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法華真言勝劣事

御書2

法華真言勝劣事   文永元年七月 廿九日  四三歳  
東寺の弘法大師空海の所立に云はく「法華経は猶華厳経に劣れり、何に況んや大日経に於てをや」云云。慈覚大師円仁・智証大師円珍・安然和尚等の云はく「法華経の理は大日経に同じ。印を真言との事に於ては是猶劣れるなり」云云。 其の所釈余処に之をだ出す。 空海は大日経、菩提心論等に依って十住心を立て顕密の勝劣を判ず。其の中に第六に他縁大乗心は法相宗、第七に覚心不生心は三論宗、第八に如実一道心は天台宗、第九に極無自性心は華厳宗、第十に秘密荘厳心は真言宗なり。此の所立の次第は浅き従り深きに至る。其の証文は大日経の住心品と菩提心論とに出づと云へり。然るに出だす所の大日経の住心品を見て他縁大乗・覚心不生・極無自性を尋ぬるに名目経文に之有り。然りと雖も他縁・覚心・極無自性の三句を法相・三論・華厳に配する名目は之無し。其の上覚心不生と極無自性との中間に如実一道の文義共に之無し。但し此の品の初めに「云何なるか菩提、謂はく如実に自心を知る」等の文之有り。此の文を取って此の二句の中間に置いて天台宗と名づけ華厳宗に劣るの由之を存す。住心品に於ては全く文義共に之無し。有文有義無文有義の二句を虧く信用に及ばず。菩提心論の文に於ても法華・華厳の勝劣都て之を見ざる上、此の論は竜猛菩薩の論といふ事上古より諍論之有り。此の諍論絶えざる已前に亀鏡に立つる事は竪義の法に背く。其の上善無畏・金剛智等評定有って大日経の疏・義釈を作れり。一行阿闍梨の執筆なり。此の疏・義釈の中に諸宗の勝劣を判ずるに法華経と大日経とは広略異なりと定め畢んぬ。空海の徳貴しと雖も争でか先師の義に背くべきやと云ふ難此強し。 此安然の難なり。 之に依って空海の門人之を陳するに旁陳答之有り。或は守護経、或は六波羅蜜経、或は楞伽経、或は金剛頂経等に見ゆと多く会通すれども総じて難勢を免れず。然りと雖も東寺の末学等大師の高徳を恐るゝの間、強ちに会通を加へんと為れども結句会通の術計之無く、問答の法に背いて伝教大師最澄は弘法大師の弟子なり云云。又宗論の甲乙等旁論ずる事之有り云云。  日蓮案じて云はく、華厳宗の杜順・智儼・法蔵等法華経の始見今見の文に就いて法華・華厳斉等の義之を存す。其の後澄観始今の文に依って斉等の義を存すること祖師に違せず。其の上一往の弁を加へ法華と華厳と斉等なり。但し華厳は法華経より先なり。華厳経の時仏最初に法慧・功徳林等の大菩薩に対して出世の本懐之を遂ぐ。然れども二乗並びに下賤の凡夫等根機未熟の故に之を用ひず。阿含・方等・般若等の調熟に依って還って華厳経に入らしむ。此を今見の法華経と名づく。大陣を破るに余残堅かるざるが如し等。然れば実に華厳経は法華経に勝れたり等云云。本朝に於て勤操等に値ひて此の義を習学して後、天台真言を学すと雖も旧執を改めざるが故に此の義を存するか。何に況んや華厳経の法華経に勝るの由は陳隋より已前南三北七皆此の義を存す。天台已後も又諸宗此の義を存せり。但弘法一人に非ざるか。但し澄観始見今見の文に依って華厳経は法華経より勝ると料簡する才覚に於ては、天台智者大師涅槃経の「是経出世乃至如法華中」の文に依って法華・涅槃斉等の義を存するのみに非ず、又勝劣の義を存すれば此の才覚を学びて此の義を存するか。此の義若し僻案ならば空海の義も又僻見なるべきなり。天台真言の書に云はく「法華経と大日経とは広略の異なり。略とは法華経なり。大日経斉等の理なりと雖も印・真言之を略する故なり。広とは大日経なり。極理を説くのみに非ず印・真言をも説ける故なり。又法華経と大日経とに同劣の二義あり。