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69発迹顕本

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教学ノート

発迹顕本とは、仏が衆生を教化するために仮の姿(垂迹)をはらって、真実の姿(本地)を顕わすことをいいます。
インドに生まれた釈尊は、釈迦族の王子として誕生し、16歳で出家して、30歳の時に菩提樹の下で悟りを開きました
これを始成正覚といいます。
 そして、法華経『如来寿量品第十六』に至ると、これまでの仮の姿をはらって、自分が仏となったのは、実は五百塵点劫という計り知れないほどの昔であること(久遠実成)やこれまで多くの衆生を導いてきたことを明かしたのです。これが釈尊の発迹顕本です。
 さらに法華経『如来神力品第二十一』では、未法において法華経の弘通を上行菩薩に付されたのです。その予証の通り、一切衆生を救済するために未法の世に出現されたのが、日蓮大聖人様です。
 大聖人様は、経文の通り、正法弘通によって様々な難を受けられました。そしてついに、文永8年(1271)年9月12日、命に危険が及んだ竜口の法難によって発迹顕本 されました。
 このことを『開目抄』には、
「日蓮といるし者は、去年九月十二日子丑の時に頭はねらぬ。此は魂魄佐土の国にいたりて、返る年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へおくれば」(御書563ページ)
と仰せられ、それまでの上行の再誕日蓮という仮の姿をはらって、末法下種の本仏としての真実の姿を顕わされたの
です。
 末法下種の御本仏であらせられる大聖人様は、「総勘文抄」に
「釈迦如来五百塵点 劫の当初、凡夫にて御坐せし時,我が身は地水火風空なりと知ろしめして即座に悟りを開きたまひき」(同1419ページ)
と仰せのように、久遠元初の自受用報身如来です。その御所持される妙法こそ、『法華初心成仏』に
「三世の諸仏も妙法蓮華経の五字をもって仏に成り給ひしなり」
と仰せのように釈尊を含む三世十方の一切諸仏が仏となった根源の大法に他ならないのです。
ポイント
「竜口の法難」
文永8(1271)年9月12日、大聖人様は、松葉ヶ谷の草庵から評定所へ連行され、平左衛門尉から「佐渡流罪」を言い渡されました。
 しかし、これは表向きの評決で、大聖人の御首を切ろうとする計画が企てられていました。そして、深夜に竜口の刑場へ運ばれたのです。
 しかし、刑場に到着して処刑される瞬間、突然、江ノ島の方角から月のような光り物が南東より北西に光り渡りました。太力取りは目がくらんで倒れ伏し、取り囲んでいた兵士も恐怖に震えて逃げ惑い、大聖人様の命を奪うことはできませんでした。

