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国立戒壇(こくりつかいだん)論の誤りに関する一考察

諸宗教破折
2/3/2020

国立戒壇は国語的・歴史学的にも大きな誤り!
固執(こしゅう)して教義を改変する顕正会員は堕地獄必定(だじごくひつじょう)

総本山塔中・久成坊住職 関 快道御尊師

御本仏日蓮大聖人は『四菩薩造立抄』のなかで、
「決定している御法門を勝手に我見で曲げて改変する人は、全く天魔が身に入った者で、その人はもちろん追随する人も、共に必ず無間地獄に堕(お)ちるのである。つたない (劣って愚かな)ことである。この法門は数年来あなた(富木殿)にしっかり申し伝えてあるように、 ほかの人にも教えていただきたい。すべて日蓮の弟子と名乗って法華経(御本尊)を修行しようという人々は、日蓮が教えたとおりに信心修行しなさい」(趣意・御書一三七〇頁)
と仰せです。
この御書から学ばなければならないことは、
一、自分が正しく信心修行しているかどうか、大聖人がお教えくださったとおりの信心修行に励んでいるか、我見を入れて「似て非
なる信心」をしていないか常に反省点検していかなければいけない、という事であります。
一、よって私たち大聖人の仏法を信心修行する者は先達の僧侶や信心の先輩から「あなたの信心修行の姿勢は正しくない」と指摘されたなら、謙虚に反省することが大切です。ただし、その指摘が納得できないときは、遠慮なく質問すべきであります。
一、大聖人は盲信·狂信を強く否定されました。『開日抄』に
「智者に我が義やふられずば用ひじとなり」
(御書五七二頁)
と仰せのとおりです。すなわち「(私は既に邪義邪宗を総て論破破折し尽くしてあるので) 私より優れた智者が現われて、私の法義が打
ち破られない限り、他宗の法義など受け入れません」
と、堂々と仰せです。ということは大聖人にはどんな質問をしてもよい、大聖人は何でもお答えくださるのです。大聖人は確信(自分
の知識、教養、体験等総動員して思考しても、本当だから信ぜざるを得ないということ)を最も大切にされました。
以上の前提から論じます。
国立戒壇が大聖人の教えを改変したものなら、顕正会は、浅井会長以下全員が無間地獄に堕ちます。
また国立戒壇論が大聖人の正しい教えであるなら、否定した日蓮正宗僧俗は全員無間地獄に堕ちることになります。

第一章 文証
顕正会が国立戒壇論の文証としているのは、次の『三大秘法抄』の文によると思われるので、原文 (平成校定御書)、書き下し文、現
代語訳文で示します。

一、原文(平成校定御書)
戒壇者王法冥[二]仏法[一]、仏法合[二]王法二[一]、王臣一同に本門の三秘密の法をたもちて、有徳王覚徳比丘の其
乃往を移[二]末法濁悪未来二[一]時、勅宣井に御教書を申下て、尋[下]似[二]霊山浄土[一]最勝地[上]可[レ]為[二]戒壇建立[一]者歟。
可[レ]待[レ]時耳。事の戒法と申は是也。

二、書き下し文
戒壇とは、王法仏法に冥(みょう)じ、仏法王法に合して、王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて、有徳王(うとくおう)・覚徳比丘(か
くとくびく)の其の乃往(むかし)を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣(ちょくせん)並びに御教書(みぎょうしょ)を申し下して、霊山浄土 (りょうぜんじょうど)に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立すべき者か。時を待つべきのみ。 事の戒法と申すは是なり