謂はく理同事劣なり。又二義あり。一には大日経は五時の摂なり。是与の義なり。二には大日経は五時の摂に非ず。是奪の義なり」と。又云はく「法華経は譬へば裸形の猛者の如し。大日経は甲冑を帯せる猛者なり」等云云。又云はく「印・真言無きは其の仏を知るべからず」等云云。  日蓮不審して云はく、何を以て之を知る、理は法華経と大日経と斉等なりと云ふ事を。答へて云はく、疏と義釈並びに慈覚・智証等の所釈に依るなり。求めて云はく、此等の三蔵大師等は又何を以て之を知るや、理は斉等の義なりと。答へて云はく、三蔵大師等をば疑うべからず等云云。難じて云はく、此の義論議の法に非ざる上仏の遺言に違背す。慥かなる経文を出だすべし。若し経文無くんば義分無かるべし如何。答ふ、威儀形色経・瑜祗経・観智儀軌等なり。文は口伝すべし。問うて云はく、法華経に印・真言を略すとは仏よりか経家よりか訳者よりか。答へて云はく、或は仏と云ひ或は経家と云ひ或は訳者と云ふなり。不審して云はく、仏より真言・印を略して法華経と大日経と理同事勝の義之有りといはゞ此の事何れの経文ぞや。文証の所出を知らざる我意の浮言ならば之を用うべからず。若し経家訳者より之を略すといはゞ仏説に於ては何ぞ理同事勝の訳を作るべきや。法華経と大日経とは全体斉等なり。能く能く子細を尋ぬべきなり。  私に日蓮云はく、威儀形色経・瑜祗経等の文の如くんば仏説に於ては法華経に印・真言有るか。若し爾らば経家・訳者之を略せるか。六波羅密経の如きは経家之を略す。旧訳の仁王経の如きは訳者之を略せるか。若し爾らば天台真言の理同事異の釈は、経家並びに訳者の時より法華経・大日経の勝劣なり。全く仏説の勝劣に非ず。此天台真言の極なり。天台宗の義勢才覚の為に此の義を難ず。天台真言の僻見此くの如し。東寺所立の義勢は且く之を置く。僻見眼前の故なり。抑天台真言宗の所立の理同事勝に二難有り。一には法華経と大日経と理同の義、其の文全く之無し。法華経と大日経と先後如何。既に義釈に二経の前後之を定め畢って法華経は先、大日経は後なりと云へり。若し爾らば大日経は法華経の重説なり流通なり。一法を両度之を説くが故なり。若し所立の如くんば法華経の理を重ねて之を説くを大日経と云ふ。然れば則ち法華経と大日経と敵論の時は大日経の理之を奪って法華経に付くべし。但し大日経の得分は但印・真言計りなり。印契は身業、真言は口業なり。身口のみにして意無くば印・真言有るべからず。手口等を奪って法華経に付けなば手無くして印を結び、口無くして真言を誦せば虚空に印・真言を誦結すべきか如何。裸形の猛者と甲冑を帯せる猛者との譬への事。裸形の猛者の進んで大陣を破ると甲冑を帯せる猛者の退ひて一陣をも破らざるとは何れが勝るゝか。又猛者は法華経なり。甲冑は大日経なり。猛者無くんば甲冑何の詮か之有らん。此は理同の義を難ずるなり。次に事勝の義を難ぜば、法華経には印・真言無く大日経には印・真言之有りと云云。印契・真言の有無に付いて二経の勝劣を定むるに、大日経に印・真言有りて法華経に之無き故に劣ると云はゞ阿含経には世界建立・賢聖の地位是分明なり。大日経には之無し。若し爾らば大日経は阿含経より劣るか。双観経等には四十八願是分明なり。大日経に之無し。般若経には十八空是分明なり。大日経には之無し。此等の諸経に劣ると云ふべきか。又印・真言無くんば仏を知るべからず等云云。今反詰して云はく、理無くんば仏有るべからず。仏無くんば印契・真言一切徒然と成るべし。彼難じて云はく、賢聖並に四十八願等をば印・真言に対すべからず等云云。今反詰して云はく、最上の印・真言之無くば法華経は大日経等より劣るか。若し爾らば法華経には二乗作仏・久遠実成之有り。大日経には之無し。