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9月度広布唱題会の砌

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日如上人猊下お言葉

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 本日は、九月度の広布唱題会に当たり、皆様方には諸事万端御繁忙のところを信心強盛に出席され、まことに御苦労さまです。
 皆様方には既に御承知の通り、今、新型コロナウイルス感染症が猛威を振るい、日本をはじめ世界中が騒然とした状況を呈しております。しかし、かくなる時こそ、私どもは真剣に題目を唱え、異体同心・一致団結して病魔を打ち払い、折伏を行し、妙法流布に邁進していかなければなりまん。
 大聖人様は『南条兵衛七郎殿御書』に
「いかなる大善をつくり、法華経を千部書写し、一念三千の観道を得たる人なりとも、法華経のかたきをだにもせめざれば得道ありがたし。 たとへば朝につかふる人の十年二十年の奉公あれども、君の敵をしりながら奏しもせず、私にもあだまずば、奉公皆うせて還ってとがに行なはれんが如し。世の人々は謗法の者としろしめすべし」(御書322ページ)
と仰せであります。
 「いかなる大善」すなわち、この上ない善行、勝れた根・功徳を積んだ者であったとしても、また法華経を千万部も読み、書写し、一念三千の観心の法門を会得した人であっても「法華経のかたき」すなわち、邪義邪宗の謗法を破折しなければ、折伏をしなければ、成仏得道することはできない。 それは例えば、朝廷に仕えている人が、十年、二十年と長年にわたって勤めてきたとしても、主君に敵対する者がいることを知りながら、主君にも知らせず、また私にも恨みに思わず、そのまま放置していたとすれば、せっかく積んだ長年の奉公の功績も皆、消えてしまい、かえって怠慢の者として罪に問われるようなものである。されば今、末法濁悪の当世の多くの人々は謗法の者と知り、折伏を行じていかなければならないと仰せられているのであります。
 よって『聖愚問答抄』には、
「今の世は濁世なり、人の情もひがみゆがんて権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし。此の時は読誦。書写の修行も観念・工夫・修練も無用なり。只折伏を行して力あらば威勢を以て法をくだき、法門を以ても邪義を責めよとなり。 取捨其の旨を得て一向に執する事なかれと書けり。 今の世を見るに正法一純に弘まる国か、邪法の興盛する国か勘ふべし」(同四〇三ページ)
 と仰せられ、濁劫悪世の姿そのままに、五濁乱漫として権教謗法のみ多く、ために人心が乱れ、世情騒然とした状況を呈している今時末法においては、像法過時の読誦・ 書写の修行も、観念・工夫・修練も無用にして、ただ破邪顕正の折伏をもって謗法を砕き、法門をもっても邪義を破折することこそ肝要であると仰せられているのであります。
 されば『曽谷殿御返事』には、
「謗法を責めずして成仏を願はど、火のに水を求め、水の中に火を尋ぬるが如なるべし。 はかなしはかなし。何に法華経を信じ給ふとも、謗法あらば必ず地獄にをつべし。 うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し。『毒気深入、失本心故』とは是なり」(同一1040ぺーじ))
 と仰せられ、一生成仏を願う私どもの信心において、大聖人様の正しい信心を妨げるは邪義弘宗の謗法を対治し、折伏することがいかに大事であるかを御教示あそぼされているのであります。
 したがって、不幸の根源たる邪義邪宗の正謗法を見ながら、知りながら、そのまま放置して責めもせず、折伏もせず、黙って見過ごすようなことがあれば、末法の御本仏宗祖日蓮大聖人の教えに背くことになり、成仏得道は思いも及ばないことになってしまう。それはあたかも、たくさんの漆の中に蟹の足一本を入れたようなものであると仰せられているのであります。
 特に今、世界中が新型コロナウイルス感染症によって騒然としている時、かくなる時こそ、私どもは不幸の根源たる邪義邪宗の謗法を破折し、一切衆生救済の秘法たる妙法の広大無辺なる功徳を一人でも多くの人々に説き、一意専心、折伏を行していくのことが、最も大事であることを一人ひとりがしっかりと心肝に染め、講中一結・異体同心して、敢然と折伏を行ぜられますよう心からお願い申し上げ、本日の挨拶と致します。

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日顯上人様 三回忌 ㈠ ―The day when the sun was lost ―

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女人成仏の項目

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盆経(お経廻り)について

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 光明
 七月・八月に行われているお盆は、目連尊者が餓鬼道に堕ちて苦しむ母を聖僧への供養によって救った説話(盂蘭盆経) に由来している。
 聖僧とは、正法を持つ僧のこと。
 つまり末法においては、本因妙の教主・宗祖日蓮大聖人が顕わされた大白法を伝持なされる御法主上人のことであり、大聖人よりの法脈に連なる日蓮正宗の御僧侶のことである。
 正しい相伝の上から『盂蘭盆経』を見れば、亡き先祖を救うためにも文底下種仏法の三宝に帰依することが説かれているのである。
 日蓮正宗ではお盆の時期に、寺院の盂蘭盆会に参詣することに併せて、御僧侶を自宅にお招きして、真心からの報恩感謝の法会 (盆経)が行なわれている、
 古来、法華講の先達方は、如何なる苦境や困難に陥っても、常に妙法受持の福運に感謝を持ち、師弟相対の筋目を正して、活力に満ちた幸せな境界を確立されてきた。この清らかな求道心と 報恩感謝の精神の表われの一つが、今日の盆経といえる。
 各家庭の御宝前で奉修の経は、日頃の寺院参詣ではできない近況についての話や、法統相続のこと、一家和楽の信心の確立など、正法聴聞の功徳に浴し信行を磨く貫重な機会となっている。
 そして、各家庭の信心の成長こそが、磐石な講中の基盤ともなるのであるから、盆経は大きな意義を持っている。
 されば、最運房御返事』には、
「我等が弟子檀那とならん人は一歩を行かずして天竺の霊山を見、本有の寂光土へ昼夜に往復し給ふ」(御書 五八八ページ)
と仰せられている。
 コロナ禍の中で様々な状況はあるが、追善供養のため、折伏・育成のため、一家和楽の信心と法統相続の功徳を成
ずるためにも、夏の熱さを跳ね除ける歓喜の信心をもって精進してまいろう。

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