立正佼成会を破す(2) 法華の心をころす立正佼成会

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諸宗教破折2
11/3/2016

教義破折
法華の心をころす
庭野日敬が霊友会から脱会したきっかけは、法華経の勉強がからんでいたことは先に述べた通りです。
諸経の中で、法華経が最も尊いことは判っていたようですが、法華経の説かれた本来の意義までは理解していなかったようです。例えば、次のような発言があります。

「ここで誤解してはならないのは、いままで真実でないことをお説きになったというのではない、いままでの説法もすべて真実には違いないのだが、まだ真実の中の真実を『すっかり』出し切ってはいなかったという意味です」(法華経の新しい解釈)

これは、無量義経の
「四十余年未顕真実」の文を解釈した個所ですが、いかがでしょうか。無量義経の文の四十余年の諸経は、随他意の対機説法であり、あくまでも応病与薬の方便説、仏の悟った成仏の法ではない、これから説くところの妙法蓮華が、一切衆生を救うべき真実法である、というのが本来の意味です。その意を受けるからこそ、次の『方便品』の文義が明瞭となるのです。

「世尊は法久して後要當に眞實を説きたもうべし」(開結93頁)
「正直に方便を捨て但無上道を説く」(開結124頁)

そしてまた日敬は、四諦したい・十二因縁・六波羅蜜等が、あたかも法華経の根本的教義であるかのように教えています。
法華経の序品には確かに四諦等の文字が出てきますが、それはあくまでも
声聞には四諦(苦・集・滅・道)、
縁覚には十二因縁(無明・行・識等)、
菩薩には六波羅蜜(布施・持戒等)

をというように、仏がそれぞれ機根に応じて救う方法をとってきた過去のいきさつを説明したにすぎないのです。
それを日敬は、仏の本懐、あるいは法華経の根本義といわんばかりに解説していますから間違いです。
「『四諦』(したい)『六波羅蜜』(ろくはらみつ)というのは、どうしたらわたしたちが日常の生活において直面する苦しみや悩みを根本的に解決して、絶対安穏の境地を得られるかを教えた法門で、釈尊の教えの大きな中心をなすもの」(法華経の新しい解釈)ともあります。
法華経が純円の実大乗経であることを知っていたならば、四諦等の小乗の教理を法華経に混入させることはなかったと思いますが、ともあれ仏法の不純性を生む在家教団の宿命ともいえましょう。
『無量義経』には次のようにあります。

「未だ六波羅蜜を修行することを得ずと雖いえども、六波羅蜜自然に在前し」(開結六五三頁)

これを大聖人は『観心本尊抄』に

「文の心は、釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」(如来滅後五五百歳始観心本尊抄 御書六五三頁)
と説明されています。

釈尊の出世の本懐といわれる法華経は、十界互具・一念三千・二乗と悪人・女人の成仏義、あるいは仏の三世常住を顕わしたものです。
更には「権門の理」を破して妙法広布をするところに、その本意があるはずです。
佼成会の教えには、それらの内容が全くありません。かえって法華経の理をくつがえす内容ばかりが目立ちます。
次の発言もその一例です。

「地獄界にいるものにも、修羅界にいるものにも仏性の種はほんのチョッピリながらあるのであって」(法華経の新しい解釈)
「チョッピリある」とはおよそ不適当な表現です。

「悉有仏性」
の仏語を疑い、十界互具の理を壊す誤った解釈と言わざるをえません。
また、次のような仏の本迹論をふりまわす個所もあります。
「この宇宙ができてからこのかた、ずっと仏は宇宙のどこにも満ち満ちておられるわけです。そういう意味の仏を『本仏』といいます。その『本仏』が必要あって人間の形をとってこの世に出現されたのが『迹仏』としての釈尊です。(略)ですから、『本仏』『迹仏』どちらが尊いとも、大切だとも、区別することはできないわけです」(法華経の新しい解釈)

なんとも浅はかな理解の仕方でしょう。
始成正覚と久遠実成の仏の本迹は天地雲泥の相違があることを知るべきです。
伝教大師は法華秀句という書き物の中で、

「雖讃法華経還死法華心」(法華経を讃さんすと雖いえども還かえって法華の心を死ころす)と言っています。

法華経をほめたたえているつもりでも、かえって法華経の本意をころしてしまう、との意味です。
佼成会の日敬は、まさに法華経の心をころした人と言えます。

本尊に迷う
佼成会は、霊友会の祖霊信仰を受け継いだ教団ですから、独自の本尊はもともとありません。
今でこそ「久遠実成大恩教主釈迦牟尼世尊」を一応の礼拝対象と統一していますが、常々の観念としては雑多なものを本尊としているようです。佼成会が今使ってる経本の観念文には、釈迦の外に次のようなメンバーが載っています。

多宝如来、
十方分身三世の諸仏、
上行・無辺行・浄行・安立行の四大菩薩・
文殊・普賢・弥勒みろく等の菩薩、
高祖日蓮大菩薩、
末法鎮守七面大明神、
諸天善神

等です。
本尊とは「根本尊崇」(根本から尊とうとび崇あがめる)の略です。
御書には、

「本尊とは勝れたるを用ふべし」(本尊問答抄 御書1275頁)
とあります。勝れたものは、そんなにたくさんあるはずがありません。尊いものがたくさんあるように見えるのは、取りも直さず迷っている証拠です。
なお、松野純孝編による「新宗教辞典」には、佼成会の本尊について、次のように解説しています。
「霊友会教団から独立したころは、霊友会教団当時から祀っていた『お曼荼羅』と、毘沙門天王を守護神として勧請。
十五年から中央に『南無妙法蓮華経』、右に『天壌無窮』、左に『異体同心』。
十七年から、毘沙門天王に代えて、大日如来を守護神に。二十年十月から、日蓮によって図顕された大曼荼羅であった」

毘沙門天から大日如来まで祀まつった佼成会の本尊雑乱はどこからきているかといいますと、副会長だった長沼妙佼の神がかりによるものと思われます。

「霊友会では、降神して啓示けいじを聞くことを重要な行としていた。(略)下がってくる〈神〉は、不動明王、八幡大菩薩、毘沙門天、七面大明神、日蓮大菩薩が主だった」

と日敬は自伝に書いています。要するに、本尊のない教団から分派し、本尊に迷う宗派に関係してきた佼成会が、まともな本尊が無いのは、もっともな道理です。

大白法・平成6年5月16日、6月16日、7月16日刊(第409・411・413号)新興宗教破折より