印・真言と二乗作仏・久遠実成とを対論せば天地雲泥なり。諸経に印・真言を簡ばざるに大日経に之を説ひて何の詮か有るべきや。二乗若し灰断の執を改めずんば印・真言も無用なり。一代の聖教に皆二乗を永不成仏と簡ぶ、随って大日経にも之を隔つ。皆成仏までこそ無からめ三分が二之を捨て百十が六十余分得道せずんば仏の大悲何かせん。凡そ理の三千之有って成仏すと云ふ上には何の不足か有るべき。成仏に於てはなる仏・中風の覚者は之有るべからず。之を以て案ずるに印・真言は規模無きか。又諸経には始成正覚の旨を談じて三身相即の無始の古仏を顕はさず。本無今有の失有れば大日如来は有名無実なり。寿量品に此の旨を顕はす。釈尊は天の一月、諸仏菩薩は万水に浮べる影なりと見へたり。委細の旨は且く之を置く。又印・真言無くんば祈祷有るべからずと云云。是又以ての外の僻見なり。過去現在の諸仏法華経を離れて成仏すべからず。法華経を以て正覚成じ給ふ。法華経の行者を捨て給はゞ、諸仏還って凡夫と成り給ふべし。恩を知らざる故なり。又未来の諸仏の中の二乗も法華経を離れては永く枯木敗種なり。今は再生なり。華果なり。他経の行者と相論を為す時は華光如来・光明如来等は何れの方に付くべきや。華厳経等の諸経の仏・菩薩・人天乃至四悪趣等の衆は皆法華経に於て一念三千・久遠実成の説を聞きて正覚を成ずべし。何れの方に付くべきや。真言宗等と外道並びに小乗・権大乗の行者等と敵対相論を為す時は甲乙知り難し。法華経の行者に対する時は竜と虎と師子と兎との闘ひの如く諍論分絶えたる者なり。慧亮脳を破するの時、次第位に即き、相応加持するの時、真済の悪霊伏せらるゝ等是なり。一向真言の行者は法華経の行者に劣れる証拠是なり。  問うて云はく、義釈の意は法華経・大日経共に二乗作仏・久遠実成を明かすや如何。答へて云はく、共に之を明かす。義釈に云はく「此の経の心の実相は彼の経の諸法実相なり」云云。又云はく「本初は是寿量の義なり」等云云。問うて云はく、華厳宗の義に云はく、華厳経には二乗作仏・久遠実成之を明かす。天台宗は之を許さず。宗論は且く之を置く。人師を捨てゝ本経を存せば華厳経に於ては二乗作仏・久遠実成の相似の文之有りと雖も実には之無し。之を以て之を思ふに、義釈には大日経に於て二乗作仏・久遠実成を存すと雖も実には之無きか如何。答へて云はく、華厳経の如く相似の文之有りと雖も実義之無きか。私に云はく、二乗作仏無くんば四弘誓願満足すべからず。四弘誓願満ぜずんば又別願も満ずべからず。総別の二願満ぜずんば衆生の成仏も有り難きか。能く能く意得可し云云。問うて云はく、大日経の疏に云はく「大日如来は無始無終なり」と。遥に五百塵点に勝れたり如何。答ふ、毘盧遮那の無始無終なる事、華厳・浄名・般若等の諸大乗経に之を説く。独り大日経のみに非ず。問うて云はく、若し爾らば五百塵点は際限有れば有始有終なり。無始無終は際限無し。然れば則ち法華経は諸経に破せらるゝか如何。答へて云はく、他宗の人は此の義を存す。天台一家に於て此の難を会通する者有り難きか。今大日経並びに諸大乗経の無始無終は法身の無始無終なり。三身の無始無終に非ず。法華経の五百塵点は諸大乗経の破せざる伽耶の始成之を破したる五百塵点なり。大日経等の諸大乗経には全く此の義無し。宝塔の涌現・地涌の涌出・弥勒の疑ひ・寿量品の初めの三誡四請、弥勒菩薩領解の文に「仏希有の法を説きたまふ。昔より今だ曽て聞かざる所なり」等の文是なり。大日経六巻並びに供養法の巻・金剛頂経・蘇悉地経等の諸の真言部の経の中に未だ三止四請・三戒四請・二乗の劫国名号・難信難解等の文を見ず。問うて云はく、五乗の真言如何。答ふ、未だ二乗の真言を知らず。四諦十二因縁の梵語のみ有るなり。又法身平等に会すること有らんや。