減劫御書 (智慧亡国御書)
建治元年 五四歳
減劫と申すは人の心の内に候。貪・瞋・癡の三毒が次第に強盛になりもてゆくほどに、次第に人のいのちもつゞまり、せいもちいさくなりもてまかるなり。漢土・日本国は仏法已前には三皇・五帝・三聖等の外経をもて、民の心をとゝのへてよをば治めしほどに、次第に人の心はよきことははかなく、わるき事はかしこくなりしかば、外経の智あさきゆへに悪のふかき失をいましめがたし。外経をもって世をさまらざりしゆへに、やうやく仏経をわたして世間ををさめしかば世をだやかなりき。此はひとへに仏教のかしこきによて、人民の心をくはしくあかせるなり。当時の外典と申すは、本の外経の心にはあらず。仏法のわたりし時は外経と仏経とあらそいしかども、やうやく外経まけて王と民と用ひざりしかば、外経のもの内経の所従となりて立ちあうことなくありしほどに、外経の人々内経の心をぬきて智慧をまし、外経に入れて候を、をろかなる王は外典のかしこきかとをもう。
又人の心やうやく善の智慧ははかなく、悪の智慧かしこくなりしかば、仏経の中にも小乗経の智慧世間ををさむるに、代をさまることなし。其の時大乗経をひろめて代ををさめしかば、すこし代をさまりぬ。其の後、大乗経の智慧及ばざりしかば、一乗経の智慧をとりいだして代ををさめしかば、すこししばらく代をさまりぬ。今の代は外経も、小乗経も、大乗経も、一乗法華経等も、かなわぬよとなれり。ゆへいかんとなれば、衆生の貪・瞋・癡の心のかしこきこと、大覚世尊の大善にかしこきがごとし。譬へば犬は鼻のかしこき事人にすぎたり。又鼻の禽獣をかぐことは、大聖の鼻通にもをとらず。ふくろうがみゝのかしこき、とびの眼のかしこき、すゞめの舌のかろき、りうの身のかしこき、皆かしこき人にもすぐれて候。そのやうに末代濁世の心の貪欲・瞋恚・愚癡のかしこさは、いかなる賢人聖人も治めがたき事なり。其の故は貪欲をば仏不浄観の薬をもて治し、瞋恚をば慈悲観をもて治し、愚癡をば十二因縁観をもてこそ治し給ふに、いまは此の法門をとひて、人ををとして貪欲・瞋恚・愚癡をますなり。譬へば火をば水をもってけす、悪をば善をもって打つ。しかるにかへりて水より出でぬる火をば、水をかくればあぶらになりて、いよいよ大火となるなり。
今末代悪世に世間の悪より出世の法門につきて大悪出生せり。これをばしらずして、今の人々善根をすゝれば、いよいよ代のほろぶる事出来せり。今の代の天台真言等の諸宗の僧等をやしなうは、外は善根とこそ見ゆれども、内は十悪五逆にもすぎたる大悪なり。しかれば代のをさまらん事は、大覚世尊の智慧のごとくなる智人世に有りて、仙予国王のごとくなる賢王とよりあひて、一向に善根をとゞめ、大悪をもて八宗の智人とをもうものを、或はせめ、或はながし、或はせをとゞめ、或は頭をはねてこそ代はすこしをさまるべきにて候へ。
法華経の第一の巻の「諸法実相乃至唯仏与仏乃能究尽」ととかれて候はこれなり。本末究竟と申すは、本とは悪のね善の根、末と申すは悪のをわり善の終はりぞかし。善悪の根本枝葉をさとり極めたるを仏とは申すなり。天台云はく「夫一心に十法界を具す」等云云。章安云はく「仏尚此を大事と為す、何ぞ解し易きことを得べけんや」と。妙楽云はく「乃ち是終窮究竟の極説なり」等云云。法華経に云はく「皆実相と相ひ違背せず」等云云。天台之を承けて云はく「一切世間の治生産業は皆実相と相ひ違背せず」等云云。智者とは世間の法より外に仏法を行なはず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり。殷の代の濁りて民のわづらいしを、太公望出世して殷の紂が頚を切りて民のなげきをやめ、二世王が民の口ににがかりし、張良出でて代ををさめ民の口をあまくせし、此等は仏法已前なれども、教主釈尊の御使ひとして民をたすけしなり。外経の人々はしらざりしかども、彼等の人々の智慧は、内心には仏法の智慧をさしはさみたりしなり。
今の代には正嘉の大地震、文永の大せひせひの時、智慧かしこき国主あらましかば、日蓮をば用ひつべかりしなり。それこそなからめ、文永九年のどしうち、十一年の蒙古のせめの時は、周の文王の太公望をむかへしがごとく、殷の高丁王の傅悦を七里より請ぜしがごとくすべかりしぞかし。日月は生き盲の者には財にあらず、賢人をば愚王のにくむとはこれなり。しげきゆへにしるさず。法華経の御心と申すはこれてひの事にて候。外のこととをぼすべからず。大悪は大善の来たるべき瑞相なり。一閻浮提うちみだすならば、閻浮提内広令流布はよも疑ひ候はじ。
此の大進阿闍梨を故六郎入道殿の御はかへつかわし候。むかしこの法門を聞いて候人々には、関東の内ならば、我とゆきて其のはかに自我偈よみ候はんと存じて候。しかれども当時のありさまは、日蓮かしこへゆくならば、其の日に一国にきこへ、又かまくらまでもさわぎ候はんか。心ざしある人なりとも、ゆきたらんところの人、人めををそれぬべし。いまゝでとぶらい候はねば、聖霊いかにこひしくをはすらんとをもへば、あるやうもありなん。そのほどまづ弟子をつかわして御はかに自我偈をよませまいらせしなり。其の由御心へ候へ。恐々謹言。