Q&A 創価学会員の言い分に答える
A.あなたは何のために議論したいのですか。法義を論ずるのは、日蓮大聖人の御真意を知り、正しい信仰をするためでなければなりません。
日蓮正宗においては、教義に関する正否の裁定は、血脈付法の御法主上人の権能と定められています(宗規第七条)。
それは、日興上人が、
「御抄を心肝に染め極理を師伝して云々」 (日興遺誠置文・御書一八八四頁)
と仰せられるように、日蓮大聖人の御書と、それを誤りなく解釈するための「極理の師伝」を根本とするからです。
ところで、「御書だけ」に限定して議論したいと言うところを見ると、創価学会にとっては、日興上人以来の相伝がよほど都合が悪いようですね。
日蓮正宗では、教義・信仰に関して、御書の文言として直接著されない事柄であっても、血脈相伝に基づく御指南であれば、それが宗祖大聖人の御真意であると拝しますから、御書にないからといって、信仰の上で、すこしも困ることはありません。
それに対して、「御書根本」と称して御書以外の御歴代上人や歴代会長の言葉を拒否しなければならない創価学会は、さぞかし説明に困ることが数多くあるのではないでしょうか。
あなたが、どうしても御書の文言にないものは信用しないと言うならば、まず次の問いに答えなさい。
(一)創価学会では日蓮大聖人を末法の御本仏と崇めていますが、「日蓮は末法の本仏なり」とする直接的な御書の文証を挙げなさい。
(二)創価学会が言う「在家教団でも御本尊を認定できる」とする御書の文証を挙げなさい。
(三)在家の者が葬式の導師を勤めてもよい、という御書の文証を挙げなさい。
(四)御本仏日蓮大聖人のほかに仏法上の「永遠の師」を立ててもよい、という御書の文証を挙げなさい。
また、あなたが御書の文言を忠実に実行する「御書根本」の人ならば、まず手始めに『報恩抄』の、
「本門の教主釈尊を本尊とすべし」(御書一〇三六頁)
の御文のとおり、釈尊の仏像を拝むべきです。
この一事をもってしても、創価学会がはてしない矛盾のスパイラルにおちいっていることは明らかです。
しかも、御本仏日蓮大聖人の出世の本懐たる人法一箇の大御本尊を放棄した創価学会が、いずれは日蓮大聖人をも放棄することは誰の目にも明らかです。
そうなれば、創価学会の言う「御書根本」も死語になってしまうのです。
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