佐渡御書 文永九年 三月 二十日 五一歳
世間に人の恐るゝ者は、火炎の中と刀剣の影と此の身の死するとなるべし。牛馬猶身を惜しむ、況んや人身をや。癩人猶命を惜しむ、何に況んや壮人をや。仏説いて云はく「七宝を以て三千大千世界に布き満つるとも、手の小指を以て仏経に供養せんには如かず」取意。雪山童子の身をなげし、楽法梵志が身の皮をはぎし、身命に過ぎたる惜しき者のなければ、是を布施として仏法を習へば必ず仏となる。身命を捨つる人、他の宝を仏法に惜しむべしや。又財宝を仏法におしまん物、まさる身命を捨つべきや。世間の法にも重恩をば命を捨て報ずるなるべし。又主君の為に命を捨つる人は、すくなきようなれども其の数多し。男子ははじに命を捨て、女人は男の為に命をすつ。魚は命を惜しむ故に、池にすむに池の浅き事を歎きて池の底に穴をほりてすむ。しかれどもゑにばかされて釣をのむ。鳥は木にすむ。木のひきゝ事をおじて木の上枝にすむ。しかれどもゑにばかされて網にかゝる。人も又是くの如し。世間の浅き事には身命を失へども、大事の仏法なんどには捨つる事難し。故に仏になる人もなかるべし。
仏法は摂受・折伏時によるべし。譬へば世間の文武二道の如し。されば昔の大聖は時によりて法を行ず。雪山童子・薩・王子は、身を布施とせば法を教へん、菩薩の行となるべしと責めしかば身をすつ。肉をほしがらざる時、身を捨つべきや。紙なからん世には身の皮を紙とし、筆なからん時は骨を筆とすべし。破戒無戒を毀り、持戒正法を用ひん世には、諸戒を堅く持つべし。儒教・道教を以て釈教を制止せん日には、道安法師・慧遠法師・法道三蔵等の如く、王と論じて命を軽うすべし。釈教の中に小乗・大乗・権経・実経雑乱して明珠と瓦礫と牛驢の二乳を弁へざる時は、天台大師・伝教大師等の如く大小・権実・顕密を強盛に分別すべし。畜生の心は弱きをおどし強きをおそる。当世の学者等は畜生の如し。智者の弱きをあなづり王法の邪をおそる。諛臣と申すは是なり。強敵を伏して始めて力士をしる。悪王の正法を破るに、邪法の僧等が方人をなして智者を失はん時は、師子王の如くなる心をもてる者必ず仏になるべし。例せば日蓮が如し。これおごれるにはあらず、正法を惜しむ心の強盛なるべし。おごる者は必ず強敵に値ひておそるゝ心出来するなり。例せば修羅のおごり、帝釈にせめられて、無熱池の蓮の中に小身と成りて隠れしが如し。正法は一字一句なれども時機に叶ひぬれば必ず得道なるべし。千経万論を習学すれども、時機に相違すれば叶ふべからず。
宝治の合戦すでに二十六年、今年二月十一日十七日又合戦あり。外道悪人は如来の正法を破りがたし。仏弟子等必ず仏法を破るべし。「師子身中の虫の師子を食む」等云云。大果報の人をば他の敵やぶりがたし。親しみより破るべし。薬師経に云はく「自界叛逆難」是なり。仁王経に云はく「聖人去る時七難必ず起こらん」云云。金光明経に云はく「三十三天各瞋恨を生ずるは、其の国王悪を縦にして治せざるに由る」等云云。
日蓮は聖人にあらざれども、法華経を説の如く受持すれば聖人の如し。又世間の作法兼ねて知るによって、注し置くこと是違ふべからず。現世に云ひをく言の違はざらんをもて後生の疑ひをなすべからず。日蓮は此の関東の御一門の棟梁なり、日月なり、亀鏡なり、眼目なり、日蓮捨て去る時七難必ず起こるべしと、去年九月十二日御勘気を蒙りし時、大音声を放ちてよばはりし事これなるべし。纔かに六十日乃至百五十日に此の事起こるか。是は華報なるべし。実果の成ぜん時いかゞなげかはしからんずらん。
世間の愚者の思ひに云はく、日蓮智者ならば何ぞ王難に値ふやなんど申す。日蓮兼ねての存知なり。父母を打つ子あり、阿闍世王なり。仏・阿羅漢を殺し血を出だす者あり、提婆達多是なり。六臣これをほめ、瞿伽利等これを悦ぶ。日蓮当世には此の御一門の父母なり。仏・阿羅漢の如し。然るを流罪して主従共に悦びぬる、あはれに無慚なる者なり。謗法の法師等が自ら禍の既に顕はるゝを歎きしが、かくなるを一旦は悦ぶなるべし。後には彼等が歎き日蓮が一門に劣るべからず。例せば泰衡がせうとを討ち、九郎判官を討ちて悦びしが如し。既に一門を亡ぼす大鬼の此の国に入るなるべし。法華経に云はく「悪鬼入其身」是なり。
