かせる者があれば、ことごとくその声を聞くことができる。仏が衆生のために、大法座にあって、微妙の法を説かれるときも、その声をすべて聞くことができる。
③鼻根清浄の功徳―鼻は清らかになり、全世界のよい香をかぎ、またいろいろの香をかぎ分け、その所在を知ることができる。この世界における香だけでなく、天上界の諸天・梵天や最高の有頂天に至るまでのいろいろな香をかぎ分けることができる。また、人間の心の状態もかぎ分け、修行者たちがどのような場所でどのように修行をしているのか、それらのすべてを香りによって知ることができる。
④舌根清浄の功徳―舌は清らかになり、どんな味のよいものも悪いものも舌の上に乗せれば、すべて甘露のように最上の美味に変ずることができる。また、この舌によって大勢の人々のために法を演説する場合は、すばらしい声を出し、その声が皆の心に入って、皆を喜び楽しませる。この時、天子・天女をはじめ、あらゆる種類の人間・生類がやってきて、その言葉を聞いて供養するであろう。また、仏や菩薩・声聞たちも、その相を見に来られるであろう。
⑤身根清浄の功徳―身は瑠璃のように清らかになって、誰もが彼らに会いたいと願うようになる。この清らかな身体には、全世界のありとあらゆるもの、下は阿鼻地獄から上は有頂天に至るまでの人々、また仏や菩薩たちが説法される姿まで、そこに写し出されるのである。
⑥意根清浄の功徳―清らかな意の功徳によって、法華経のわずか一偈一句を聞いただけでも、限りなく深いその意味を体得することができるであろう。どんな教えが説かれても、その意味を正しく把握して真理に反することはない。もし、彼らが仏教以外の世間一般の書物や政治・経済などの論議を説くならば、それはすべて正しい仏法の真理に適ったものとなろう。
以上が六根清浄の功徳についての内容を要約したものです。
しかし、これら五種法師の修行によって得ることのできる六根清浄の功徳も、過去において仏より既に妙法の下種結縁を受けている熟脱の衆生のための修行、その功徳であり、直ちに末法の本未有善の衆生の観心修行とはなりません。
受持の一行
そこで、大聖人様は末法の修行として受持の一行を説かれたのです・この受持には総体と別体の二意があります。「総体の受持」とは五種の修行をすべて具足する受持のことであります。「別体の受持」とは五種の修行の一つとしての受持です。大聖人様が仰せの受持とは前者の「総体の受持」の意義のことです。
大聖人様は『日女御前御返事』に、
「法華経を受け持ちて南無妙法蓮華経と唱ふる、即ち五種の修行を具足するなり」(御書 一三八九頁)
と、妙法受持の一行に五種の修行すべてを含むと仰せです。
また、この下種の妙法には、五種の修行のみならず、三世諸仏の一切の因行と果徳が具足していることから、この妙法を受持することによって自ずとそれらすべての修行と果報が具わるのです。
また『御義口伝』に、
「所詮今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱へ奉る者は六根清浄なり」(同 一七七五頁)
と仰せになり、末法における五種の修行は、ただ南無妙法蓮華経と唱え奉ることであり、その功徳が本然的に六根清浄であると御示しです。
つまり、大聖人様が文底下種の妙法を実体として御図顕あそばされた本門戒壇の大御本尊を受持信行し、妙法を弘めていくことこそが末法における五種法師の妙行なのです。そして、この受持の一行に広大深遠なる功徳、六根清浄の功徳を得ることができるのです。
御法主日如上人猊下は、
「大聖人様の仏法によって人々が六根清浄の果報を得て浄化されれば、必然的に世の中も浄化されてくるわけであります」(大白法 七〇三号)
と御指南されています。
私たちがめざす平和仏国土の実現のためには、全世界の一人ひとりが妙法を受持し、その果報である六根清浄の功徳をもって国土を浄化していく道以外にありません。
