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松野殿御返事 (十四誹謗抄)

御書3

松野殿御返事 (十四誹謗抄)
建治二年 十二月 九日  五五歳

 鵞目一結・白米一駄・白小袖一つ送り給び畢ぬ。
 抑 此の山と申すは、南は野山漫々として百余里に及べり。北は身延山高く峙ちて白根が岳につゞき、西には七面と申す山峨々として白雪絶えず。人の住家一宇もなし。適問ひくる物とては梢を伝ふ猿猴なれば、少くも留まる事なく還るさへ急ぐ恨みなるかな。東は富士河漲りて流沙の浪に異ならず。かゝる所なれば、訪ふ人も希なるに加様に度々音信せさせ給ふ事、不思議の中の不思議なり。

 実相寺の学徒日源は日蓮に帰伏して所領を捨て、弟子檀那に放され御坐して、我が身だにも置き処なき由承り候に、日蓮を訪ひ衆僧を哀れみさせ給ふ事、誠の道心なり、聖人なり。已に彼の人は無双の学生ぞかし。然るに名聞名利を捨てゝ某が弟子と成りて、我が身には我不愛身命の修行を致し、仏の御恩を報ぜんと面々までも教化申し、此くの如く供養等まで捧げしめ給ふ事不思議なり。末世には、狗犬の僧尼は恒沙の如しと仏は説かせ給ひて候なり。文の意は、末世の僧・比丘尼は名聞名利に著し、上には袈裟衣を著たれば、形は僧・比丘尼に似たれども、内心には邪見の剣を提げて、我が出入りする檀那の所へ余の僧尼をよせじと無量の讒言を致し、余の僧尼を寄せずして檀那を惜しまん事、譬へば犬が前に人の家に至りて物を得て食らふが、後に犬の来たるを見て、いがみほへ食ひ合ふが如くなるべしと云ふ心なり。是くの如きの僧尼は皆々悪道に堕すべきなり。此の学徒日源は学生なれば此の文をや見させ給ひけん。殊の外に僧衆を訪ひ顧み給ふ事、誠に有り難く覚え候。

 御文に云はく、此の経を持ち申して後、退転なく十如是・自我偈を読み奉り、題目を唱へ申し候なり。但し聖人の唱へさせ給ふ題目の功徳と、我等が唱へ申す題目の功徳と、何程の多少候べきやと云云。更に勝劣あるべからず候。其の故は、愚者の持ちたる金も智者の持ちたる金も、愚者の燃せる火も智者の燃せる火も、其の差別なきなり。但し此の経の心に背きて唱へば、其の差別有るべきなり。此の経の修行に重々のしなあり。其の大概を申せば、記の五に云はく「悪の数を明かすをば今の文には説不説と云ふのみ」と。有る人此を分かって云はく「先に悪因を列ね、次に悪果を列ぬ。悪の因に十四あり。一に・慢・二に懈怠・三に計我・四に浅識・五に著欲・六に不解・七に不信・八に顰蹙・九に疑惑・十に誹謗・十一に軽善・十二に憎善・十三に嫉善・十四に恨善なり」と。此の十四の誹謗は在家出家に亘るべし。恐るべし恐るべし。過去の不軽菩薩は一切衆生に仏性あり、法華経を持たば必ず成仏すべし、彼を軽んじては仏を軽んずるになるべしとて、礼拝の行をば立てさせ給ひしなり。法華経を持たざる者をさへ若し持ちやせんずらん、仏性ありとてかくの如く礼拝し給ふ。何に況んや持てる在家出家の者をや。此の経の四の巻には「若しは在家にてもあれ、出家にてもあれ、法華経を持ち説く者を一言にても毀る事あらば其の罪多き事、釈迦仏を一劫の間直ちに毀り奉る罪には勝れたり」と見へたり。或は「若実若不実」とも説かれたり。之を以て之を思ふに、忘れても法華経を持つ者をば互ひに毀るべからざるか。其の故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり。仏を毀りては罪を得るなり。

