創価学会
7/2/2018
怨念の任用試験
創価学会では先日、”教学部任用試験(仏法入門)”なるものを実施した。これに合格すると”助師”という称号が与えられるらしい。
その出題内容には、他宗教への破折は皆無なのに、「日顕宗を破す」という項目があり、その教材に、
「日蓮大聖人の正統を伝えるはずでありながら、その役割を放棄して堕落(だらく)し『法華経の敵(かたき)」となった日蓮正宗(日顕宗)の誤りを糾(ただ)します」(教学入門 11㌻)とある。
「破す」とは威勢がよいが、すべて宗門から破折され尽くした内容であり、そもそも、世界中どこを探しても
「日顕宗」なるものは存在しない。
悩乱した学会執行部が邪念・怨念から、また、内部結束のため仮想敵として作り上げた空想の産物だ。
出生の本懐を改変
他にも教材には、「熱原の法難において、三大秘法の南無妙法蓮華経を受持して、不自惜身命の実践で広宣流布する民衆が出現したことにより、世界中の人々を救うための日蓮大聖人の民衆仏法が現実のものとなりました。このことにより生涯をかけた根本目的、『出生の本懐』を達成された」
(同 一九㌻)
とある、この文章のどこが間違っているのか?
答えは、熱原法難は本懐成就の機縁ではあるが、”本懐そのものではない”ということ。
学会が破門後の平成十二年に発行した『仏教哲学大辞典第三版』にも、
「日蓮大聖人の出生の本懐は一閻浮提総与の大御本尊の御建立であり、弘安二年(一二七九年)十月十二日成就された」(同書 八七五㌻)
と正解が載っている。
昔の創価学会では『聖人御難事』の、
「余は二十七年なり」(御書 一三九六㌻)
を文証として、「本門戒壇の大御本尊図顕こそが出生の本懐なり」と、小樽門答などで舌鋒(ぜっぽう)鋭く身延・日蓮宗を破折してきた。
その先輩たちの信心を汚し、現執行部は自分たちの都合で、御本仏の出生の本懐を改変してしまった。
大御本尊は総体の本尊
大御本尊を軽視する邪義は目に余る。
「日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼荼羅と、それを書写した本尊は、全て根本の法である南無妙法蓮華経を具現されたものであり、等しく『本門の戒壇』である」(聖教新聞 平成二十六年十一月八日付)
と述べる、大御本尊だけが特別ではないとの愚論もそうだ。
大聖人の御本尊には、個人に授与された一機一縁の御本尊や、特別な意義・目的のもとに顕わされた御本尊と、その御顕発(けんぱつ)には凡下(ぼんげ)の窺(うかが)い知れない御仏意が存する。その本懐究竟(くきょう)が大御本尊であることは、
「日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊は、日目に之を相伝す。本門寺に懸け奉るべし」(御書 一八八三㌻)
との御示から疑う余地はない。大御本尊を唯授一人の御相伝によって伝持し、未来永久に大石寺に奉安申し上げることが、宗開両祖の御遺誡である。
また、総本山第二十六世日寛上人が、
「本門戒壇の本尊は応(まさ)に是れ総体の本尊なるべし、是れ則(すなわ)ち一閻浮提の一切衆生の本尊なるが故なり。自余の本尊は応に是れ別体の本尊なるべし」
(御書文段 二四三㌻)
と御教示のように、大御本尊は、一切の御本尊の本体・根源であり、全世界の一切衆生が受持信行すべき唯一総要の尊体、故に総体の本尊と申し上げる。
そういえば、大御本尊を受持しないと放言した最近の学会から、「一閻浮提総与の大御本尊」との呼称をとんと聞かない。
破門直後は池田大作も、
「大聖人の出生の本懐である一閻浮提総与の大御本尊が信心の根本であることは、これからも少しも変わらない。(中略)純真な『信心』の一念で唱えた題目は、即座に大御本尊に通じていく」
(聖教新聞 平成五年九月十九日付)
と強がってみせたものだが、今は逃げ隠れするしかない・・・か。
(大白法 第九八四号 平成三十年七月一日)