問うて云はく、慈覚・智証等理同事勝の義を存す。争でか此等の大師等に過ぎんや。答へて云はく、人を見以て人を難ずるは仏の誡めなり。何ぞ汝仏の制誡に違背するや。但経文を以て勝劣の義を存すべし。難じて云はく、末学の身として祖師の言に背かば之を難ぜざらんや。答ふ、末学の祖師に違する之を難ぜば何ぞ智証・慈覚の天台・妙楽に違するを何ぞ之を難ぜざるや。問うて云はく、相違如何。答へて云はく、天台・妙楽の意は已今当の三説の中に法華経に勝れたる経之有るべからず。若し法華経に勝れたる経之有りといはゞ一宗の宗義之を壊るべきの由之を存す。若し大日経法華経に勝るといはゞ、天台・妙楽の宗義忽ちに破るべきか。問うて云はく、天台・妙楽の已今当の宗義証拠経文に有りや。答へて云はく、之有り。法華経法師品に云はく「我が所説の経典は無量千万億已に説き今説き当に説かん。而も其の中に於て此の法華経最も為れ難信難解なり」等云云。此の経文の如くんば五十余年の釈迦所説の一切経の内には法華経最第一なり。難じて云はく、真言師の云はく、法華経は釈迦所説の一切経の中に第一なり。大日経は大日如来所説の経なりと。答へて云はく、釈迦如来より外に大日如来閻浮提に於て八相成道して大日経を説けるか。是一 。六波羅蜜経に云はく「過去現在並びに釈迦牟尼仏の所説の諸経を分かちて五蔵と為し、其の中の第五の陀羅尼蔵は真言なり」と。真言の経、釈迦如来の所説に非ずといはゞ経文に違す 是二。 「我が所説の経典」等の文は釈迦如来の正直捨方便の説なり。大日如来の証明は分身の諸仏広長舌相の経文なり 是三。 五仏の章、尽く諸仏皆法華経を第一なりと説き給ふ。 是四。 「要を以て之を言はゞ如来一切所有の法、乃至皆此の経に於て宣示顕説す」等云云。此の経文の如くならば法華経は釈迦所説の諸経の第一なるのみに非ず、大日如来十方無量諸仏の諸経の中に法華経第一なり。此の外一仏二仏の所説の諸経の中に法華経に勝れたるの経之有りと云はゞ信用すべからず。 是五。 大日経等の諸の真言経の中に法華経に勝れたる由の経文之無し 是六。仏より外の天竺・震旦・日本国の論師人師の中に天台大師より外の人師の所釈の中に一念三千の名目之無し。若し一念三千を立てざれば性悪の義之無し。性悪の義之無くんば仏菩薩の普現色身・不動愛染等の降伏の形・十界の曼荼羅・三十七尊等、本無今有の外道の法に同じきか 是七。 問うて云はく、七義の中一々難勢之有り。然りと雖も六義は且く之を置く。第七の義如何。華厳の澄観・真言の一行等皆性悪の義を存す。何ぞ諸宗に此の義無しと云ふや。答へて云はく、華厳の澄観・真言の一行は天台所立の義を盗んで自宗の義と成すか。此の事余処に勘へたるが如し。問うて云はく、天台大師の玄義の三に云はく「法華は衆経を総括す。乃至舌口中に爛る。人情を以て彼の大虚を局ること莫れ」等云云。釈籤の三に云はく「法華宗極の旨を了せずして、声聞に記する事相のみ華厳・般若の融通無礙なるに如かずと謂ふ。諌暁すれども止まず。舌の爛れんこと何ぞ疑はん。乃至已今当の妙茲に於て固く迷へり。舌爛れて止まざるは猶為れ華報なり。謗法の罪苦長劫に流る」等云云。若し天台・妙楽の釈実ならば、南三北七並びに華厳・法相・三論・東寺の弘法等舌爛れんこと何の疑ひ有らんや。乃至苦流長劫の者なるか。是は且く之を置く。慈覚・智証等の親り此の宗義を承けたる者法華経は大日経より劣るの義存すべし。若し其の義ならば此の人々の「舌爛口中苦流長劫」は如何。答へて云はく、此の義は最上の難の義なり。口伝に在り云云。  文永元年甲子七月二十九日之を記す         日 蓮 花押

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