 加様に心得て唱ふる題目の功徳は釈尊の御功徳と等しかるべし。釈に云はく「阿鼻の依正は全く極聖の自身に処し、毘盧の身土は凡下の一念を逾えず」云云。十四の誹謗の心は文に任せて推量あるべし。加様に法門を御尋ね候事、誠に後世を願はせ給ふ人か。「能く是の法を聴く者は斯の人亦復難し」とて、此の経は正しき仏の御使ひ世に出でずんば仏の御本意の如く説く事難き上、此の経のいはれを問ひ尋ねて不審を明らめ、能く信ずる者難かるべしと見えて候。何に賤しき者なりとも、少し我より勝れて智慧ある人には、此の経のいはれを問ひ尋ね給ふべし。然るに悪世の衆生は、我慢偏執・名聞名利に著して、彼が弟子と成るべきか、彼に物を習はゞ人にや賤しく思はれんずらんと、不断悪念に住して悪道に堕すべしと見えて候。法師品には「人有って八十億劫の間、無量の宝を尽くして仏を供養し奉らん功徳よりも、法華経を説かん僧を供養して、後に須臾の間も此の経の法門を聴聞する事あらば、我大なる利益功徳を得べしと悦ぶべし」と見えたり。無智の者は此の経を説く者に使はれて功徳をうべし。何なる鬼畜なりとも、法華経の一偈一句をも説かん者をば「当起遠迎当如敬仏」の道理なれば仏の如く互ひに敬ふべし。例へば宝塔品の時の釈迦多宝の如くなるべし。