日蓮も又かくせめらるゝも先業なきにあらず。不軽品に云はく「其罪畢已」等云云。不軽菩薩の無量の謗法の者に罵詈打擲せられしも、先業の所感なるべし。何に況んや、日蓮今生には貧窮下賤の者と生まれ旃陀羅が家より出でたり。心こそすこし法華経を信じたる様なれども、身は人身に似て畜身なり。魚鳥を混丸して赤白二とせり。其の中に識神をやどす。濁水に月のうつれるが如し。糞嚢に金をつゝめるなるべし。心は法華経を信ずる故に梵天・帝釈をも猶恐ろしと思はず、身は畜身の身なり。色心不相応の故に愚者のあなづる道理なり。心も又身に対すればこそ月・金にもたとふれ。又過去の謗法を案ずるに誰かしる。勝意比丘が魂にもや、大天が神にもや。不軽軽毀の流類なるか、失心の余残なるか、五千上慢の眷属なるか、大通第三の余流にもやあるらん、宿業はかりがたし。鉄は炎打てば剣となる。賢聖は罵詈して試みるなるべし。我今度の御勘気は世間の失一分もなし。偏に先業の重罪を今生に消して、後生の三悪を脱れんずるなるべし。
般泥洹経に云はく「当来の世、仮りに袈裟を被て我が法の中に於て出家学道し、懶惰懈怠にして此等の方等契経を誹謗すること有らん。当に知るべし、此等は皆是今日の諸の異道の輩なり」等云云。此の経文を見ん者自身をはづべし。今我等が出家して袈裟をかけ懶惰懈怠なるは、是仏在世の六師外道が弟子なりと仏記し給へり。法然が一類、大日が一類、念仏宗・禅宗と号して、法華経に捨閉閣抛の四字を副へて制止を加へて、権経の弥陀称名計りを取り立て、教外別伝と号して法華経を月をさす指、只文字をかぞふるなんど笑ふ者は、六師が末流の仏教の中に出来せるなるべし。うれへなるかなや。
涅槃経に仏光明を放ちて地の下一百三十六地獄を照らし給ふに、罪人一人もなかるべし。法華経の寿量品にして皆成仏せる故なり。但し一闡提人と申して謗法の者計り地獄守に留められたりき。彼等がうみひろげて、今の世の日本国の一切衆生となれるなり。日蓮も過去の種子已に謗法の者なれば、今生に念仏者にて数年が間、法華経の行者を見ては未有一人得者千中無一等と笑ひしなり。今謗法の酔ひさめて見れば、酒に酔へる者父母を打ちて悦びしが、酔ひさめて後歎きしが如し。歎けども甲斐なし、此の罪消えがたし。何に況んや過去の謗法の心中にそみけんをや。経文を見候へば、烏の黒きも鷺の白きも先業のつよくそみけるなるべし。外道は知らずして自然と云ひ、今の人は謗法を顕はして扶けんとすれば、我が身に謗法なき由をあながちに陳答して、法華経の門を閉じよと法然が書けるをとかくあらがひなんどす。念仏者はさておきぬ。天台・真言等の人々、彼が方人をあながちにするなり。今年正月十六日十七日に佐渡国の念仏者等数百人、印性房と申すは念仏者の棟梁なり。日蓮が許に来て云はく、法然上人は法華経を抛てよとかかせ給ふには非ず、一切衆生に念仏を申させ給ひて候。此の大功徳に御往生疑ひなしと書き付けて候を、山僧等の流されたる並びに寺法師等、善きかな善きかなとほめ候をいかゞこれを破し給ふと申しき。鎌倉の念仏者よりもはるかにはかなく候ぞ。無慚とも申す計りなし。