三、 現代語駅
本門の戒壇とは、王法(世間法) が仏法 (正法) に冥合し、仏法が王法と合一して、国王家臣が一同に本門の三大秘法を持って、過去に正法を護持した有徳王、正法の僧である覚徳比丘の、護法の事跡を末法濁悪の未来に移す時、天皇の勅宣並びに将軍の御教書をいただいて、霊山浄土にも似た最勝最適の土地を尋ね求めて本門の戒壇を建立すべきであろうか。時を待つべきのみである。事の戒法(広宣流布の暁(あかつき]に本門戒壇の功力が全世界に光被 [こうひ] すること)とはこれである。
すなわち社会の理想とこの正法の精神が一体となって本門の三大秘法を受持して、昔、有徳王が命を賭けて覚徳比丘を守り抜いたように、この正法を確実に守れる体勢が実現したならば、天皇の勅宣、並びに幕府の御教書を受け取り、霊山浄土に似た最適な場所を選定して本門の戒壇を建立すべきであろうか。その時を(努力しながら)待つべきである。 真実の事の戒法とはこれである、の意と拝せます。
以上、『三大秘法抄』の原文、書き下し文、現代語訳です。

第二章 道理
それでは、この『三大秘法抄』の御金言が、「国立戒壇論」の論拠になるか、検証します。
日蓮正宗宗門は、

文中の勅宣·御教書は主権在民の今日において必ずしも必要とはいえず、また国立戒壇論は大聖人の教義ではない」

と断定しています。
顕正会は文中の勅宣-御教書は戒壇建立に当たって絶対必要な条件であり、勅宣並びに御教書を受け取ることができなければ絶対に建てては
ならない、というのが大聖人の教義である」
と断定しています
正邪を判定するに当たり、私は、原文の「可建立戒壇者歟」の「歟(か)」の一字で、国立戒壇論が大聖人の教義ではないことを証
明します。
まず、「歟」の字を『大漢和辞典 巻六』(諸橋博士著)に見ると、その意は

1、気がゆるくやすらかの意.
2、句中の助辞(句中に置いて語気を緩うする助辞)
3、か、や(語末の助辞。疑問,推測·不定,感嘆の意を表す緩詞)
4、興 (よ·与)に通ず
5、あるいは欤(か)に作る

と説明されています。
すなわち、多くの人が入信し、広宣流布が成就したと言えるような状況になった時、その時代の政治社会体制が現在(大聖人御在世)と同じようなものなら、伝教大師が天皇や朝廷の許可を受けて初めて比叡山延暦寺に法華経迹門の戒壇を建立したように、本門の戒壇も天皇の勅宣と将軍の御教書を得て建立すべきものであろうか(未来のことゆえ現時点では断言できない)
と、仰せになっているものと拝します。
けっして、「何が何でも勅宣並びに御教書を得て建立しなければならない。 得られないなら絶対に建立してはならない」の意味にはなりません。 その意味にしたいなら、「屹度 (きっと)」か「必ず」の文字が、勅宣と御教書の前に置かれなければなりません。
すなわち原文が「蛇度勅宣井に御教書を申下て、尋似霊山浄土最勝地可戒壇建立(必ず勅宣並びに御教書を頂戴し、霊山浄土に似た最勝の地を探して、戒壇を建立しなさい)」という断定的命令文となるはずです。
もちろん、建物の建立にあたって法律上必要な手続きは必要ですが、国家の許可が必要とはなりません。

第三章 時代的背景
近代国家はその役目としして、「環境の整備 (行政)」と「治安の維持(立法と司法)」の二つを具(そな) えます。それ以外の、何が真理であるか、何が正しい宗教か、何が正しい思想であるか等ということに関して、 国家は一切関与しません。いわゆる思想·信教の自由であり、何が正しいかは個々人が判断決定してください、という態度です。
もちろん極端に公序良俗に反し、国民が精神的に、肉体的に、経済的に実害を被(こうむ)るようなものは、国家権力が最小限の介入をすることはあります。
しかるに、古代国家は先の二つに加え「真理の裁定権」も持っていました。
国家が「真理の教え、正しい宗教」と認定したものだけが、布教を許されたのでした。国家が認定しないものは無視、放置、もしくは邪教として迫害。弾圧を受けたのです。
このような時代の下で伝教大師は法華経迹門の戒壇を建立しようとしたものの許可されず、死後、ようやく勅許(ちょっきょ)が下りて建立できました。 大聖人はそのような国情を鑑(かんが)みられ、「勅宣、御教書」という国家の許可が下りないと戒壇律立が不可能な時代だったので、そう言われましたが、一方で未来に現在のような信教の自由という時代が到来することも配慮され、「歟」の文字を書かれたものと拝します。

