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荒唐無稽な禅問答ー臨済宗

 諸宗教破折2
一般的に、判ったような、判らないようなやりとりや、噛み合わない会話を、「禅問答」と言うことがある。
 ちなみに、これは例えであって、本来の禅問答は、臨済宗において、座禅と共にれっきとした修行とされている。
 師が弟子に対して、 正解のない問題(公案と呼ばれる) を与える。 すると弟子は、座禅や作務をしながら考えに考えて、回答する。
 そして師は、弟子の回答を聞いて、悟ったか否かを判断するのだ。
 全く仏説によらず、根も葉もない蒙昧な知見だけで、悟ったか否かを判断するとは、滑稽としか言いようがない。
無意味な禅問答
 「両手を打ち合わせると音がするが、片手にはどんな音があるか」「犬に仏性があるか、それともないか」など、これらの公案を考えたところで、何の意味もない。
 例えば、中国・唐の時代に出た倶胝和尚が天竜和尚に教えを乞うたところ、天竜和尚は指を一本立てて、それに応じた。その様子を見て、倶胝は悟りを得たというものがある。
 そして、悟りを得た俱和尚は、以来、「仏とは」と問うても、「衆生とは」「凡夫とは」と質問しても、一本指を立てて、その問いに応じたという。
 ある日、倶胝が留守の時に来客があった。客が、倶胝に仕える小僧に「あなたの師匠は、ふだんどのような説法をしているのか」と尋ねたところ、小僧は、師と同じように指一本を立てて答えたという。あとでそれを聞いた倶胝は、小僧の指を刀で切ってしまう。 そして、泣いている小僧に対して、倶胝が指一本を立てて示すと、その小僧は悟りを開いたというのだ。
 この悩乱した師弟関係のどこに、悟りを得る因縁を見ることができるだろうか。
現在の禅問答
 無意味な禅問答を大真面目に修行する姿は、悲しい限りだ。しかも現在では、その修行さえもがいい加減なものになっているらしい。
 日本の臨済宗十四派の中のある一派では、現在の禅問答に関して、〝通過しなければならない禅問答の数が多すぎる”ため、師が比較的早く、弟子の悟りを許してしまう傾向にあるという。
 つまり、公案が自己の本心を明らかにするための手段であるにもかかわらず、それよりも、通過した公案の数を早く数えることが重要視されており、本来の禅問答の意義を見失っているというのだ。
 もちろん、無意味な禅問答に価値はない。しかし、おもしろいのは、臨済宗の者たちが言うところの意義を失っても、数百年間、この荒唐無稽な禅問答が、現在に至るまで繰り返されているという事実である。
日蓮大聖人は、
「心の師とはなるとも心を師とすべからず」(御書六六九ページ)
と誠められている。
 五濁にまみれた凡夫の迷妄な心を師と仰いだところで、そこに悟りなど、ありはしないのだ。
増上慢の戯れ言
 臨済宗における仏の悟りとは、所詮、末法濁悪の凡夫の心に過ぎない。これは、自分は仏に均しいとする増上慢の姿そのものである。
 つまり、仏の教えを蔑ろにする故に、心に苦悩が充満し、現実生活に悪い結果として現われる。
 だからこそ、大聖人は臨済宗を含む禅の教えを「禅天魔」と厳しく破折されているのだ。
阿鼻地獄の罪人
『蓮盛抄』に、
「愚癡無慚の心を以て即心即仏と立つ。豈未だ得ざるを得たりと謂ひ、未だ証せざるを証せりと謂ふ人に非ずや。(中略)禅宗は理性の仏を尊びて己仏に均しと思ひ増上慢に堕つ、定めて是阿鼻の罪人なり」(同二七ページ)
ど御教示である。
「愚癡無慚の心」とは、正しい道理が判らず、自らを省みて恥じない心のこと。そのような心を師とし
禅問答をしても、末法の衆生は救われない。
 我々は、「即心即仏」を掲げる増上慢の者たちを一刻も早く折伏して、阿鼻地獄の苦から救っていかなければならない。
(大白法令和5年10月16日号より転載)

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