光明
総本山第二十六世日寛上人は『観心本尊抄文段』で、
「夫れ鳳凰は樹を択んで栖み、賢人は主を択んで仕う。況んや仏法を学ぶ者、寧ぞ本尊を簡択して之を信行せさるべけんや」(御書文段二〇六ページ)
と仰せられ、信仰の対境である本尊を正しく笑定することの大事を指南されている。
ひるがえって現今の状況を見ると、日本の宗教人口が総人口をはるかに上回ることに代表されるように、自己の救済を宗教に求めながらも、宗教に対する無知・無節操によって苦悩に喘ぐ人の多く存在することを知るのである。
そこには、仏法の内に在って迷う人と、ムス界の宗教で迷う人との二種類があるが、いずれも「本尊を簡択」していない人であることは言うまでもない。
幸いにして本宗の僧俗は、末法の御本仏・宗祖日蓮大聖人の大慈大悲に浴し、値い難き本門三大秘法を受持し、日夜、信行に励んでいる。
その三大秘法の随一たる本門戒壇の大御本尊について、日寛上人は同書の冒頭に、
「此の本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の妙用有り。故に暫くも此の本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざる無く、罪として滅せざる無く、福として来たらざる無く、理として顕われざる無きなり」(同八九ページ)
と、その功徳の無量無辺なるを指南されるが、尊極無上の大御本尊に値い奉った我が身の福徳に感謝し、御本仏の広大なる御恩徳に報い奉るべく、一層の精進を誓わなければならない。
すなわち、我々は、「若し正 境に非ずんば、仮令信力・行力を励むと雖も仏種を成せず」(同 二0六ページ)
との御指南を旗印として、未だ「正境」たる本門の大御本尊を知らさる邪教の徒に対し、高らかに法鼓を打ち鳴らしてその邪義を責め、捨邪帰正の折伏行を推し進めていこうではないか。
(明正)