したがって私たちは、一人でも多くの人にこの妙法を伝え弘めていく使命があるのです。今月も折伏行に精進してまいりましょう。
法華経について㉓
法華経について(全34)
23大白法 平成27年2月1日刊(第926号)より転載
『随喜功徳品第十八』
滅後の五品の最初
-随喜品の因の功徳を明かす
前回の『分別功徳品第十七』では、『寿量品』で、釈尊の久遠の本地と常住の化導を信解した在世の衆生の功徳が説かれると共に、在世の衆生と滅後の衆生が、『寿量品』を聴聞し、利益を受けていく過程を、現在の四信と滅後の五品という形で説かれました。その中で、大聖人様が重視されたのは、現在の四信中の初め一念信解、それから滅後の五品の最初である随喜品であり、これらは信心の位です。
この四信五品から後、法華経が終わるまでは、法華経本門の流通分と言って、中心の『寿量品』の教えを流布し、衆生を利益していくことを目的とする段に当たるのです。特に、これまでの地涌の出現などからも判るように、本門は滅後末法の一切衆生を利益することに主題があります。
そこで、今回の『随喜功徳品』からは、釈尊在世の人の功徳を説いた現在の四信よりも、滅後の五品が主となり、特に最初の随喜品の功徳が説かれるのです。『随喜功徳品』では、この随喜品の因果の功徳のうち、因の功徳が説かれます。
五十展転随喜の功徳
そこで、この本門『寿量品』の説法を聞いた弥勒菩薩をはじめとする人たちが、実際にどのような利益を受けたのか。それが、今回の『随喜功徳品』の前半に説かれます。
冒頭、弥勒菩薩が、釈尊に問いました。
「釈尊が入滅された後に、この法華経を聴聞して、心から喜んで有り難いと思うならば、その人はどれほどの福徳を得るのでしょうか(趣意)」(法華経 四六四頁)
釈尊は次のように答えました。
「弥勒よ、仏の滅後に、出家の男女、在家の男女、その他智慧の有無、老若男女を問わず、誰でも、法華経を聞いて随喜し、説法の座から出て、寺院、静かな場所、あるいは城市、町、田舎などへ行って、聞いた通りに、父母や親類や友人、知人のために力に応じて法を説いたとしよう。この人たちもこれを聞き終わって随喜の心を起こすであろう。そして、この人たちが、さらに他の所に行って、この教えを伝えていく。次の人も聞き終わって随喜の心を起こし、このように次々と展転して第五十人目の人に至ったとしよう。
弥勒よ、この第五十番目のただ法華経『寿量品』の教えを聞いただけの人の功徳を、これから説明しよう。
例えば、四百万億阿僧祇という数え切れないほどの多くの世界には、様々な種類の衆生がいる。ある人が施主となって、これらの衆生の一人ひとりが好むところに従って、いろいろな娯楽の道具や宝石、さらには宮殿や楼閣などを惜しみなく与えたとしよう。そして、一切の衆生に施し続けて八十年にも及んだとき、大施主は『私は思うままにいろいろなものを布施してきたが、彼らも既に年老いて八十歳を超えた。髪も白く顔にしわが出て、死ぬのもそう遠くないであろう。それではここで、仏法をもって彼らを教化し、悟りに入らせよう』と考えたのである。そして、大施主は、衆生を集めて仏の教えを説き、阿羅漢という小乗教で最高の悟りに導いたとしよう。
弥勒よ、この大施主の得た功徳はどのくらい大きいものであると汝は考えるのか(趣意)」(同 四六四頁)
弥勒菩薩は、
「世尊よ、この人は、莫大な財宝を施した上に、人々を阿羅漢の悟りに導いたのであるから、はなはだ大きな功徳を得たことでありましょう(趣意)」(同 四六七頁)
と、答えました。
そこで釈尊は次のように弥勒菩薩に説かれたのです。
「しかし、その功徳とても、第五十番目の人が、法華経『寿量品』の一偈だけを聞いて随喜する功徳に遠く及ばないのである。その百分・千分・百千万億分の一にも及ばないし、計算、譬喩をもっても知ることができないほど、はるかに及ばないのである。