 此の三位房は下劣の者なれども、少分も法華経の法門を申す者なれば、仏の如く敬ひて法門を御尋ねあるべし。依法不依人此を思ふべし。されば昔独りの人有って雪山と申す山に住み給ひき。其の名を雪山童子と云ふ。蕨ををり菓を拾ひて命をつぎ、鹿の皮を著物とこしらへ肌をかくし、閑かに道を行じ給ひき。此の雪山童子をもはれけるは、倩世間を観ずるに、生死無常の理なれば生ずる者は必ず死す。されば憂き世の中のあだにはかなき事、譬へば電光の如く、朝露の日に向かひて消ゆるに似たり。風の前の灯の消へやすく、芭蕉の葉の破れやすきに異ならず。人皆此の無常を遁れず、終に一度は黄泉の旅に趣くべし。然れば冥途の旅を思ふに、闇々としてくらければ日月星宿の光もなく、せめて灯燭とてともす火だにもなし。かゝる闇き道に又ともなふ人もなし。娑婆にある時は、親類・兄弟・妻子・眷属集まりて父は慈れみの志高く、母は悲しみの情深く、夫妻は偕老同穴の契りとて、大海にあるえびは同じ畜生ながら夫妻ちぎり細やかに、一生一処にともなひて離れ去る事なきが如し。鴛鴦の衾の下に枕を並べて遊び戯る仲なれども、彼の冥途の旅には伴ふ事なし。冥々として独り行く。誰か来たりて是非を訪はんや。或は老少不定の境なれば、老いたるは先立ち若きは留まる。是は順次の道理なり。歎きの中にもせめて思ひなぐさむ方も有りぬべし。老いたるは留まり、若きは先立つ。されば恨みの至って恨めしきは幼くして親に先立つ子、歎きの至って歎かしきは老いて子を先立つる親なり。是くの如く生死無常、老少不定の境、あだにはかなき世の中に、但昼夜に今生の貯へをのみ思ひ、朝夕に現世の業をのみなして、仏をも敬はず、法をも信ぜず。無行無智にして徒に明かし暮らして、閻魔の庁庭に引き迎へられん時は、何を以てか資糧として三界の長途を行き、何を以て船筏として生死の曠海を渡りて、実報・寂光の仏土に至らんやと思ひ、迷へば夢、覚れば寤。しかじ、夢の憂き世を捨てゝ寤の覚りを求めんにはと思惟し、彼の山に篭りて観念の床の上に妄想顛倒の塵を払ひ、偏に仏法を求め給ふ所に、帝釈遥かに天より見下ろし給ひて思し食さるゝ様は、魚の子は多けれども魚となるは少なく、菴羅樹の花は多くさけども菓になるは少なし。人も又此くの如し。菩提心を発こす人は多けれども退せずして実の道に入る者は少なし。都て凡夫の菩提心は多く悪縁にたぼらかされ、事にふれて移りやすき物なり。鎧を著たる兵者は多けれども、戦に恐れをなさゞるは少なきが如し。此の人の意を行きて試みばやと思ひて、帝釈鬼神の形を現じ童子の側に立ち給ふ。其の時仏世にましまさざれば、雪山童子普く大乗経を求むるに聞くことあたはず。時に「諸行無常、是生滅法」と云ふ音ほのかに聞こゆ。童子驚き四方を見給ふに人もなし。但鬼神近付いて立ちたり。其の形けはしくをそろしくして、頭のかみは炎の如く、口の歯は剣の如く、目を瞋らして雪山童子をまぼり奉る。此を見るにも恐れず、偏に仏法を聞く事を喜び、怪しむ事なし。譬へば母を離れたるこうし、ほのかに母の音を聞きつるが如し。此の事誰か誦しつるぞ。いまだ残りの語あらんとて普く尋ね求むるに、更に人もなければ、若しも此の語は鬼神の説きつるかと疑へども、よもさはあらじと思ひ、彼の身は罪報の鬼神の形なり、此の偈は仏の説き給へる語なり、かゝる賤しき鬼神の口より出づべからずとは思へども、亦殊に人もなければ、若し此の語汝が説きつるかと問へば、鬼神答へて云ふ、我に物な云ひそ。食せずして日数を経ぬれば、飢え疲れて正念を覚えず。既にあだごと云ひつるならん。我うつける意にて云へば、知る事もあらじと答ふ。童子の云はく、我は此の半偈を聞きつる事、半ばなる月を見るが如く、半ばなる玉を得るに似たり。慥かに汝が語なり。願はくは残れる偈を説き給へとのたまふ。鬼神の云はく、汝は本より悟りあれば、聞かずとも恨みは有るべからず。吾は今飢ゑに責められたれば、物を云ふべき力なし。都て我に向かひて物な云ひそと云ふ。童子猶物を食ひては説かんやと問ふ。鬼神答へて、食ひては説きてんと云ふ。童子悦びてさて何物をか食とするぞと問へば、鬼神の云はく、汝更に問ふべからず。此を聞きては必ず恐れを成さん。亦汝が求むべき物にもあらずと云へば、童子猶責めて問ひ給はく、其の物をとだにも云はゞ心みにも求めんとの給へば、鬼神の云はく、我は但人の和らかなる肉を食し、人のあたゝかなる血を飲む。空を飛び普く求むれども、人をば各守り給ふ仏神ましませば、心に任せて殺しがたし。仏神の捨て給ふ衆生を殺して食するなりと云ふ。其の時雪山童子の思ひ給はく、我法の為に身を捨て、此の偈を聞き畢らんと思ひて、汝が食物こゝに有り、外に求むべきにあらず。我が身いまだ死せず、其の肉あたゝかなり。我が身いまだ寒ず、其の血あたゝかならん。願はくは残りの偈を説き給へ、此の身を汝に与へんと云ふ。時に鬼神大いに瞋りて云はく、誰か汝が語を実とは憑むべき。聞いて後には誰をか証人として糾さんと云ふ。雪山童子の云はく、此の身は終に死すべし、徒に死せん命を法の為に投げば、きたなくけがらはしき身を捨てゝ、後生は必ず覚りを開き、仏となり、清妙なる身を受くべし。土器を捨てゝ宝器に替ゆるが如くなるべし。梵天・帝釈・四大天王・十方の諸仏・菩薩を皆証人とせん。我更に偽るべからずとの給へり。其の時鬼神少し和らひで、若し汝が云ふ処実ならば偈を説かんと云ふ。其の時雪山童子大いに悦んで、身に著たる鹿の皮を脱いで法座に敷き、頭を地に付け掌を合はせ跪き、但願はくは我が為に残りの偈を説き給へと云ひて、至心に深く敬ひ給ふ。さて法座に登り鬼神偈を説いて云はく「生滅滅已、寂滅為楽」と。此の時、雪山童子是を聞き、悦び貴み給ふ事限りなく、後世までも忘れじと度々誦して深く其の心にそめ、悦ばしき処はこれ仏の説き給へるにも異ならず。歎かはしき処は我一人のみ聞きて人の為に伝へざらん事をと深く思ひて、石の上、壁の面、路の辺の諸木ごとに此の偈を書き付け、願はくは後に来たらん人必ず此の文を見、其の義理をさとり、実の道に入れと云ひ畢って、即ち高き木に登りて鬼神の前に落ち給へり。いまだ地に至らざるに、鬼神俄かに帝釈の形と成りて、雪山童子の其の身を受け取りて、平らかなる所にすえ奉りて、恭敬礼拝して云はく、我暫く如来の聖教を惜しみて試みに菩薩の心を悩し奉るなり。願はくは此の罪を許して、後世には必ず救ひ給へと云ふ。一切の天人又来たりて、善哉善哉、実に是菩薩なりと讃め給ふ。半偈の為に身を投げて、十二劫生死の罪を滅し給へり。此の事涅槃経に見えたり。然れば雪山童子の古を思へば、半偈の為に猶命を捨て給ふ。何に況んや此の経の一品・一巻を聴聞せん恩徳をや。何を以てか此を報ぜん。尤も後世を願はんには、彼の雪山童子の如くこそあらまほしくは候へ。誠に我が身貧にして布施すべき宝なくば、我が身命を捨て仏法を得べき便りあらば、身命を捨てゝ仏法を学すべし。