いよいよ日蓮が先生・今生・先日の謗法おそろし。かゝりける者の弟子と成りけん、かゝる国に生まれけん、いかになるべしとも覚えず。般泥・経に云はく「善男子過去に無量の諸罪・種々の悪業を作らんに、是の諸の罪報或は軽易せられ、或は形状醜陋にして、衣服足らず、飲食麁疎にして、財を求めて利あらず、貧賤の家及び邪見の家に生まれ、或は王難に遭ふ」等云云。又云はく「及び余の種々の人間の苦報現世に軽く受くるは、斯れ護法の功徳力に由る故なり」等云云。此の経文は日蓮が身なくば、殆ど仏の妄語となりぬべし。一には「或は軽易せらる」、二には「或は形状醜陋」、三には「衣服足らず」、四には「飲食麁疎)」、五には「財を求むるに利あらず」、六には「貧賤の家に生まる」、七には「及び邪見の家」、八には「或は王難に遭ふ」等云云。此の八句は只日蓮一人が身に感ぜり。高山に登る者は必ず下り、我人を軽しめば還って我が身人に軽易せられん。形状端厳をそしれば醜陋の報いを得。人の衣服飲食をうばへば必ず餓鬼となる。持戒尊貴を笑へば貧賤の家に生ず。正法の家をそしれば邪見の家に生ず。善戒を笑へば国土の民となり王難に値ふ。是は常の因果の定まれる法なり。
日蓮は此の因果にはあらず。法華経の行者を過去に軽易せし故に、法華経は月と月とを並べ、星と星とをつらね、華山に華山をかさね、玉と玉とをつらねたるが如くなる御経を、或は上げ或は下して嘲哢せし故に、此の八種の大難に値へるなり。此の八種は尽未来際が間一つづつこそ現ずべかりしを、日蓮つよく法華経の敵を責むるによて一時に聚まり起こせるなり。譬へば民の郷郡なんどにあるには、いかなる利銭を地頭等にはおほせたれども、いたくせめず、年々にのべゆく。其の所を出づる時に競ひ起こるが如し。「斯れ護法の功徳力に由る故なり」等は是なり。法華経には「諸の無智の人有って悪口罵詈等し刀杖瓦石を加ふ。乃至国王・大臣・婆羅門・居士に向かって、乃至数々擯出せられん」等云云。獄卒が罪人を責めずば地獄を出づる者かたかりなん。当世の王臣なくば、日蓮が過去謗法の重罪消し難し。日蓮は過去の不軽の如く、当世の人々は彼の軽毀の四衆の如し。人は替はれども因は是一なり。父母を殺せる人異なれども、同じ無間地獄におつ。いかなれば、不軽の因を行じて日蓮一人釈迦仏とならざるべき。又彼の諸人は跋陀婆羅等と云はれざらんや。但千劫阿鼻地獄にて責められん事こそ不便にはおぼゆれ。是をいかんとすべき。彼の軽毀の衆は始めは謗ぜしかども後には信伏随従せりき。罪多分は滅して少分有りしが、父母千人殺したる程の大苦をうく。当世の諸人は翻す心なし。三譬喩品の如く無数劫をや経んずらん。三五の塵点をやおくらんずらん。
これはさてをきぬ。日蓮を信ずるようなりし者どもが、日蓮がかくなれば疑ひををこして法華経をすつるのみならず、かへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人等が、念仏者よりも久しく阿鼻地獄にあらん事、不便とも申す計りなし。修羅が仏は十八界我は十九界と云ひ、外道が云はく、仏は一究竟道、我は九十五究竟道と云ひしが如く、日蓮御房は師匠にてはおはせども余りにこはし。我等はやはらかに法華経を弘むべしと云はんは、蛍火が日月をわらひ、蟻塚が華山を下し、井江が河海をあなづり、烏鵲が鸞鳳をわらふなるべし、わらふなるべし。南無妙法蓮華経。
文永九年太歳壬申三月二十日 日 蓮 花押
日蓮弟子檀那等御中
佐渡の国は紙候はぬ上、面々に申せば煩ひあり、一人ももるれば恨みありぬべし。此の文を心ざしあらん人々は寄り合ふて御覧じ、料簡候ひて心なぐさませ給へ。世間に、まさる歎きだにも出来すれば劣る歎きは物ならず。当時の軍に死する人々、実不実は置く、幾か悲しかるらん。いざはの入道・さかべの入道いかになりぬらん。かわのべの山城・得行寺殿等の事、いかにと書き付けて給ふべし。外典書の貞観政要、すべて外典の物語、八宗の相伝等、此等がなくしては消息もかゝれ候はぬに、かまへてかまへて給び候べし。
此の文は富木殿のかた、三郎左衛門殿・大蔵たうのつじ十郎入道殿等・さじきの尼御前、一々に見させ給ふべき人々の御中へなり。京・鎌倉に軍に死せる人々を書き付けてたび候へ。外典抄・文句二・玄四本末・勘文・宣旨等、これへの人々もちてわたらせ給へ。