郭巨の得釜(とくふ)
郭巨の字(あぎな)は文誉である。
彼の家は大変貧しく、母と妻と三人で慎ましく暮らしていた。やがて妻は子供を出産し、いよいよ生活が苦しくなってきた。子供も三歳となり、育ち盛りで食べる量も増えてきたので、母はいつも自分の食べる分を減らして孫に与えていた。
そのうち一家の貧困が極めて厳しくなり、抜き差しならぬところまで逼迫したので、郭巨は妻に向かって「わが家は貧乏なので全員が生きていけない。お前は子供を連れて一緒に坑(あな)を掘って死んでほしい。子供はまた産むこともできるが、母は一人しかおらず、再び得ることができないからだ」と言った。妻は主人の言葉に逆らわず素直に頷いた。
郭巨は三尺余りの坑を掘ると、そこから黄金の釜を発見した。これは天が孝行の郭巨を賞し、くれたものであり、役人も人々もけっして郭巨の釜を奪うことも、取ることもできないのである。
郭巨の得釜の故事の出典は蒙求(もうぎゆう)である。郭巨は中国後漢の人で、二十四孝の一人であり、孝行を早くせば必ずその報いがあることの譬えである。
日寛上人は「世の中の人は、親を思う気持ちは子供を思う気持ちの一分にも相当しない。子を埋めて母を養おうとする志は至信の孝養である」と仰せである。
深沢七郎氏の「楢山節考」は、この故事とは逆に口べらしのために、最も老い先短い母を山中に捨てるオバステ山の伝説を記した小説で、何ともやりきれない思いで読んだが、民族学者・和歌森太郎氏の「山伏」という本で、これはフィクションであって棄老の習俗は日本にはないということを知って安堵したことを思い出す。
(歴代法主全書八巻)
(高橋粛道)