 とても此の身は徒に山野の土と成るべし。惜しみても何かせん。惜しむとも惜しみとぐべからず。人久しといえども百年には過ぎず。其の間の事は但一睡の夢ぞかし。受けがたき人身を得て、適出家せる者も、仏法を学し謗法の者を責めずして、徒に遊戯雑談のみして明かし暮らさん者は、法師の皮を著たる畜生なり。法師の名を借りて世を渡り身を養ふといへども、法師となる義は一つもなし。法師と云ふ名字をぬすめる盗人なり。恥づべし、恐るべし。迹門には「我身命を愛せず但無上道を惜しむ」ととき、本門には「自ら身命を惜しまず」ととき、涅槃経には「身は軽く法は重し、身を死して法を弘む」と見えたり。本迹両門・涅槃経共に身命を捨てゝ法を弘むべしと見えたり。此等の禁めを背く重罪は目には見えざれども、積もりて地獄に堕つる事、譬へば寒熱の姿形もなく、眼には見えざれども、冬は寒来たりて草木人畜をせめ、夏は熱来たりて人畜を熱悩せしむるが如くなるべし。

 然るに在家の御身は、但余念なく南無妙法蓮華経と御唱へありて、僧をも供養し給ふが肝心にて候なり。それも経文の如くならば随力演説も有るべきか。世の中ものうからん時も今生の苦さへかなしし。況してや来世の苦をやと思し食しても南無妙法蓮華経と唱へ、悦ばしからん時も今生の悦びは夢の中の夢、霊山浄土の悦びこそ実の悦ひなれと思し食し合はせて又南無妙法蓮華経と唱へ、退転なく修行して最後臨終の時を待って御覧ぜよ。妙覚の山に走り登りて四方をきつと見るならば、あら面白や法界寂光土にして瑠璃を以て地とし、金の縄を以て八つの道を界へり。天より四種の花ふり、虚空に音楽聞こえて、諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき、娯楽快楽し給ふぞや。我等も其の数に列なりて遊戯し楽しむべき事はや近づけり。信心弱くしてはかゝる目出たき所に行くべからず、行くべからず。不審の事をば尚々承るべく候。穴賢穴賢。
   十二月九日             日  蓮 花押
 松野殿御返事

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