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新興宗教にだまされないために

諸宗教破折2

1/2/2017   新興宗教総括破折

新興宗教の発生の背景が、「食・病・争」の不安要素が社会全体に及んだ時に起こることは、既に述べましたが、新興宗教
に騙(だま)されて入信動機を起こすこともこれに比例します。(また最近では、これらに加えて「精神世界への幼稚な好奇心」が動機になるケースもみられます。)
経済的に苦しんでいる人はお金が欲しい、病気に苦しむ人は早く病苦から逃れたい、対人関係や社会闘争に悩み、極度のストレスを感じている人はそれを解決したい・・。残念ながら、現代社会でそれらの苦しみや悩みを根本から解決する方法を知らない人は、新興宗教の発する狂言におおどらされ、うっかり飛びついてしまう傾向にあります。
既成宗教では、これらの問題を即効的に解決し、表面的に満足させるといった手法をあまりとりません。
そこに「病気が治る!」だの、「金持ちになれる!」だのという宣伝文句を無責任に垂れ流す新興宗教が現れて、信者を増やしていく状況があります。

現世利益や奇跡話を吹聴する新興宗教
新興宗教は概(がい)して、「病気治し」を大々的に宣伝して大きくなってきました。
天理教、金光教、霊友会、生長の家などはその典型であるといえます。
何かの新興宗教に入って、教祖の祈祷(きとう)や、ヘンンテコな修行の結果、たまたま病気が治ったりすると、それに後から尾ひれが付いて大変な奇跡体験や御利益話になったりします。
こうした奇跡信仰的な御利益こそが、新興宗教の教義そのもの、骨格であるともいえます。
また、カリスマ教祖の霊能力。超能力やらを喧伝(けんでん)して、人々の興味を惹(ひ)こうとする者たちもいます。
例えば、かのオウム真理教(現アーレフ)の麻原彰晃が水中に何十分も潜っていられたとか、座ったまま何十センチも飛び上がったなどという奇想天外な話がこれに該当します。
いずれにしても、病気治しを大々的に宣伝したり、おかしな祈祷や怪しい修行による、精神的・奇跡的な話を掲げたり、カリスマ教祖の霊能力やらを宣伝広告にして興味を惹こうとするなど、現世利益や奇跡話を吹聴して、さまざまな手法で迫ってくるのが新興宗教です。

巨利をむさぼる詐欺宗教
宗教法人を取得すると免税特権があります。
多くの新興宗教法人は金儲けシステムとして存在すると言っても過言ではありません。布施や寄付だけでなく、教団が出版社を持ち、教祖の著書を信者に売りつけて金儲けしたり、中には「本を読んだだけで病気が治る」というような馬鹿げたことを宣伝している宗団も多くあります。
また、統一教会のような霊感商法もありますし、一時、世間を騒がせた法の華三法行(ほうのはなさんぽうぎょう)の足裏診断で「ガンになるぞ!」等と脅して大金を巻き上げたり、高額な品物を買わせたりなどの悪質な例も数多く存在します。
また、「たくさんのお金を出せば、それだけ大きな御利益がある」「あの人は百万円も寄付した。あなたも頑張りなさい」などと信者を煽って大金を出させる教団も少なくありません。
結局、「幸せになりたい」と願う心に付け込んで、巨利をむさぼる宗教の名を悪用しているのが新興宗教なのです。

なぜ新興宗教にだまされてしまうのか
一見、世間の常識を弁(わきま)えていれば、冷静に判断できそうな話と思えます。しかし、実際、医学博士や化学者などといった、高度な教育を受けてきた人たちが、いい加減な教祖の妄言に騙(だま)され、マインドコントロールされ、挙句は、反社会的な行為を犯したり、殺人などの重犯罪に安易に手を染めるというような、新興宗教関係者による奇怪な事件が後を絶ちません。
これらの新興宗教の落とし穴に落ちてしまう人が後を絶たないのはなぜでしょうか。
そこには、現代の日本人の悪しき宗教観の背景になった明治以降の宗教政策や、敗戦後の基本的教育の欠如として「日本国民の宗教ばなれ」が強く影響しています。

日本国民の宗教離れ
日本国民の宗教離れ

要するに、現代の日本国民は、宗教に対する定まった物差しを持っていないということです。

新興宗教に騙されないために
宗教の正邪を判断する方法として、「文証・理証・現証」の三証があります。つまり、教えの基をなす経典を根拠としているか(文証)、またその教えそのものが道理に適っているか(理証)、そしてその宗教を信仰して実証が現れるか(現証)ということです。
この三証に照らして判断し、如何に新興宗教が狂言や洗脳に満ちた邪宗教かを知る事が大切です。
また、総本山第二十六世日寛上人は、『法華題目抄文段』に「疑い無きを信と曰(い)う」の義について、天台大師の『摩訶止観』に説かれる「三つの疑い」と、それを解釈した妙楽大師の『弘決』の文を併用して、次のように示されています。

「止観の第四五十六に三種の疑を明かす云云。弘(ぐ)の四の末四十四に云(い)わく『疑いに過(とが)有りと雖(いえど)も然(しか)も須(すべから)く思択(しちゃく)すべし、自身に於いては決して疑うべからず。師法の二は疑いて須く暁(あきら)むべし。故に応(まさ)に塾(よ)く疑い善く思い之(これ)を択(えら)ぶべし。疑を解(げ)の津(しん)とすとは此れの謂(い)なり。師法己(すで)に正ならば、法に依って修行せよ。爾(そ)の時、三疑は永(なが)く須く棄(す)つべし』」
(日寛上人 御書文段 六五五)

つまり、「仏教では、疑うことは決してよいことではないけれども、しかし疑うことを通してよく考えて選択しなさい。 ただ善悪・迷悟の両面を具えていても妙法に縁して成仏の主体となるべき自分自身に対しては、疑ってはいけません。
しかし、信ずべき師匠と法、この二つについては一度、疑ってみた上で、冷静に判断すべきです。
もし一度も疑わないで頭から信じ込んでしまうと、その時に誤った師や法に騙される危険があります。
だからこそ、一度疑って、よく考えた上で、択(えら)びなさい。
疑ういうことが物事を正しく理解する出発点になるということです。そのようにして、師と法がすでに間違いないことがはっきりしたならば、その法によってしっかりと修行に励みなさい。
そしてその決断ができた時には、(先の)三つの疑いを永く棄てなさい」と御指南されています。
もし、周りに新興宗教の狂言や洗脳に誑(たぶら)かされている人がいるのであれば、具体的に「あなたの宗教の教祖が本当に救ってくれるかどうか一度、冷静に考えてごらん」とか、「あなたの教団では、奇跡話や御利益話ばかりを言うけれど、それが現実離れしていると思わない?」と、「疑う」ことから物事を正しく理解する方法を教えてあげることが大切です。
少し勇気がいるかもしれませんが、疑いを持たせてあげることこそが、新興宗教の呪縛(じゅばく)から早く救うきっかけになると思います。

(妙教 平成二十四年 3月号)

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