目を開いて本当の姿を見よう。 創価学会

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創価学会
6/16/2019

変容著(いちじる)しい創価学会。平成三年の破門を境として、まるで別物になった。
勤行方式と観念文も変えた。僧侶に依(よ)りたくないため、塔婆や戒名は不要なものと会員に教え込んだ、さらに、『ニセ本尊』を作製・販売し、会則の改悪に次ぐ改悪。

変わりすぎだ
極めつけは、本門戒壇の大御本尊に対する信仰の放棄だが、三十年足らずで教義がこれほど変わるのは、宗教団体として、どうにもおかしい。試合中の選手交代とは話が違うのだ。
コロコロと教義が変わることでさえ異常事態なのに、本尊を変更するなど、もってのほか。
世間一般の会社であれば、経営方針などの変更も、あり得よう。しかし、事は信仰の話、人生の幸・不幸と密接に関わる問題だ。宗旨の根幹である本尊を変えるのなら、それはつまり、宗旨替えではないか。
会員たちに「どうして今になって戒壇の大御本尊への信仰を放棄したのか」と問えば、「世界広布新時代の、今の ”時”に適(かな)った在り方だ」などと答える。

邪教だから変わるのだ
だが、信仰の対象である「本尊」が変わるなど、あってはならない。本尊や教義は、どんなに時代が変わったからといって発展も前進もしない。
日蓮正宗の根幹は二つ。
本門戒壇の大御本尊と、唯授一人の血脈法水(けつみゃくほっすい)であり、恒久不変の法であるが故に、三世に亘(わた)って一切衆生を成仏の幸福境涯に導くことができる。
今の学会員は恐らく、「令法久住(りょうぼうくじゅう)」という言葉を、聞いたことも見たこともないのだろう。
そういう訳で、今の創価学会には、教義変更の各段階で入会した人たちが、等しく「学会員」として存在している。ということは、いくつかの宗旨が創価学会の一団体に混然としているわけだ。

変わらぬ悪癖
だがしかし、事によっては変えなくてはならないものもある。
例えば、創価学会の攻撃体質。宗門を誹謗中傷する悪癖は全く変わらず、創価新報では今なお、御法主上人猊下をはじめ、僧侶への罵詈雑言(ばりぞうごん)が並ぶ。
血脈否定や総本山大石寺の悪評など、既に日蓮正宗によって破折し尽くされたことを掘り起こしては、負け犬の遠吠えよろしく、いつまでも言いがかりをつけてくる。
こうした宗門攻撃は、凪(な)いできた会員たちの気持ちを炊(た)きつけ、「憎き宗門」という命題のもと、心を一つにするためのものでしかない。
「ルサンチマン」という哲学用語がある。「恨みの心」を意味し、強者に対して仕返しを欲(ほっ)して鬱結(うつけつ)した念を言う。正(まさ)しく学会も活動家の学会員もルサンチマン、無慈悲で歪(ゆが)んだ心のまま、ただ恨み辛(つら)みに生きている。およそ「幸福」から遠い境界だ。
一方で、本紙に脱会した方々の体験もたくさん載っているように、変われる人もいる。
例えば、本年二月十六日(九九九)号に、活動家(いわゆるバリバリの創価学会員)だった方の体験が掲載された。原田会長の前で体験を発表したり、選挙活動に励んで聖教新聞に取り上げられたりするほどの、熱心な池田教信者だった。
しかし、親族の脱会を契機に、インターネットで学会について知らべ、疑いを持つに至る。そして、親族の折伏に耳を傾けるようになり、ついに勧戒を受けた。きっかけと勇気があれば脱会できるのである。

※日蓮正宗 体験発表ページ
「家族を創価学会から取り戻すんだ 」参照

変わろう勇気を出して!
会員諸君よ、そろそろ池田大作を崇拝したり、幹部の話を鵜呑(うの)みにするのはやめて、色眼鏡を外し、自分の目で見、頭で考えよう。
先入観を捨て、己(おのれ)の眼で学会を外からよく観察してみてはどうか。
寺院に足を運び、僧侶や法華講員から「創価学会の何が間違っているのか」を詳しく聞いてみよう。慈悲の心で、懇切丁寧に話してくれるに違いない。
必要なのは、本当の幸せを手に入れるため、これ以上人生を無駄にしないため、今、一歩を踏み出す勇気だ。

(大白法 第一〇〇六号 令和元年六月一日)