第五十番目の人の功徳ですら、これほど大きいのであるから、最初の説法の座で教えを聞き、随喜し、他の人にも説き聞かせた人の功徳は、どれほど大きいであろうか。それは何物をもっても比べることができないのである(趣意)」(同 四六七頁)
このように八十年にわたって広く多くの衆生に無量の財施・法施を尽くした大施主の功徳であっても、五十番目に法華経のたった一偈を聞いて随喜した人の功徳には、百千万億分の一にも及ばないと説かれました。
この法華経の一偈とは、在世の衆生にとっては文上顕本の『寿量品』の一偈であり、滅後末法の衆生には文底顕本の本因下種の妙法の一偈を意味します。
ここに説かれる第五十番目の人の功徳は、最初にこの法華経『寿量品』を聴聞した人の随喜の功徳より、展転し伝わるため後に行くほどその功徳は次第に薄くなり、さらに最初聞法の人から四十九番目の人までは、自ら法を聞いて、また他の者にも法を説くという、自行化他の二徳が具わっていますが、五十番目の人には化他の功徳がなく、ただ聞法による随喜の功徳のみしか具わりません。しかし、その功徳ですら絶大であり、まして最初に聞法し、法を人に伝えた功徳は比べることができないほど大きいのです。
大切なことは、ただ随喜の心を起こすだけでも莫大な功徳が現われることはもちろん、さらに一歩進んで、その随喜の心をもって他の人にも勧めていく、共々に妙法の題目を唱えていく、というところにあります。
法華経聴聞の功徳
五十展転の随喜の功徳について説かれた釈尊は、続いて法華経聴聞の功徳を三点挙げられました。要約すると次の通りです。
一、妙法の教えを聞くために、寺院へ行って、ほんの少しの間でも、この妙法を聞いたとしよう。この人は、その功徳によって、来世にはすばらしい乗り物を得て天宮に導かれるであろう。
二、法華経を講説している場所に座り、また他の人にも座を分かって座らせ、その教えを聞かせたならば、その功徳によって、帝釈天・大梵天王・転輪聖王の座に上ることができるであろう。
三、「一緒に法華経を聴聞しに行こう」と言って、他の人を誘ってこの教えを聞いたとしよう。その人は、その功徳によって、来世には能力の優れた菩薩に遇って智慧をいただき、病気がなく、健康で美しい姿を保ち、代々生まれ変わっては、仏にお遇いして、この教えを諭されて信受するであろう。(法華経 四六八~四七〇頁)
そして最後に、釈尊は弥勒菩薩に対し、
「弥勒よ、ただ一人の人を誘って妙法の信仰に入らせただけでも、これだけの功徳があるのであるから、一心にこの経を読誦し、大衆のために広く説く者の功徳はなおさらである(趣意)」(同 四七〇頁)
と説かれ、以上で『随喜功徳品』の内容は終わります。
御法主日如上人猊下は、
「日蓮大聖人は『御義口伝』のなかで、この五十展転について、
『五とは妙法の五字なり、十とは十界の衆生なり、展転とは一念三千なり(中略)五十人とは一切衆生の事なり』(御書 一八一一頁)
とおっしゃっております。この『五十人』ということを考えてみると、いわゆる特定の人に限られたのではなくして、妙法を聞いて随喜する一切衆生を指しているのであります。だから妙法を聞いただけでも、これだけのすばらしい功徳があり、さらにこの妙法を聞いて他の人に説く、つまり折伏をする功徳はどれほど大きいかということが解るのです」(大白法 七二二号)
と仰せられています。
末法の観心である文底本因下種の妙法の功徳を聞いて、ただ随喜するだけであっても、八十年の布施の功徳に百千万億倍勝れているのですから、現在、私たちは、御法主上人猊下の御指南のもと、折伏を中心に自行化他の仏道修行をさせていただける身の福徳に感謝し、本年も誓願達成に向けて勇躍して精進してまいりましょう。