将来、信教。思想の自由が剥奪(はくだつ) され、再び国家が思想。信教の裁定権を掌握(しょうあく)したなら、勅宣と御教書が必要な時代を迎えることになります。しかし、それは恐ろしい時代です。
第二次世界大戦以前、明治憲法ではいちおう法律の範囲内において信教の自由が保障されていましたが神道は国教に近い位置を占めていました。 日本国民は半強制的に神社に拝礼させられていたのです。国立戒壇という言葉が生まれたのも理解できる政治社会体制でした。
現憲法において、初めて国民は完全な信教の自由を得ました。 再び戦前のような時代が来ないよう、政治を厳しく監視していかなければなりません。
第六十六世日達上人は「大聖人の教義でないもの(似て非なるもの)が流布してもそれは広宣流布ではない」と警告されました。一方、国家の枢要な地位にある者がほとんど入信する、日本の指導的地位にある人が皆入信する、 そのような時代が必ず来ることを「未来の大理想として確信する」と仰せられました。
顕正会の皆さん、大聖人の仏法は、時間的にも空間的にも最高絶対の真理です。天皇や将軍が認めないと真理として通用しない、という卑小(ひしょう)なものではありません。 寡聞(かぶん)により事実かどうか知りませんが、間違っても「現憲法を改正して国立戒壇が建立される暁には、一切の邪義邪宗を禁止する」とか「誇法の者の命を奪うのは国主の権能である」などの、国民が恐怖を感ずるような発言はしないでください。 それほど大聖人を卑(いや)しめ、辱(はずかし)め、大法を下げる言葉は他にありません。
大聖人は迫害し敵対してくる者に対して

「日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信(かげのぶ)、法師には良観(りょうかん)・道隆(どうりゅう)・道阿弥陀仏(どうあみだぶつ)、平左衛門尉(へいのさえもんのじょう)・守殿(こうどの)ましまずんば、争(いか)でか法華経の行者とはなるべきと悦ぶ」
(御書 一〇六三頁)

と仰せです。
広大無辺な御本仏の大慈悲に感涙あるのみです。
邪義邪宗などは広宣流布の暁には「施(せ)を断たれ」ることによって自ずと消滅するものなのです。
今の私たちは、信教の自由を主張できる大変有り難い時代に信心修行を謳歌(おうか)しています。
であるなら、命をかけて正法をお教えくださった御本仏日蓮大聖人への御報恩謝徳のため、広宣流布を目指し、折伏に励み功徳を積み重ね、確信と歓喜に満ちた日々を共々に送りたいものです。
その姿こそ、大聖人が最もお歓(よろこ)びくださるものと確信いたします。

第四章 結論
一、国立戒壇論は大聖人の教えを改変した堕地獄の論であることを認めるべきと思いますが、いかがでしょうか。
一、国立戒壇論はまったく大聖人の教義ではなく、そのような主張は、現憲法で保障されている信教と思想の自由を剥奪するものではないか、という一般国民の不安と誤解を招き、かえって布教の障害になり「法を下げる」ものであることを認めるべきではありませんか。
一、認めるなら、近くの日蓮正宗寺院に赴(おもむ)き、日蓮正宗信徒即ち法華講員になり、一緒に信心修行に励みましょう。
私は、まがりなりにも本門戒壇の大御本尊を渇仰恋慕(かつごうれんぼ)する顕正会の方々が、同信の人となって共に大御本尊を拝し、大歓喜に打ち震える日がまいりますことを、ただただ願っています。
ただし、もし本論に反論されるというなら、必ず全文を挙げた上で反論願います。
某団体のような切文的反論は、持論の自信の無さを証明するだけです。

(慧妙 令和二年二月一日)

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