「無宗教 宝くじには手を合わせ」
「行事なら何でも祝う無宗教」
「宗教と思っていない初詣」
「無宗教 そんな気がする宗教家」
これらは『毎日新聞』の川柳コーナーに掲載された作品である。現代日本人の、宗教に対するイメージが端的に表われているようだ。
平成三十年、NHK放送文化研究所が行った全国調査によると、「自分は信仰している宗教はない」と答得た人は五割以上だった。
このように日本人の半数以上は「自分は無宗教である」と自認しているが、その実、先の川柳にあったように、正月には初詣、二月にはバレンタイン、お盆・彼岸にはお墓参り、十二月にはクリスマスと、一年中が宗教行事で大忙しである。日本人にとっての「無宗教」とは、一体何を意味しているのか。
「無宗教」という「宗教」
宗教学者の阿満利麿氏は自著のなかで、
「日本人の多くが『無宗教だ』というときには、『特定の宗派の信者ではない』という意味なので
あり、キリスト教徒など がいう『無神論者』ということではない」(日本人はなぜ無宗教なのか八ページ)と述べている。
同氏によると、日本には「創唱宗教」と「自然宗教」という二つの宗教が存在するという。「創唱宗教」とは、①教祖の教典、②教典、③教団の三つで成り立っている宗教のことであり、仏教、キリスト教、イスラム教、またいわゆる新興宗教もこれに当たる。
対して「自然宗教」とは、いつ、だれによって始められたかも判らない、自然発生的な宗教のことである。
たとえば、日本古来のアニミズム・八百万の神への信仰をはじめ、正月の初詣、お盆の帰省、先祖を大切にする、墓参をする、死者に献花するなどが「自然宗教」にくくられる。
また、政府関係者の靖国神社参拝、地方自治体の地鎮祭など、明らかな宗教的行為が、「習俗・儀式は宗教に含まれない」「布教行為でなければ宗教活動ではない」という理由で「無宗教」とされる風潮がある。
令和四年に行われた、安倍元首相の国葬も「無宗教形式」とされたが、その次第に含まれていた「黙祷」「献花」「お見送り」などは「自然宗教」に属すといえるだろう。
このように「無宗教だ」といっても、実は数々の瑣末微細な信仰をもっているのが、現代の日本人である。
「自然宗教」は”寸心”
これら有象無象の信仰の在り方について考えるとき
『立正安国論』の、
「汝早く信仰の心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ」(御書 二五〇)
との御文を改めて拝さなければならない。
総本山第六十七世日顕上心」人は、当文の「信仰」について、
「『私は無宗教者だ』と言う人であっても、何らかのものに対する『信』と、何らかの『仰』、つま
り仰ぎ尊ぶことによって過去から現在、そして未来にわたるその人の生活が存在するのです。どのような人でも、生活の中における何らかの信じ方があり、その意味において広く考えれば、信仰はあらゆる人が持っておるのです。『私はお金が最高で、お金を貯めることが一番大事だと思う』と言う人は、そういう信仰なのです」(御法主日題上人猊下御講義集立正安国論二七六)
と御指南されている。そして「寸心」については、「『寸』とは小さいということ、つまり小さな信仰
という意味で、偏った狭い信じ方を言います」(同)
と仰せである。
日本国中に存する、 ありとあらゆる信仰・習俗・儀式は、日蓮大聖人が説かれた「実乗の一善」 に対すれば、すべてが「信仰の寸心」なのである。
我々は、「自分は無宗教である」と言いながらも「小さな信仰」に執われる人々の眼を開かせ、「大きく正しい信仰」とは何か、大御本尊の功徳、真の幸福とは何たるかを伝え続けていかなければならない。
(大白法令和7年6月15日号より転載)