(令和6年6月2日 於 総本山客殿)
本日は、本年6月度の広布唱題会に当たりまして、皆様方には新型コロナウイルス感染症の蔓延によって、何かと御不便のなか、信心強盛に出席され、まことに御苦労さまでございます。
さて『南条兵衛七郎殿御書』を拝しますと、
「いかなる大善をつくり、法華経を千万部書写し、一念三千の観道を得たる人なりとも、法華経のかたきをだにもせめざれば得道ありがたし。たとへば朝につかふる人の十年二十年の奉公あれども、君の敵をしりながら奏しもせず、私にもあだまずば、奉公皆うせて還ってとがに行なはれんが如し。当世の人々は謗法の者としろしめすべし」(御書 322㌻)
と仰せであります。
この御文意は「いかなる大善、すなわちこの上ない善行を行い、法華経を千万部も書写し、一念三千の御法門を知ることを得た人であっても、法華経の敵、つまり邪義邪宗の謗法を責めなければ、折伏をしなければ、得道することは難しい」と仰せられているのであります。
これは、自行化他の信心の上から申せば、自分のためだけの信心に止まって、邪義邪宗の謗法をそのまま放置して折伏をしなければ、大善とはならず、得道することは難しいと仰せられているのであります。
それはあたかも、十年、二十年と朝廷に仕えている者が、朝廷に刃向かう敵がいることを知りながら、それを上の者にも知らせず、また自らも責めず、そのまま放置するようなことがあれば、今までの御奉公は皆、失せて、かえって罪になるようなものであり、したがって、謗法の者に対しては敢然として折伏をしていかなければならないと仰せられているのであります。
本年、宗門は「折伏前進の年 一歩でも二歩でも!!」との標語のもとに、日本のみならず世界中の法華講の同志が一天広布を目指し、僧俗一致・異体同心して果敢に折伏を行っております。
かかる時に当たり、私ども一人ひとりが『持妙法華問答抄』の、
「過去遠々の苦しみは、徒にのみこそうけこしか。などか暫く不変常住の妙因をうへざらん。未来永々の楽しみはかつがつ心を養ふとも、しゐてあながちに電光朝露の名利をば貧るべからず。『三界は安きこと無し、猶火宅の如し』とは如来の教へ『所以に諸法は幻の如く化の如し』とは菩薩の詞なり。寂光の都ならずば、何くも皆苦なるべし。本覚の栖を離れて何事か楽しみなるべき。願はくは『現世安穏後生善処』の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後世の弄引なるべけれ。須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき」(同 300㌻)
との御金言を拝し、まさに今こそ、私達人ひとりが決然として立ち上がり、一天広布を目指して、勇猛果敢に折伏を行じていかなければならない大事な時を迎えていることを自覚され、講中一結・異体同心して本年度の折伏誓願達成へ向けて大前進をしていくことが肝要であります。
大聖人様は『唱法華題目抄』に、
「末代には善無き者は多く善有る者は少なし。故に悪道に堕せん事疑ひ無し。同じくは法華経を強ひて説き聞かせて毒鼓の縁と成すべきか。然れば法華経を説いて謗縁を結ぶべき時節なる事諍ひ無き者をや」(同 231㌻)
と仰せであります。
「毒鼓の縁」とは、既に皆様には御承知の通り、太鼓に毒薬を塗り、大衆のなかにおいてこれを打つと、その音を聞こうとする心はなくとも、聞く者すべてが死ぬという。つまり、法を聞こうとする心はなしといえども、これを聞けば、やがて煩悩を断じて得道できることを、毒薬を塗った太鼓を打つことに譬えているのであります。
すなわち、一切衆生には皆、仏性が具わっており、正しい法を聞き、発心修行することによって成仏できることを示されているのであります。
されば私ども一同、『持妙法華問答抄』
の「願はくは『現世安穏後生善処』の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後世の弄引なるべけれ。須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき」との御金言を拝し、講中一結・異体同心して、お互いが声を掛け合い、励まし合い、一天広布へ向けて敢然として折伏を行じ、いよいよ自行化他の信心に励まれますよう心から願い、一言もって本日の挨拶といたします。
(大白法 令和6年6月16日 より転載)